「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

クリスマスおめでとうございます。

本日、ご一緒にクリスマス礼拝をお献げできることを感謝します。本日は全世界で、キリストの誕生を覚えて礼拝が献げられます。「クリスマス」ということばの意味は「キリスト礼拝」または「キリストの誕生を祝う祭り」である。誕生を祝うという場合、一般的には家族の誕生日を祝う、友人・知人の誕生日を祝うということになる。ところが、イエス・キリストの場合、家族でも友人・知人でもない。西アジアにあるイスラエルという異国で生まれた方である。しかも二千年も前に生まれた方で、私たちと何の関係もないと思っても不思議ではない。けれども、イエス・キリストの誕生がずっと祝い続けられる理由は、イエス・キリストは全世界・全時代の人たちのための神からの贈り物であるからである。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と言われている通りである。

キリストの出産の出来事には特異な点が二つある。一つは処女からの出産という事実(ルカ1章26節)。処女からの出産ということにおいて、この出産は人間の欲求によるものでなく、神によるものであることが証されている。生まれてくる赤子は特別な子であるということである。生まれてくる赤子は神のひとり子であり、当時の世界が待ち望んでいた神の救い主であった。

この出産が特異であるもう一つの点は、処女からの出産ということとともに、家畜小屋での誕生である。宿屋は満杯だったのである。キリストの家畜小屋の誕生は、偶然の出来事ではない。それは、貧しい者を愛そうとする神の愛のしるしである。

さて、今日のテーマにしたいことは、「神は愛である」ということである。神の愛はどのようなものなのだろうか。私たちはこの愛を抽象的に受けとめがちである。けれども、神の愛は歴史の中で表された具体的なものである。また私たちはこの愛を一般化して、自分とは関係のないものであるかのように捕らえてしまう。しかし、それは違う。神の愛は私たち個人個人に向けられた愛なのである。

ある人の話だが、友人が病にかかり、無意味な痛みを味わい、あと数日後に死のうとしているとき、神が存在していると思った自分の考えに疑問を持ち始めたという。なぜこのような痛ましいことを神は許されるのかと。ほんとうは神は存在していないのではないかと。この世界を見渡す時、自然災害、飢饉、戦争、病と死といった不幸な出来事を目にすることになる。それらは神の存在を消すのだろうか。愛の神はいないということを教えているのだろうか。先の人は、神々しい夜明けといったものを見て、創造主である神の存在を感じ取っていたそうだが、やがて、美しい光景にしか神を見れないことは間違っていると気づくようになる。神は苦しむ人間のそばにもいて、人間の苦しみを共有されるお方であることに気づくようになる。彼は生活の現実の中にも神を見ることができるようになる。神は天上から私たちを見下ろしているだけではないと。私たちの生活の中に来て、痛みも、苦しみも共有してくださるお方であると。

今日、私たちが目を注ぎたいのは、およそ二千前の歴史上の出来事である。ひとり子の神が人となって、赤子の姿でこの地上に来られた。それは神が人間のすべてを共有するためである。それは単に肉体を共有するだけではなく、出産から始まって死に至るまでの、人としてのすべての生涯を共有するためである。さらには、人としての喜びや苦しみもすべて共有するためである。苦しみまで?そうなのである。神は人としての痛みや苦しみを直に経験するために来られた。私たちの生活の現実をご自分の現実とするために来られた。キリストは家畜小屋で生まれるというスタートを切られた。家畜小屋での出産は貧しさや低さの象徴である。それは社会の底辺の人たちの人生を共有しようとする姿である。神は人としての貧しさをも共有しようとされた。私たちは、この家畜小屋での出産という歴史的事実に、神を見るように招かれている。家畜小屋の飼葉桶で眠っているのは、人となられた神、神のひとり子である。

クリスマス劇の有名な話がある。アメリカのある村での事、先生たちが子どもたちを集めて、イエスさまの誕生劇の相談をした。そして役割を決めた。マリア役、ヨセフ役、羊飼い役、羊役、その他の役、天使役も決まった。こうしてお友達全員の役が決まったと思ったら、一人の男の子の役だけがまだ決まっていなかった。そこで先生たちは相談して、その男の子に馬小屋がついている宿屋の子どもになってもらうことにした。彼のセリフは、お腹の大きいマリアとヨセフが宿屋に泊めてもらおうとした時、宿屋は人でいっぱいなので、「だめだ。部屋がない」、セリフはこれ一つ。そして後ろの馬小屋を指さす。その男の子は一日、何十回も、何百回も繰り返してセリフの練習をした。そしてイエスさまの誕生劇を発表する日がやってきた。

長旅で疲れ果てたヨセフとマリアがとぼとぼと歩いてくる。陽はとっぷりと暮れ、外は真っ暗。そして男の子が立っている宿屋にたどりついた。「すみません。私たちを一晩とめてください」。さあ、いよいよ男の子の出番。男の子は大きな声で言った。「だめだ。部屋がない」。それから後ろの馬小屋を指さした。男の子は練習どおりにできた。ヨセフとマリアはそれを聞いて馬小屋に向かう・・・。ところがである。その男の子は突然ワァッと泣き出した。男の子は泣きながら走り出して、マリアにしがみついた。「マリアさん、ヨセフさん、馬小屋に行かないで。馬小屋は寒いから。イエスさまが風邪をひいちゃうから、馬小屋に行かないで、行かないで」。ワァーン!先生たちが舞台に飛び上がって、マリアさんにしがみついて泣いている男の子を引き離した。

こうしてイエスさまの誕生劇は、最初にはなかったお話になってしまった。男の子の優しい気持ちに感動する。しかし、現実は家畜小屋での出産だった。家畜小屋はキリストにふさわしい場所ではなかったが、あえて、そこでお生まれになることをよしとされた。

このようにして飼葉桶からスタートしたキリストは人としての人生を共有し、人として一人前とみなされる30歳を過ぎた頃、飼葉桶以上の低さに身を置かれる。それは低さの極みであり、それは、あの十字架である。私たちは、苦難と痛みの多い世界を見て、神はどこにおられるのか、と思うことがあるだろう。神は天上から人を見下ろしているだけではないかと。そして人々はみのがしてしまう。神はあの十字架におられたという事実をである。キリストは人としての人生を共有してくださっただけではなく、最終的には、人の罪を背負うために、この十字架につくことにすべてのエネルギーを注いでくださった。十字架刑は腰まで裸にしての鞭打ちから始まる。とがった骨や金属片がついた鞭である。受刑者の背中はずたずたになるが、その後、受刑者は自分の十字架を処刑場まで担がされる。それは十字架の横木で重い粗削りの木だった。到着した処刑場は、どくろの丘とも呼ばれた。そこに到着すると裸にされ、十字架に釘付けにされる。釘付けにする方法は幾つかあったようだが、釘の位置は手首と足に打つのが通常であったようである。十字架が垂直に立てられた姿勢では、息をするのには大変な痛みが伴う。失血が続き、ついには力尽きて、窒息死するという処刑手段である。しかも、これは公開処刑であったので、群衆のあざけり、嘲笑、呪いのことばを受けながら死んでいくことになる。それは当時、最も恐ろしく残酷な刑であると言われていた。ある時、どくろの丘に三本の十字架が立てられた。両脇につけられていたのは強盗である。そして、なぜか真ん中にキリストがついていた。彼らと同等、いや彼ら以上に罪が重い罪人(ざいにん)としてである。この姿は、罪人と完全に一体となった姿であり、罪人の罪さえ負うことをよしとする姿である。聖書では、実際に私たちの罪を負ったのだと証言している。

私たちが神を捜す心の旅に出る時、飼葉桶とともに十字架に行きつく。十字架は、ここに神がいると招いているのである。それは、なぜこんな場所にという所である。神がいるとは思えない場所である。それは呪いの場所である。ガラテヤ書3章13節には「木にかけられた者はみな、のろわれている」と十字架刑を表現している。キリストには罪はない。聖書の証言は、キリストが私たちの罪を負い、のろわれた者となってくださった、身代わりに裁きを受けてくださった、ということである。罪がもたらすものは死の刑罰、これが道理である。神が人の罪を引き受け、それを負い、不条理にも、十字架で血を流し苦しんでいる。何ゆえここまでしなければならないのだろうか。それは、私たちへの愛ゆえである。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに」という文章には、十字架という大きな犠牲を読み込まなければならない。神はご自分の分身と言える存在、かけがえのない存在を、私たちの身代わりとして十字架の裁きに服させた。ひとり子の神キリストも、自発的に十字架でいのちを捨てる覚悟であられた。誰のためにか。私たち一人ひとりのためにである。この、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」という表現には、個人的な指針が含まれていることを知っておきたい。つまり、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、私を愛された」と受け止めなければならないということである。神の愛は<私>に与えられていると、その確信を持っていただきたいのである。神は私のために死んでくださった、いのちを捨ててくださったと。

十字架で私たちの罪を始末しようとされた神が与えてくださるものは、ひとり子イエス・キリストが持つ「永遠のいのち」である。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。ヨハネの手紙第一5章20節には、キリストについてこう言われている。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」。キリストは私たちの罪を引き受け、そしてご自身の永遠のいのちを与えようとされたのである。「いやいや、キリストは永遠のいのちではない。キリストは十字架刑に服して、血を流して死んだではないか」という声も聞こえてくるが、確かに、キリストは十字架刑で死んだ。それでは、キリストは死者が神として祭られたこの世の神々と同じだという結論になるのだろうか。そして、死人を信じて永遠のいのちも何もあったものではないとなるのだろうか。それは早合点である。キリストは確かに十字架上で絶命し墓に葬られたが、三日後によみがえった。いわゆるキリストの復活である。クリスマスはキリストの誕生を祝うが、春のイースターはキリストの復活を祝う。飼葉桶で誕生して十字架で死んで終わりというだけなら、こんなみじめな一生はなく、このお方が神で、このお方を信じれば永遠のいのちがあるなどと説かれても、信じる気にはなれず、痛ましい一生でしたと手を合わせて終わりである。だがキリストの十字架は、復活の光に照らして見るときに、確かに、私たちを救い、永遠のいのちを与えるための神のみわざであったのだと確信できる。そして飼葉桶での誕生は十字架の光に照らして見るときに、私たちの身代わりに死んでご自身のいのちを与えるための誕生であったのだと知る。

聖書が告げる神の愛は歴史的事実となり、神の愛は今も私たち一人ひとりに注がれている。神の愛は、私とは関係ないと思わないでいただきたい。関係があると思っても、神の愛を薄めて受け取っていただきたくない。どこか他人事のように受け止めてほしくない。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに私を愛された」と信じるだろうか。今年に入り、あるミュージシャンの歌を聞いていた。人として成熟期を迎えた頃の、その方が作った曲の歌詞が心に響いた。「恋はいつも人を裏切ってきた。愛は君を裏切らない」という歌詞である。「愛は君を裏切らない」とは、ほんとうだと思った。「ほんものの愛は裏切らない。神の愛は裏切らない。この裏切らない愛で自分は愛されているんだ」という思いが胸に迫って来た。同時に、「自分に向けられている神の愛は信じ切っていいんだ」と思った。私たちは神に愛されている。そして神の愛はあなたを裏切らない。神の愛は信じ切っていいのである。その証拠があの十字架であり、また家畜小屋での出産だったのである。今朝、ともに神の愛を喜び、キリストの誕生を心からお祝いしたいと思う。