今日の記事は、ルカの福音書にだけ記されている七十二人派遣の記録である(1節)。私たちは主の弟子として、今日の記事から宣教について教えられることを汲み取っていきたいと思う。

今日の区分から、場面はユダヤ伝道となる。最初、主イエスはガリラヤ地方で伝道をされていた。バプテスマのヨハネがその先駆者となった。後半では十二使徒宣教団も結成した。ガリラヤ伝道を全うされると、今度は首都エルサレムがあるユダヤ地方の伝道に赴かれた。途中、主イエスは、ユダヤ人が避けて通ることが多いサマリア地方を通られた(9章51~56節)。サマリアルートを選択されたのは、そこで伝道するためである。主イエスは、先にサマリヤの町や村に弟子たちを遣わし、そして主イエスもサマリヤ入りをしたが、この地方の人々の心は非常に固く、神の国の福音に心を開かなかった。

そして、いよいよユダヤ伝道である。「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」(1節)。主イエスの宣教の基本パターンは、先に弟子たちを遣わして神の国が近づいたことを宣言させ、次に、神の国の王である主イエスがあとから赴いて、神の国がその人の現実となるというものである。

「七十二人」という数字だが、欄外註は異本「七十人」とあり、新改訳第三版では、本文で「七十人」と記されていた。どちらが原著に記載されていた数字なのかは断定できないのだが、「七十二人」が妥当だと判断されている。主イエスは、この七十二人を遣わすにあたり、様々な指示を与えているが、それらをまとめると、弟子たちの三つの責任を読み取ることができる。

第一は、宣教のための祈りである。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」(2節)。新約の手紙を読むと、パウロは諸教会に対してとりなしの祈りを要請している。みことばを語る機会が与えられるようにとか、みことばをふさわしく語ることができるようにとか、みことばが広まるようにとか、働きが受け入れられるようにとか(コロサイ4章3節 第二テサロニケ3章1節等)。だが、ここでの祈りの要請は、意外にもそういうことではない。みことばを語る働き手が少ないので、さらに起こされるようにという祈りである。十二人使徒宣教団から、今度は七十二人宣教団となり、多くなったなと思いきや、全く少ないというわけである。当時の世界人口は約一億と思われているが、それに対して七十二人は全然少ない。働き手がいなければ、みことばを語るも何もない。しかし、良く見ると、主イエスは人口の比率に対して働き手が少ないと言っておられるのではなく、「収穫は多い」と、その収穫の多さに対して働き手が少ないということを言っておられる。昔の農作業の光景を考えると、収穫シーズンは一家総出で、子どもたちの手も借りて、隣近所の手も借りてするという風だった。「猫の手も借りたい」ということわざが現実のものだった。収穫されるのは「収穫の主」。救われるのは収穫の主のわざである。私たちは語ったり、その人のために祈ったりするが、救いは主のわざである。主は誰を救おうか主権をもって定めておられる。選んでおられる。その人数からすると働き手は少ない。それは21世紀の今も変わっていない。この働き手は、救われる人々の中から起こされていくわけだが、この2節の祈りを、皆様は祈っておられるだろうか。この横手の地でも、宣教師が、牧師が、兄弟姉妹が、この祈りを捧げてきたことを知っている。そして、今の私たちがある。

第二は、出て行って、福音を宣べ伝えること。その出て行く世界は危険に満ちている。「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです」(3節)。「狼」という表現で、「敵意」を表している。これは、先のサマリヤ伝道でも経験したことだろう。しかし、敵意を恐れてひきこもることは許さない。有無は言わせない。敵意は当たり前のこととして出て行く。隣人から、社会から自分を孤立させることは、クリスチャンの姿ではない。地の塩、世の光となるように召されている。

宣べ伝える者は身軽でなければならない。「財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい」(4節前半)。この命令は9章3節と比較できる。4節の特徴的表現は「履き物もはかずに行きなさい」。これは驚いてしまうが、ユダヤ的誇張表現なのか、替えの履き物は持っていくなということなのか。いずれ、これは、生活に必要な物資はすべて神におまかせし、身軽であることに徹し、宣教に専念しなさい、ということである。

宣べ伝えることは、最優先の緊急を要する課題とされている。「道でだれにもあいさつをしてはいけません」(4節後半)。良く見ると、5節では家でのあいさつは命じられている。この場合、なぜ道でのあいさつはいけないのだろうか。4節は目的地に行く途上のあいさつが禁じられていることを知っておきたい。同じ禁止の命令は、預言者エリシャがしもべのゲハジに対して出している。「そこでエリシャはゲハジに言った。『腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい』」(第二列王記4章29節)。場面は、死んだと連絡を受けた子どもに対して、使者としてゲハジを遣わす場面である。子どもにいのちを与えることは緊急性を要するものであった。救急車が信号のシグナル関係なく現場に向かうようなものである。弟子たちの場合、救急車ではなくて救急人。それが弟子たちの役割。また、主イエスはエルサレムに御顔を向けて進んでおり、十字架にかけられる時は迫っていた。残された時間はわずか。そのような意味でも、のんびりと道端であいさつして、おしゃべりしている暇などなかったわけであるが、覚えておきたいことは、前回もお話したように、福音宣教は緊急を要する働きであり、最優先の働きであるということである。それは暇な時に何かをすることとは違う働きである。

宣べ伝える手段は、対人コミュニケーション(5~8節)。場所を借りての大伝道会でも、何かのプログラムを用いての伝道でもない。家を訪ねて、対人コミュニケーション伝道が命じられている。「どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」(5節)。「平安があるように」はユダヤ式のあいさつである。「平安」<エイレーネー>は「平和」を意味する。よって「平和」と訳すほうが良いとも言われている。「平和」はユダヤ人の公用語のヘブル語では<シャローム>。その意味は豊かである。「完全、健康、繁栄、幸福、救い」という意味を含む。それは、気持ちが穏やかなこと、静まっていること、争いがないことといった、この世の平和の概念よりすぐれている。それは神にある理想的な状態である。特に、この言葉は「救い」の同義語であるということを覚えておいていただきたい。それは、神の祝福による救いである。ですから、この場合、「平安があるように」というあいさつには、神の救いがもたらされるように、という意味が込められている。神の救いが祝福である。そして、このあいさつは、一つの願望ではなく、一つのギフトである。受けとってもらえるか拒まれるかの違いが生まれるにしろ、神からのギフトを差し出しているということなのである。私たち日本人は、ユダヤ人のように<シャローム>とあいさつする文化ではないが、家におじゃましたとき、家人のために、神の祝福を祈ることができるだろう。5節の「家」<オイコス>は、「家族、家じゅうの人たち」も意味する。それらの人たちの祝福を祈る習慣を持ちたい。また、どこに行っても、出会う人のために祝福を祈ることができる。私たちは人を祝福するために召されている。

「そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたの上に返って来ます」(6節)。「平安」は「平和」と訳せて、それは「救い」の同義語であることを先ほど話した。主イエスが誕生した時、御使いは歌った。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」(2章14節)。「平安(平和)の子」とは、この文脈では、キリストの救いを受け取る人物のことである。「〇〇の子」と、「子」をつける表現自体はユダヤ的表現(ヘブライ的表現)で、「会話の子」で会話の相手を意味したり、「家の子」で、家族のように親しい友人を意味したり、「死の子」で死ぬべく呪われた人物を意味したりした。「平安の子」は「死の子」と対極にあるような人物である。そして、その家に平安の子はいなくとも、「その平安はあなたがたの上に返って来ます」とあるので、平和(平安)のギフトの受取人がいなくとも、損なことは何もない。7,8節では、平安の子の家で食べたり飲んだりのことが言われているが、もちろん、一緒に食べたり飲んだりしながら、自分たちを派遣されたイエスさまのことを伝えただろう。

第三は、口で福音を伝えることとともに、人に仕えることである。「そして、その町の病人を癒し、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい」(9節)。「神の国があなたがたの近くに来ている」を先に説明しておく。この「近くに来ている」というのは、時間的に近いというよりも、空間的に近い、ということである。文法的には完了形なので、もう近づいてしまって、もう現に在るのに等しいということである。主イエスは、ユダヤのある町か村に入られた時、「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」と宣言されることになる(11章20節)。神の国はキリストによって現実のものとなる。21世紀の私たちからすれば、神の国はすでに訪れた世界である。だが、それはキリストの再臨によって完成をみる世界であるので、未だ訪れていない世界でもある。神の国はすでに未だの世界である。未だ完成はみていないということで、そのような意味において、神の国はこれから未来に訪れるものである。

そして、「その町の病人を癒し」と言われている。七十二人はこの特別な賜物が与えられた。だが、私たちは、ここに大切な原則があることを知っておきたい。「病人」と訳されたことばは、原語では「弱さ」「無力さ」という意味のことばである。そのように訳されているのは次の箇所である。「キリストは弱さのゆえに十字架につけられました」(第二コリント13章4節)。「あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました」(第一コリント2章3節)。これらは、人としての弱さが言われているわけである。私たちのすることは、単に病人のケアだけでなく、人としての弱さに悩んでいる人たちの多くの必要に応えるということがあるだろう。手伝う、助ける。私たちは、福音を宣べ伝えるとともに、このように人々に仕えることによって証を進めていくわけである。

10~15節は、福音を宣べ伝えても悔い改めない町へのさばきについて言われている。10,11節は足のちりを払うことが言われているが、これについては、9章5節で言及した。この行為とは、福音を伝えに行って、町全体が拒絶したり、町から追い出されたりするときに、その町にさばきがあることを告げるジェスチャーで、誰かに一言非難されて、個人的な腹いせにする行為ではない。

心に留めなければならないのは、神の国の福音を拒んだ町に対するさばきの厳しさである。「あなたがたに言います。その日には、ソドムのほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです」(12節)。なんということばだろうか。「ソドム」は神のさばきで滅ぼされた町の代名詞的存在。創世記19章に登場する不道徳な町で、神のさばきによって火と硫黄が降ってきて滅んでしまった。ただ、ロトとその家族だけが救い出された。このソドムよりも、神の国の福音を拒んだ町に対するさばきは厳しいと言う。

13~15節の主イエスのことばは、12節を解説する内容となっている。ここで名を挙げられている町々は、これから伝道する町ではない。すでに伝道してきた町のことである。すべてガリラヤの町である。13節の「コラジン」「ベツサイダ」は、どちらもカペナウムとは5キロ程度しか離れておらず、「カペナウム」とは姉妹都市の関係。この町々で、主イエスは神の国のしるしとしての「力あるわざ」を行われた。ベツサイダの近くでは五千人の給食の奇跡をされている。だが、「おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう」(13節後半)と言われてしまっている。「ツロとシドン」も、「ソドム」同様に悪名高き町としてユダヤ人には知られていた。ツロもシドンもイスラエル北の地中海にある都市で、エゼキエル28章では、その傲慢さゆえに厳しいさばきが宣告されている。「しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりさばきに耐えやすいのだ」(14節)。それほどに、コラジン、ベツサイダの人々の心はかたくなであったということである。悔い改めが見られなかったということである。

もっと厳しいさばきの宣告はカペナウムに対して言われている。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ」(15節)。主イエスはガリラヤ伝道時代、カペナウムを本拠地とされた。マタイ9章1節では、「自分の町に帰られた」とあるほど。この町では、ペテロのしゅうとめのいやし、中風の人のいやし、百人隊長のしもべのいやし、その他、数々のみわざが行われた町であることがわかる。普通に考えると、神に選ばれた別格の町で、大きな祝福に与るかのように思ってしまう。ところが、これ以上ないという厳しい宣告がされている。「よみにまで落とされるのだ」と。「よみ」(欄外注<ハデス>)はこの場合、「地獄」と同義で使われている。天に上げられず、よみにまで落とされるという表現は、悪名高き都市バビロンに対するさばきの宣告とほぼ同じである。「だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる」(イザヤ14章15節)。カペナウムは主イエスの力あるみわざを見て、一時、沸き立った。4章42節では「イエスが自分たちから離れていかないように、引き止めておこうとした」とあるほどの人気ぶりだった。だが、悔い改めに乏しかったし、ほんとうの意味での主イエスに対する信仰はなかった。彼らは神を拒んだに等しかった。口では唯一の神を信じている、アブラハムの神を信じている、モーセの神を信じている、先祖の言い伝えを守っていると言っても、その理屈は通らない。主イエスは実にかたくなな地で宣教活動をされたことを覚えておきたい。

最後に主は言われる。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのです。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです」(16節)。耳を傾ける者もいれば、拒む者もいる。ここで、遣わされる弟子たちとキリストが一体の関係で言われている。七十二人の弟子たちは、いわばキリストの使者、キリストの代理人として遣わされようとしていた。主イエスの時代の宣教のテリトリーはイスラエルで、ユダヤ人伝道であった。そして、それは初代教会以降、異邦人の地へと広がりを見せて行く。それはキリストを拒む人も多いが、収穫も多いというミニストリーである。一世紀以降、神の国の福音が宣べ伝えられ、二十一世紀を迎えたが、確かに、大勢の人が救われたのである。私たちもその一人である。終末の時代を迎えたが、主の御計画の中で、収穫されるべき人々はまだ数多くいるだろう。私たちは、神の国のギフトを一人でも多くの方が受け取ってくださるために、今日教えられたように、祈ること、宣べ伝えること、仕えていくこと、この三つに心を砕いていきたいと思う。