前回は9章51~56節から、主イエスがエルサレムに御顔を向け、決意をもって進んで行かれる様をご一緒に見た。

今日の記事は、主イエスに従う気持ちのある三人の人物が登場する。それぞれに従う気持ちはあるけれども、それぞれに足りないものがある。主イエスは一人ひとりの弱さというか、問題を見抜いておられた。そして、一人ひとりに適したことばを投げかけられる。同じ人間は一人としていない。一人ひとりを取り巻く状況もみな異なれば、一人ひとりの性格も違う。そして、一人ひとりの信仰の段階も違う。主イエスはそれを見抜いて、それぞれにふさわしいアプローチをされている。

今日のキーワードは、明らかに「従う」である。従うということばが三回登場する。「私はついて行きます(従います)」(57節)。「わたしに従って来なさい」(59節)。「主よ、あなたに従います」(61節)。「ついて行く、従う」ということばは、原語でではすべて同じことば<アコルーセオー>が使われている。全員、主イエスに従いたいという気持ちはある。59節の二番目の人物だけ、「私はあなたに従います」と告白していないが、「わたしに従って来なさい」と声をかけられて、それを否定してはいない。全員、主イエスに従いたいという気持ちはある。だが、それぞれが、何かが足りない。主イエスはどうアプローチされるだろうか。それでは、順番に見ていこう。

一番目の人物(57,58節)。彼は、「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます(私は従います)」と言った(57節)。彼は三人の中で、従う気持ちが一番あるかのような発言をしている。そして、二番目、三番目の人物がそうであるように、どうしようかと心に引っかかっている「家族」のことを口にもしない。行け、行け、ゴー、ゴーの雰囲気である。だが、主イエスは、「では、わたしに従って来なさい」とは言われない。従うということの意味がわかっていないから。主イエスは立ち止まって考えさせようとしている。

「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(58節)。主イエスは二番目の人物に対するように、「わたしに従って来なさい」と声をかけていないわけだが、主イエスは、彼が従うことを望んでいなかったのだろうか。そうではないだろう。かつて、主イエスは言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(9章23節)。「だれでもわたしについて来たいと思うなら」と、ついて来たいと思うなら、ついて行っていいのだが、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、犠牲を払うことを覚悟しなければならない。だが、あなたはその計算をしていない」というわけである。主イエスの58節の返答から、そのことを読み取れる。彼は主イエスのために払う犠牲を計算していない。主イエスは「あなたがどこに行かれても」ということばを受けて、どこでどういう風な生活になるのか教えよう、と犠牲を計算させようとしていることがわかる。「狐」は孤独な放浪者のようなものであったが「穴」というねぐらはあった。「空の鳥」もあちこちに移動し姿を現したが「巣」というねぐらはあった。だが、わたしには頭を横たえる家がない、というわけである。家というのは、安定した生活の象徴である。文脈を見ると、9章51節が心に留まる。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた」。主イエスは、エルサレムで、苦しめられ、捨てられ、殺されようとしていた。そのエルサレムに御顔を固定し、相当な覚悟で進んで行かれる途中のことであった。エルサレムでは受難が待ち受けている。だから、主イエスに従う者たちも、受難の歩みを覚悟しなければならなかった。平行箇所のマタイの福音書を見ると、一番目の人物は「律法学者」であると言われている(マタイ8章19節)。学究肌で、主イエスを先生として学ぶ気持ちは高かったはずだが、主イエスに従っていくなら、それまでの安定したエリート生活とは異なる、不安定な厳しい生活を覚悟しなければならないことなど、余りよく考えていなかったようである。この後の反応は記されていない。私たちの心には、「彼の立場に身を置くとして、あなただったらどうするか?」という問いかけが残るわけである。

二番目の人物(59,60節)。主イエスのほうから「わたしに従って来なさい」と声をかけられている(59節前半)。平行箇所のマタイの福音書では「弟子」と言われている人物である(マタイ8章21節)。だから、彼は主イエスの教えを聞いて、訓練を受けて、従う下準備はできていた人物であった。でもなぜか躊躇してしまっている。「しかし、その人は言った。『まず行って、父を葬ることをお許しください。』」(59節後半)。古代世界では、ギリシヤ人であってもユダヤ人であっても、「父を葬る」というのは、侵しがたい必須の社会的義務として考えられていた。ユダヤ教のタルムードという教えの中でも、ユダヤ教徒として守るべき義務のすべてが、「父を葬る」という義務のために免除されると教えられている。つまりは、「父を葬る」というのは、生活の中で最優先の務め、果たすべき必須の義務として位置づけられていたのである。

そして、この「父を葬る」という表現だが、父親が危篤なのだろうかと思う必要はない。中東では父親がまだ健在なのに、「父を葬らせてください」という表現を取った。親元を離れることを迫られたとき、父親はまだ元気であっても、「父を葬らせてください」と言った。「父親の手伝いをして、父親のめんどうを見て、父親を葬ってから、ああします、こうします」というわけである。だから、「まず行って、父を葬ることをお許しください」というのは、「父親が亡くなってから、あなたに従います」という表明である。「それまで待ってください」ということである。それは、数年後のことなのか、十数年後のことなのか、わからない。

主イエスは、「わかった。何年でも、何十年でも待とう」とは言われなかった。そんなにのんびりできない。主イエスは彼に何を望んでいたのか。「イエスは彼に言われた。『死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい』」(60節)。この人物は先の人物と違って、福音をゆだねられるところまで成長していたようである。神の国の福音を宣べ伝えることは緊急を要するものであった。しかし、そのための働き人は足りていない。「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」というのは、死人の後始末は死人の世界に任せよ、つまり、もっとも大事なことは何か、優先しなければならないことは何か、緊急性を要することは何か、ということを教えたいがための誇張的表現である。神の国の福音は人の生死を握っている。それを宣べ伝えるとはどういうことなのかを、彼に一考させたかった。一番大事なことはこれだろう、それは最優先すべき務めだろう、緊急性を要することだろうと。やはり、彼の反応も記されていない。彼は、家で、普段どのような仕事をしていたのだろうか。どのような立場にあったのだろうか。父親はどういう人だったのだろうか。私たちにはわからないわけだが、主イエスはそうしたこともすべてご存じの上で、「わたしに従って来なさい」と声をかけられたはずである。ならば、選択の道は一つしかないはず。しかし、彼の反応は記されていない。やはり、「あなただったらどうするか?」と問いかけが私たちに迫ってくる。

三番目の人物(61,62節)。この記事はルカ独特の記事で、マタイにはない。「主よ、あなたに従います」(61節前半)と、第一番目の人物同様、自発的発言をしている。いいぞ、と思ったら、「ただ」と条件をつけている。「ただ、まず、自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください」(61節後半)。従うにあたり条件をつけたというのは、二番目の人物と同じである。その内容も家族のことで似ている。家族に別れを告げてからというのは、さして当たり前のことのように思える。第一列王記19章には、エリヤがエリシャを預言者として召す場面があるが、エリシャが「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから」という願いに対して、エリヤは「行って来なさい」と許可を与えている(第一列王記19章19~21節)。だが、主イエスは「行って来なさい」とは言わず、釘を刺す発言をしている。なぜだろうか。主イエスは彼の弱さを見抜いていたということであろう。それは家族に対する愛着の問題のようである。二番目の人物の場合は、「父を葬る」という義務を果たしてから、という思いが強かったと思うが、こちらの場合は、家族への義務というよりも家族への愛着が強いという問題のようである。主イエスは、彼が家に帰ったらどんなことになるのかを知っていたはずである。家に着いた時、家の者たちが彼を引き止め、彼を悩ましめる。「頑張って行って来なさい」と大手を振って送り出す状況にはなかったのではないかと思う。主イエスは、彼の場合はその性格上、家族の引き止めようという感情に負けてしまい、決心がぐらつき、よろめいてしまうことを知っておられたのだろう。

日本では一度信仰決心しても信仰を棄ててしまう確率が高いわけだが、その原因を調査研究した報告書を読んだことがある。それは、予想通り、家族の問題だった。家の宗教と違う、家族の反対がある、家族が悲しむ。そして家族の情愛に負けたり、家族の中で孤立していることが耐えられなくなったりして、信仰から離れる。聞いた話だが、熱心だった人がパタリと教会に来なくなったので、牧師がその家に訪問に行ったそうである。そうしたら、その人が出て来て、「私は家族を悲しませることはできません。だから、家族の望むことをすることに決めました」と言ったそうである。私も同じ悩みを通ってきたので、気持ちはある程度わかる。農家の長男として生まれた。家族にも親戚にも、村にもクリスチャンはいない。信仰を持つとなると初穂となる身である。葛藤が続いていたとき、マルコ10章29,30節のみことばに目が釘付けになった。「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます』。」このみことばによって、親に話す勇気が与えられ、親にクリスチャンになることを願い出た。斎藤家のお墓はどうするんだ、教会に行かなくても信じていられるだろう、と予想していた反対意見が降りかかってきたが、何とか承諾を得てバプテスマを受けた。それから、半年ほどして、また戦いが起こった。親に、職業は牧師になりたい旨を告げてからであった。一旦は、二番目の姉が私に代わって跡継ぎになることを申し出てくれて、問題は解決し、許しを得た。ところが、その事情も変わってしまい、振り出しに戻ってしまった。神さまに心の中で問いかけていたのは、「この家を出たら、この家はどうなるんですか。どうしたらいいんですか」ということであった。だが、確かな召命のみことばが与えられたので、あとはすべて神さまにゆだねる決心がついた。親に話すのは、もちろんつらかった。親を泣かしたようである。心に残っているのは、牧師になって5年以上経過したときに、母親が一言、「お前は牧師になって良かった」と心から言ってくれたことであった。主に従おうとする中で、家族への義務、家族への愛着、そのどちらか一方に心が捕らわれると言うよりも、その両者が絡まっていることが普通で、人によっては、長男・長女という立場もあって義務の方が強く出て動きが取れなくなったり、人によっては、愛着の問題の方が強く出て動きが取れなかったりと、あるのだと思う。この場合、主イエスは、この人物に愛着の問題を強く見ていたのだと思う。

「すると、イエスは彼に言われた。『鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません』」(62節)。農耕のたとえである。当時の人にはわかりやすいたとえである。「鋤」とあるが、棒の上部に取っ手が付いていて、棒の先端には鉄板が付いている。この鋤を牛に引かせて耕すわけである。それが現代では、耕運機、トラクターに変身したわけである。鋤は8~10センチの溝を掘ってくれるわけだが、まっすぐな溝を作るためには、鋤の取っ手部分に手をかけて前方をしっかりと見ていなければいけない。それを、後ろを見ながら前方に鋤き続けると、溝は曲がって、真っ直ぐな溝を作ることはできない。前に進むのなら、しっかりと前向いていること。後ろ髪を引かれ、後ろを向いたら、失敗に終わる。彼にとって「うしろを見る」とは明らかで、家族に心を粘着させてしまうことである。彼には、しっかり前を向いて主イエスに従うこと、神の国の仕事に携わること、そのぶれない献身の姿勢が要求されたのである。主イエスも前方に御顔を固定させて前進していたことを前回学んだ。「彼はエルサレムに向かう顔を固定した」(51節前半直訳)。「彼の顔がエルサレムへと進んでいた」(53節前半直訳)。主イエスに従う者も同じようでなければならない。「うしろを見る」というのはあり得ない。この後、この人物がどう反応したのかも、やはり記されていない。「あなただったらどうするか?」と、問いかけが心に残るのである。

私たちが主イエスに従うことを妨げてしまう理由は様々あるが、今日の三人のケースでは、家、家族の問題が大きい、と教えられる。最初の人物は、家が象徴するところの安定した生活を捨てる覚悟がなければならない、という問題を突き付けられた。二番目の人物は、何々家の息子としての義務にどう対峙するかという問題。三番目の人物は、家族への愛着にどう踏ん切りを着けるかという問題。母親から、こんなことになるためにお母さんはあなたを産んで育てたのではないとか、そこまでの発言はないとしても、親に泣かれたりしたら、心は揺れ動くものである。

「あなたの父と母を敬え」という戒めがある(出エジプト20章12節)。だが、父と母を敬うことを示すために、信仰を棄てるとか、主イエスに従うことは断念するとかなるなら、それは大局的には、父と母を敬っていることにはならないはずである。その家の家系から、子孫から、まことの神を信じる者が起こされる、主イエスに従う者が起こされる、これは侮辱的な事実ではない。家系を侮辱することでも、親を侮辱することでもない。その反対の事実である。家系の祝福である。

今の私たちは、それぞれが、これからも主イエスに従っていくにあたり、今の時点で自分の課題と言えることは何だろうか。それは、家や家族の問題と別のところにある、という方もおられるかもしれない。それが何であるにしろ、その課題を主の前に正直に差し出し、主からお叱りや励ましや知恵をいただきながら、主に従って行く歩みを全うしよう。