今日の物語は「キリストの変貌」として知られ、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されている。前回は、18~27節から、「受難のメシア」という理解がなかった弟子たちに対して、主イエスはご自身が受難のメシアであることを示し、自分の十字架を負ってわたしについてくるようにと、弟子道を語られたことまで学んだ。今日はその続きの物語である。ある山に上られた時、主イエスの御姿は本来の威光に満ちた姿に変貌を遂げた。この輝けるお姿こそ本来のお姿、「栄光のメシア」である。前回の箇所では、26節において、主イエスはやがて栄光のお姿で再臨されることを告げられた。弟子たちはその栄光を垣間見ることになる。ルカはこの物語から何を伝えたいのだろうか。ルカの福音書にはルカの福音書の特徴があるということを覚えながら、この物語から教えられたい。

時は前回の出来事からおよそ一週間経った時のことである。主イエスは三羽烏のペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた(28節)。この山はヘルモン山であろうと言われている(マルコ8章27節参照)。ヘルモン山は、パレスチナの北方、ユダヤ人にとっては約束の地の北限となっていて、アンティ・レバノン山脈の南端にある海抜2800メートルを越える最高峰。ガリラヤ地方の低山とは違って、高く、威厳を感じさせる山。ルカ独特の記述は、まず祈りの記述である。「祈るために山に登られた」(28節後半)と、山に登る目的が記されていて、「祈っておられると」(29節)と、御姿が変わるのは祈っておられた時であると記している。祈りは神との会見であるが、その時に御姿が変わった。同じような記述が旧約聖書にある。モーセに関してである。「それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた」(出エジプト34章29,30節)。また、聖徒たちの伝記を読むと、ある人が聖徒の祈っている様子を見ると、その顔は光を放っていたという記述に出くわすことがある。しかしながら、主イエスの場合はモーセや聖徒たち以上で、マタイは「顔は太陽のように輝き」(マタイ17章2節)と描写している。そして衣も光輝いた。マルコは「その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなしえないほどの白さであった」(マルコ9章3節)と描写している。この栄光のお姿、キリストの威光は、再臨の時に人々が目にすることになることをペテロは手紙で告げている(第二ペテロ1章16~18節)。

ペテロたちがキリストの威光を目撃していた時、モーセとエリヤが出現した(30,31節前半)。モーセとエリヤには共通点を二つ見出すことができる。今、主イエスは山に登っているわけだが、二人の共通点として、モーセもエリヤも二人ともシナイ山(ホレブ山)で啓示を受けている(出エジプト19章20節 第一列王19章8,11節)。二人とも山で啓示を受けた預言者である。そして二人は何よりも終末時代(メシア時代)と関係している。モーセはこう民に語った。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない」(申命記18章15節)。「私のような一人の預言者」の出現は、イエス・キリストによって成就した。主イエスは第二のモーセである。聞き従うべきお方である。モーセによって実現した出エジプト、エジプトからの脱出・解放は、キリストによる救いの型であった。エリヤはどうだろうか。旧約聖書最後の書、マラキ書でエリヤについて言及がある。「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたに遣わす」(マラキ4章4,5節)。ここでモーセとエリヤはセットで扱われ、エリヤは終末時代の希望的存在として取り上げられている。

モーセとエリヤは現れて、主イエスと何を語っていたのだろうか。「イエスがエルサレムで遂げようとしている最期について、話していたのであった」(31節)。ルカだけが、三人の話合いの内容を告げている。それは「エルサレムで遂げようとしている最期」についてである。これがなければ人類に救いはない。人類の歴史の中で一番大事だと言える十字架を通しての救いのみわざについて話し合っていた。「最期」<エクソドス>は重要なことばである。このことばで思い出した方もいるかもしれないが、旧約聖書第二巻は「エクソドス」、すなわち出エジプトのことである。<エクソドス>のことばそのものの意味は「出口への道」である(脚注の直訳「出発」)。だから、主イエスのエクソドスというものは、これで一貫の終わりだという最期ではなく、出エジプトのような栄光に向けての脱出・出発ということである。といっても、それは大きな苦しみを伴うものである(22節)。主イエスには受難が待ち受けていた。主イエスは弟子たちに語られたこと以上の詳細を、モーセとエリヤと分かち合い、その苦しみが何をもたらすのか、分かち合っていただろう。

ペテロたちは、この時、眠くてたまらなかったようである(32節)。空気が薄いせいもあったのかもしれないが、疲れていたということもあるだろうし、眠いということから、時間帯が日中でなかった可能性もある。

注目したい次の点は、ペテロが無意識のうちに「幕屋」ということばを口に出し、その場所が雲でおおわれたという事実である(33,34節)。ペテロが思わず口にしてしまった「幕屋」ということばは暗示的である。出エジプトの時代、イスラエルの民は幕屋(幕を張って作る移動式の神殿)を造った。幕屋を造り終えた時の記述で、こう言われている。「そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」(出エジプト40章34,35節)。「天幕」という呼び名は幕屋の別名。幕屋と雲はセットである。雲は神の臨在の象徴である。ソロモンが神殿を完成した時も同じような描写がある。「祭司たちが聖所から出てきたとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである」(第一列王記8章10,11節)。幕屋(神殿)を雲がおおったように、今日の場面では、「雲がわき起こって彼らをおおった」(34節前半)とある。ペテロたちは恐れを覚えたようである。「彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった」(34節後半)。それは神の臨在の雲だったのである。幕屋とセットの神の臨在の雲だったのである。

実は新約時代に入る前、すべてのユダヤ人が、出エジプトの時と同じように、神がご自身の民たちと再び幕屋に住まわれるという希望を持ち続けていた。「主にふさわしく感謝をささげ、とこしえの王をほめたたえよ。そうすれば再び幕屋は、喜びのうちにあなたのために建てられる」(トビト記13章10節)。ペテロが幕屋を口にしたというのは、今お話ししたようなことが背景としてある。彼は、ただの小屋を口にしたのではなかった。ただ、熟慮も何もあったものではなく、「幕屋を三つ造りましょう」とわけのわからないことを言ってしまったが、彼は重要なことを口にした。「幕屋」と。

さて、幕屋(神殿)は実際にはこの場所に造られなかったと言われるかもしれない。だが、生ける幕屋がおられたのである。それは、主イエス・キリストである。この出来事は、28節で、「これらのことを教えてから八日ほどして」と記されている。だが、マタイとマルコは「六日目に」と記している(マタイ17章1節 マルコ9章2節)。ということは、ルカはあえて「八日ほどして」の「八日」に意味を持たせているようである。「八」という数字を聖書から見ると、ノアの箱舟に乗り込んだのが八人、割礼を受けるのが八日目、キリストがよみがえられたのは週の初めの日ということだが、それは八日目ということになる。何か新しい事が起きることを予感させる数字ではある。またエゼキエル40章には、終末時代に回復する新しい神殿の描写があるが、寸法や階段の段数、いけにえの台の数に八が用いられている。「八」という数字は暗示的ではある。だが、ルカが八という数字を用いた意図ははっきりとはわからないので、ここまでとしよう。何よりも覚えておきたいことは、聖書において、神、キリストが、「幕屋」「神殿」と言われている事実である。やがて訪れる新しい天と新しい地の描写に関してこうある。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる」(黙示録21章3節)。「私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである」(21章22節)。今日のキリストの変貌の場面では、キリストが幕屋そのものであることが啓示されていると言ってよいだろう。ヨハネ1章14節も参考に開こう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。「住まわれた」ということばは、実は「天幕を張って住む」ということばが使われている。キリストの受肉ということそのものが、キリストが天幕(幕屋)であるということが暗示されている。キリストは幕屋であり、神殿であるということは、先の黙示録ではっきりと啓示されていた。

そして、改めてルカ9章29節に目を注いでいただきたいが、「その御顔の様子が変わり」とある。「様子」<エイドス>ということばは、マタイもマルコも使っていないことばで、実は、このことばは幕屋の設営に際して用いられていることばである(出エジプト26章30節<ギリシャ語70人訳>)。

ルカは、マタイやマルコのように、キリストが変貌したその姿がどれほどすごいものであったかに強調はおいていないようである。むしろ、キリストの受難ということや、幕屋としてのキリストということに強調を置いているようである。私たちは主イエスを幕屋として生きる者たちなのである。現代の私たちに求められているのは臨在信仰ということになろう。「主がともにおられる」という事実をはっきり認識して生きるということである。

次に、私たちは、ペテロたちともに、雲の中から聞こえてきた声に耳を傾けよう。「すると雲の中から言う声がした。『これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。』」(35節)。主イエスは神のひとり子、神の特別な選びの子。「彼の言うことを聞け」、これを真摯に受け止めたい。途中、モーセのことばを紹介した。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない」(申命記18章15節)。モーセは言った。「あなたがたはその人に聞き従わなければならない」と。主イエスに聞き従うということにおいて、この文脈では特に何を意識しなければならないのだろうか。それは、先週学んだ23節の「日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」という教えである。受難のメシアと苦しみを分かち合うということである。前回と今回の箇所の流れを心に留めておかなければならない。ペテロたちはメシアとは受難のメシアという理解がなかった。栄光のメシアというイメージで、その栄光にすぐにでもあずかれるように思い違いしていた。そこで主イエスは真のメシアは受難のメシアであることを教えられ、同じ精神を持つように教えられたわけである。今日の場面では、ペテロたちはキリストの栄光の姿を垣間見て、この栄光の前味にずっと浸っていたい心境にかられたかもしれないが、栄光の前には苦しみがあるわけである。主イエスご自身、これから多くの苦しみを受けることになる。その後、栄光に入る。弟子たちもまた同じである。彼らはこれらの現実にしっかりと目を落とさなければならない。今ここにいることはすばらしい、このまんま栄光へという安直な考え方は捨て、キリストに聞き従って苦しみを経てこそ栄光に入れるのだ、ということを知らなければならないわけである。36節で、夢のようだった光景は消え、彼らは地に足をつけて主イエスに聞き従っていく現実の世界へと引き戻されている。

現実の世界は決して楽ではない。厳しさが伴う。だが主イエスの栄光を拝する日が来ること、主イエスの栄光に与る日が来ること、栄光の脱出があること、それが希望なのである。そして厳しい現実の世界にあっても、主がともにおられると信じて臨在信仰をもって生きることが私たちに許されている。ひとりぼっちで生きるのではない。主イエスは永遠に私たちの幕屋なのである。そのことを信じよう。