先週は9章1節の十二使徒派遣で始まる記事から、20節のペテロの信仰告白までの記事を学んだ。今日は改めて、ペテロの信仰告白から始めて、次に主イエスの受難の予告を見て、最後に主イエスの弟子道の教えを学びたい。これら三つはすべてつながっている。

前回お話したように、主イエスはガリラヤ伝道が半年経った頃、弟子たちの中から十二使徒を選出し、そして、使徒たちを福音宣教に同伴させて、見て学ばさせた。次のステップは、彼らを派遣し、彼らだけで福音を宣べ伝えさせるということであった(9章1~6節)。その後、主イエスはご自身がメシアであることをはっきりと示す五千人の給食の奇跡をされる(10~17節)。この頃になると、弟子たちの心にはイエスが誰かということについて、ペテロが20節で告白したように、「神のキリストです」という確信が揺るがないものとなっていた。この告白ができてこそ正真正銘の弟子である。

「キリスト」ということばは、ヘブル語「メシア」のギリシア語読みである。「救い主」という意味である。ペテロは主イエスの神性を認めつつ、正しい告白をした。世間では、主イエスに関して様々なうわさが飛び交っていたわけだが、ペテロたちは、主イエスは神のメシア、神の救い主であるという確信に至っていた。

ペテロの信仰告白の記事は良く見ると、主イエスの祈りで始まっている(18節)。ルカ独特の記述である。主イエスは祈りの中で十字架に向かうことを思い巡らしていたはずだが、ともに弟子たちのために祈っていたはずである。ペテロたちが正しい信仰告白に導かれるとともに、その告白した意味をちゃんと理解してわたしに従って来るようにと。それを意識した教えが、この後、説かれることになる。

ペテロが弟子たちを代表して正しい信仰告白をした後、主イエスは先ず、「するとイエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられた」(21節)と釘を刺す。実は、当時、メシアということばが意味するイメージは多様であった。預言という働きを重視する「預言者的メシア」(ヨハネ4章25,29節)、祭司という働きを重視する「祭司的メシア」、メシアの出身地、出所は隠されたままのはずだという「隠れたるメシア」(ヨハネ7章27節)などもあった。そして民衆に一般的に受け入れられていたのが「ダビデの子メシア」(ルカ18章38節)である。すなわち、それは「王としてのメシア」である(ルカ19章38節)。キリストはダビデ王の子孫として出現することが旧約聖書で預言されていることはまちがいない(ミカ5章2節等)。キリストは王としてのメシアであることにはまちがいない。だが、問題があった。人々は、ダビデ王のようなメシアをイメージし、政治的・武力的なイメージが強かった。剣と強力なカリスマ性でローマの支配から解放してくれるようなメシア。そしてメシア出現したら、すぐにでも独立国を打ち立ててくれることを期待していた(19章11節)。弟子たちも、このイメージに浸っていたと思われる。このイメージで、誤解したメシア観を抱いたまま弟子たちに宣伝されては困る。だから、まず教会の土台となる弟子たちから正しいメシア観を持ってもらわなければならない。

そこで主イエスは、彼らの頭には全くなかった「受難のメシア」について22節で語られる。それは詩篇22篇やイザヤ53章等ですでに啓示されていたことである。「そして、人の子は多くの苦しみを受け」。この苦しみは、誹謗中傷、辱め、迫害、刑罰、そうした公生涯で受ける苦しみ全般のことを指すだろう。「長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ」。「長老、祭司長、律法学者」というのはユダヤ教の三つの職務を指すが、ユダヤ教最高法院(サンヘドリン)のメンバーを指す(22章66節)。全部で71人で構成されていた。彼らがキリストをさばき、死刑に定めようとする。「殺され」。「殺されるメシア」ということになり、もうここまで来ると、ついていけない感がある。実際、弟子たちはついていけてない。平行箇所のマタイ16章22節を見ると、ペテロは「そんなことがあってはなりません」と食らいついている。最後は「三日目によみがえらなければならない」。殺されるメシアが理解できないわけだから、「よみがえるメシア」も、この時点では理解できない。「三日目」について説明しておくが、主イエスは金曜日の夕方に息を引き取り、日曜日の早朝によみがえることになる。当時の日数の数え方は、起点となる日は翌日ではなく当日に置くので、三日目ということになるが、現代ならば「二日目」となる。

この22節は、第一回目の受難と復活の予告となっているが、何よりも心に留めなければならないのは、真のメシアは「受難のメシア」であるということである。やがて弟子たちは、十字架の出来事は、救いのみわざのために必要不可欠なものであったと理解するわけである。けれども、それには時間を要した。9章43~45節では、第二回目の受難の予告がある。第三回の受難の予告は18章31~34節。今日の箇所は、第一回目の受難の予告である。

主イエスは23節以降、弟子道を教え、受難のメシアとなるわたしと同じ精神で、わたしについてくるようにと教える。弟子たちのメシア観は実に世俗的なものであったので、彼らはやがて主イエスが打ち立ててくれる神の国において、右大臣、左大臣となり、地位、名誉を手に入れ、格好よく生きることを夢見ていたかもしれない。だが、主イエスは、メシアとは苦しみを受け殺されなければならない者であることを告げ、あなたがたも、わたしのために同じ覚悟が必要だと諭すわけである。これまで以上に厳しい教えとなっている。「自分の十字架を負って」ということまで口にされている。主イエスは、ペテロたちがご自身を神のメシアと告白できたことを確認した上で、正しいメシア観を知ってもらおうと、ご自身がメシアとして苦しみを受けることを明らかにされた上で、このわたしについて来るとはどういうことなのかを教えようとされる。では、その教えを順次見ていこう。

「イエスは皆に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい』」(23節)。この節には、弟子への命令が三つある。第一の命令は、「自分を捨てなさい」(不定過去命令形)。不定過去命令形は、きっぱりとした決断を要求する命令形。きっぱりと自分を捨てなさい、というのである。潔く自分を捨てなさい、というのである。「捨てる」<アルネオマイ>というのは、関係を断つ、関係を否定する、という意味のことば。自分と関係を断ち、自分を否定しなさい、というのである。このことばはマタイ10章33節で用いられている。参考に開いてみよう。「しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います」。「人々の前でわたしを知らないと言う者は」を直訳すると、「人々の前でわたしを否定する者は」。人々の前で主イエスとの関係を否定する者は、ということである。私たちは、イエスさまを否定して自分を肯定するのか、自分を否定してイエスさまを肯定するのか、そうした選択を迫られる。

第二の命令は、「日々自分の十字架を負いなさい」(不定過去命令形)。これも決断を要求する命令形。まず「十字架」ということだが、現代は、十字架というと、愛をイメージし、いのちをイメージし、病院をイメージしたりする。けれども、当時は全然そうではなかった。十字架は犯罪人や奴隷を極刑にする手段である。それは苦しみと恥と呪いと死のシンボルである。先のことばとの関係では、自分を捨ててしまうことのシンボルである。死刑囚は十字架の棒をかついて刑場まで歩いて行った。この十字架をかつぐということは、自分を捨てたことと同じであり、自分の死を選ぶということであり、この世から慰めや賞賛を期待することは全くあきらめるということである。反対に、この世からの非難、中傷を覚悟しなければならない。誰のためにか?主イエスのためにである。主イエスは、「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々、自分の十字架を負いなさい」と言われる。良く見ると、「日々」である。日々の決断である。日々、きっぱりと、迷わずに、自分の十字架を負うのである。それは、主イエスについていくためである。

それにしても、なぜ主イエスについていくということは、自分の十字架を負うということになるのだろうか。それは、主イエスはこの世の原理と対峙するお方であるからである。それは水と油のように混ざり合わない。お互いに相いれない。だから、この世で主イエスに従うというとき、必然的に自分の十字架を負うことを選び取らなければならなくなる。この世に対して死に、自分に対して死ぬ立場に身を置くことになるということである。

第三の命令は、「わたしに従ってきなさい」(現在命令形)。この命令は、継続した行為を求める命令形となっている。ずっと従ってきなさい、ということである。私たちは途中、自分の十字架を下ろし、十字架の道から外れ、よろよろと、この世の側に身を起きたくなる誘惑があるが、途中、よろめいても、片膝着いても、倒れそうになっても、何をしても、主イエスの御足のあとを辿って、あとに従って行くということである。

以上から、わかることは、信仰とは、ただ「あなたは神のキリストです」と告白することではないということである。信仰とは、キリストに従うことである。キリストはそれをはっきりと求められている。では、キリストに従わないとどうなるのだろうか。二つのことを見ることができるだろう。キリストに従わなければ、第一に、自分のいのちを失うことになる、ということである。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の益があるでしょうか」(24,25節)。「いのち」ということばは、人格、本質、たましい、色々な訳が可能であるが、その人の存在の核となるもの。結局、これを失うということは、25節で言われているように「自分自身を失う」ことになるということ。それは滅びるということ。私たちはそうならないために、24節で「わたしのために」と言われている主イエス・キリストと、25節の「全世界」を天秤にかけて、その価値を精査したい。「全世界を手に入れる」の「手に入れる」ということばは、「儲ける、稼ぐ」を意味することばで、ある訳は「全世界を儲けても」と訳している。東京の一等地、シンガポールの超高級マンション、サウジアラビアの石油、オーストラリアの金、どころではなく、全世界にあるすべて。全世界のマネーも含む。このくらい大儲けしても、その儲けたものは私たちを救うことはできない。こうして自分のいのちを失ったら、それはすべてを失うということで、御笑い種である。だから、神の国の王であり永遠のいのちそのものであるキリストに対して、最高、最大の永遠の価値を見出して、この方に従っていきたい。パウロはキリストが下さるものに関して、「キリストの計り知れない富」(エペソ3章8節)という言い方をしている。

キリストに従わなければ、第二に、キリストが再臨されるとき恥じられる。「だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき、その人を恥じます」(26節)。「だれでも、わたしとわたしのことばを恥じるなら」というのは、主イエスについていくことを躊躇している姿である。初代教会時代、クリスチャンたちは、十字架についた死刑囚を信じて恥ずかしくないのか、とののしられただろう。日本では、唯一神を信じているというだけでののしられる。過日、有名な大学教授の講演の動画を見ていたら、聖書の神をののしり、そしてキリスト教をののしっていた。ばかなものを信じているという態度だった。そして自然宗教というか、八百万の神々を寛容に受け入れて生活する日本の信仰形態を称賛していた。またキリスト教国と言われるような国々でも、聖書の教えをまともに信じているクリスチャンたちは、時代遅れの価値観を持っている者たちだと嘲笑の的になっている。こうした周囲の雰囲気にのまれて、キリストとキリストのことばを恥じ入り、どっちつかずの態度でいるなら、キリストは再臨されるとき、その人を恥じると言われる。キリストを信じる信仰のゆえにののしられ、「お前は〇〇家の恥だ」と言われるようなことがあっても、やがて再臨されるキリストに、「わたしとわたしの国の恥だ」と言われないほうがよい。私たちは、この世界を創造し、支配しておられる唯一の神を誇りとし、そして、私たちの罪のために十字架に我が身を献げてよみがえられた主イエス・キリストとその福音を誇りとしたいのである。「使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った」(使徒5章41節)。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい」(第一ペテロ4章16節)。

26節の「人の子もまた、自分と父と聖なる御使いの栄光を帯びてやって来るとき」という表現にも注意していただきたいが、ここからわかるように、キリストは本来「栄光のメシア」なのである。しかし、私たちの罪のためにあり得ない受難を味わわれることを良しとしてくださったのである。

最後に、27節に触れて終わろう。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます」。さて、これがいつの時点のことが言われているのか、5つぐらいの見解があり、解釈は困難を極める箇所で、今はそれらの解釈に触れることは控えるが、大切な一つのポイントは、受難の予告や自分の十字架を負いなさいという厳しい教えの後に、意地を見せて皆で討ち死にしましょう、といった悲壮感漂う結末の話では終わっていないということ。また、「国破れて山河あり」といった、何の進展もない後ろ向きな慰めの描写では終わっていないということ。神の国の希望が語られているのである。神の国を見ることができるという希望が語られているのである。それは拓けた希望である。キリストはこの神の国において、「栄光のメシア」として統べ治められるのである。私たちの目をキリストとその御国に注ごう。そうして私たちの罪のために死んでくださったキリストにお従いしたいと思う。