「イエスとはいったい誰なのだろうか」。皆様もこの問いを持たれただろう。この問いは二千年以上にわたり発し続けられている。今日の記事は十二使徒の派遣で始まる。主イエスはイスラエルの十二部族にならって、十二使徒を通して新しい神の民を形成しようされた。「使徒」という呼び名は、2節の「遣わされる」ということばに由来している。使徒とは「神の国の福音を宣べ伝えるために遣わされた者たち」である。最初、神の国の福音を宣べ伝えていたのは主イエスだけであった。弟子たちも増え、ガリラヤ伝道が半年経った頃に、主イエスは十二使徒を選出する(6章12,13節)。十二使徒たちは主イエスのお供をしながら、見て、学ぶということをしてきた(8章1節)。主イエスは、今度は彼らを独り立ちさせて遣わすことになる(9章1~6節)。

ルカが描写する十二使徒派遣には、二つの特徴がある。一つは使徒たちに与えられた力と権威についてある。「すべての悪霊を制して病気を癒す力と権威を、彼らにお授けになった」(1節)。もう一つの特徴は、使徒たちに要求されている身軽さの描写である。「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません」(3節)。徹底した無一物が要求されている描写である。完全な手ぶらである。無一物で旅行したならば、当然、必要物資を提供する人が必要になるわけだが、宿を含めてそれらを提供するのは、神を信じていて、なおかつ彼らを受け入れる家庭ということになる(4節)。この箇所は、伝道者援助のスピリットを教える箇所だと言われている。教会が誕生すると、伝道者たちは信者の家を宿として巡回し、その必要は信者たちによってまかなわれたが、その出発点は、この十二使徒の派遣である。

弟子たちからすれば、この徹底した身軽さは神への全面的な信頼の訓練となる。代々、主の弟子たちは、そんなことをしたら、橋の下の何とかになるぞ、救貧院送りになるぞ、餓死するぞ、やめたほうがいいという誘惑を受けてきた。さて、弟子たちの必要は満たされたのだろうか。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。』彼らは、『いいえ、何もありませんでした』と答えた」(22章35節)。この体験は、神は生きておられる、神は真実なお方であられる、神は究極的な供給者であられる、そうした確信を得させるものとなったであろう。私たちは神に頼り切ることができない中途半端な信仰になってしまう弱さがある。主イエスは12章22節以降で、烏のことをよく考えよ、草花がどうして育つのかよく考えよと、神の養いに信頼するように、有名な説教をされることになる。これらの箇所を通して、主は信仰によるシンプルライフを教えていると言えるが、それは、ただ節約するとか、断捨離するとかという話ではなく、神の国とその義とを第一に求めるならば、別の言い方をすれば、神の国の福音を伝える働きを人生の柱として生きていくならば、必要は神がすべて満たしてくださることを教えておられるのである。

主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるとき、拒絶が伴うということを予見して語っておられる。「人々があなたがたを受入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落しなさい」(5節)。「人々があなたがたを受入れない」ということはどういうことだろうか。すなわち、主イエスを受入れたくない、主イエスのことばを受入れたくない、あなたがたが伝える神の国の福音を受け入れたくないということで、それが弟子たちを受入れたくない理由である。

町全体が弟子たちを拒絶し、神の国の福音を拒絶した場合、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、「足のちりを払い落しなさい」と言われている。これはユダヤ人的行為である。「足のちりを払い落す」という行為自体はユダヤ人の知るところであった。彼らは、パレスチナの外に旅行に出かけてイスラエルに戻る時に、足のちりを払う習慣があった。聖地に異邦人の地のちりを持ち越さないため、聖地を汚さないため、というのがその理由である。だが、主イエスの命令はイスラエル内のことである。イスラエル内にある町だから神の国に属するかというとそんなことはない。イスラエルに住んでいるユダヤ人だから救われるかと言うとそんなことはない。福音を拒むならイスラエルか異邦人の地かに関係なく、その町も人も滅びる。足のちりを払い落すジェスチャーはそのことを告げているが、それとともに、私たちは宣べ伝える務めを果たしました、滅びる責任はあなたがたにあります、という責任所在のメッセージにもなっている。気をつけて欲しいことは、足のちりを払い落す行為は、目の前の人に罵声を浴びせられて、こん畜生、ざまあみろと、迫害の腹いせにする行為ではないということ。6章で学んだ「平地の説教」では、主イエスは迫害する者たちを祝福することを教えておられる。そのことを絶対に忘れてはならない。

こうして十二使徒たちは町々、村々へと出かけて行った(6節)。反応はそれぞれの地域で違っただろう。これまでの主イエスの体験では、故郷ナザレではまったくひどかった。崖から突き落とされそうになった。地域性というものがある。反応が悪そうな地域には宣べ伝えたくない、時間とエネルギーの無駄だと思うかもしれない。しかしながら、反応の差異はあれ、福音は人が住んでいるすべての地域に宣べ伝えなければならないものである。それは、神がすべての人が悔い改めることを願っておられるからである。神は一人でも滅びることを望んでおられないからである。ヨナ書を読むと、神はかつて、暴力団をそのまま国にしたようなアッシリヤの首都ニネベに対しても、彼らの救いのためにヨナを遣わそうとしたことがわかる。

7~9節では、主イエスと弟子たちの福音宣教の過程で、ガリラヤの領主ヘロデの耳に主イエスのうわさが入り、それに対してどう反応したかが記されている。7節で「ひどく当惑していた」とある。彼は情報の整理ができないでいた。世間のうわさはいい加減なものだということは、皆さんもよくご存じだろう。ヘロデの耳には、主イエスに関して三種類のうわさが入っていた。第一は「ヨハネが死人の中からよみがえったのだ」といううわさ(7節後半)。「ヨハネ」とはバプテスマのヨハネのことで、主イエスより半年早く生まれていた預言者で、悔い改めを説くメッセンジャーであった。ヘロデは9節で、「ヨハネは私が首をはねた」と言っているが、執筆者のルカは首をはねたいきさつは記すつもりはない。ただ処刑した事実だけを記している。ヘロデは自分の不義を糾弾してくる目の上のたんこぶを殺してしまったわけである。そのヨハネがよみがえったといううわさは、彼を恐怖に陥れただろう。第二は、「エリヤが現れたのだ」といううわさ(8節前半)。「エリヤ」は旧約時代の大預言者であるが、マラキ書4章5,6節では、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」と預言があり、民衆はこのエリヤの再来を待ち望んでいた。その預言されていたエリヤとは、実はバプテスマのヨハネのことであるが(1章17節)、民衆はイエスさまの権威あることばを聞き、またその奇跡的みわざを見て、イエスさまこそがエリヤではないかと思ったようである。第三は、「昔の預言者の一人が生き返ったのだ」といううわさ(8節後半)。エリヤとは断定せず、旧約時代の預言者の誰かの生き返りということ。こうしたうわさは、すべて的外れだった。今年に入って、初代教会時代のユダヤ人の文書を読んだが、その中で、イエスはペテン師だと非難していた文章があった。救い主の名を語るペテン師というわけである。現代はどうだろうか。私の求道時代は、イエスは宇宙人というものがあり、書籍として出版されていて、それも読んだ。また、イエスは一人の人間でユダヤ人にすぎなかったが、ある時から自分は救い主にならなければならないと自覚した、というものもあった。さらには天使的存在に仕立て上げるものも幾つかあった。とにかく、人のうわさは尽きない。人はイエスに対して様々に言う。けれども真実は一つのはずである。

ヘロデは9節を見ると、「ヨハネは私が首をはねた。このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか」と、主イエスに会ってみたくなったということが記されている。真剣な求道心から、主イエスに会ってみたいと思ったのではないことは福音書全体から明らかなのだが、注目したいのは、「このようなうわさがあるこの人は、いったいだれなのだろうか」という問いかけである。誰なのか確信がないから問いかけている。ルカはこの問いかけを記すことによって、読者たちに対して、イエスとはいったい誰なのかを考えさせたい。ルカはこれまでも、同じような問いかけを記している。二箇所開こう。「すると、ともに食卓に着いていた人たちは、自分たちの間で言い始めた。『罪を赦すことをさえするこの人は、いったいだれなのか。』」(7章49節)。主イエスは罪深い女の罪の赦しを宣言した。当時、罪を赦す権威は神だけが持つと認識されていた。その場にいたのは多くはパリサイ人たちであろう。「罪を赦すことをさえするこの人は、いったいだれなのか」と、宗教家たちが問いかけたということである。続いての箇所は、湖での嵐の場面である。「弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。』」(8章25節)。今度は弟子たちが「この方は誰なのだろうか」と問いかけたわけである。そして、今日の場面の問いかけは、政治家の問いかけである。ルカは様々な人物の問いかけを通して、ではあなたはイエスを誰だと思うのかと、イエスという男の正体を知るように読者を促している。

「イエスとはいったい誰なのだろうか」という問いかけは、先読みをすると、20節で山場を迎えることになる。「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロは答えた。『神のキリストです』」。読者の心の中にもある「イエスとはいったい誰なのだろうか」という問いは、ペテロの答えに突き当たることになる。この答えは読者に対する挑戦となる。「神のキリストです」。これは、イエスを神として、そして救い主として認めた告白である。ヘブル語で救い主を「メシア」と呼ぶが、「キリスト」は、メシアのギリシア語読みである。この告白をどう受け止めるかは、私たちにゆだねられている。

実は、ヘロデの問いかけとペテロの告白に挟まるようにして、五つのパンと二匹の魚による奇跡の物語が記されている(10~17節)。この配置には理由がある。実は、この奇跡は、ヘロデの「この人は、いったいだれなのだろうか」の問いかけに対して答えを与えるものとなっている。ヘロデの問いかけとペテロの告白の間に挟まったサンドイッチ状の物語は、イエスとは誰なのかということを教えるものなのである。ルカの福音書を観察すると、この五千人の給食と呼ばれる奇跡で、主イエスの主要な奇跡は終わっている。この奇跡は主イエスがメシアであることを啓示している特別なものなのである。これまで主イエスはご自分がメシアであることを示すしるし(奇跡)を行ってきたが、この奇跡は、これまで以上にご自分のメシア性を示す奇跡となっている。この奇跡は、四福音書すべてに記されているという重要な奇跡である。しかし、良く見ると、ルカはこの物語の詳細を省き、他の執筆者の誰よりも一番簡明に記している。それは、主イエスのメシアとしての権威、メシア性に焦点を絞って記しているということである。この奇跡は、モーセが荒野でイスラエルの民たちに天からのパンであるマナを与えたことを想起させるものである(出エジプト16章、民数記11章)。ユダヤ人は来るべきメシアにも同様なことを期待していた。ここでの奇跡は、メシア時代の祝宴の前味を味わわせるものとなっている。主イエスがこの祝宴の主人としてふるまい、人々は食べて満腹することになる(17節前半)。満腹で思い起こすのは、平地の説教で学んだ二番目の幸いである。「今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです」(6章21節)。これはやがての御国で与る祝福である。

そして余ったパン切れにも注目しよう。余ったパン切れを集めると十二かごあった(17節後半)。「十二」は完全数で、この奇跡が特別なものという印象を与える。「十二」は聖書の完全数であるが、ともにイスラエルの十二部族に対応していると思われる。主イエスは十二部族にならって十二使徒を通して新しい神の民を形成しようとしていたが、今、十二使徒が配給の役を担って、すべての人を満たし、なお十二かご余った。主イエスを中心としたこの光景は、やがて完成する御国の素晴らしさを垣間見せる光景で、主イエスとは誰かということを、これまで以上に良く物語っていると言える。

そしてこの後、先に見たように、主イエスに対して色々なうわさがある中、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という問いかけに対して、ペテロは弟子たちを代表して、「神のキリストです」と答える(20節)。「神のキリストです」という答えは、以前から持っていたはずだが、主イエスは満を持して、このタイミングで問いかけた。「あなたがたは、もう、その確信は揺るがぬものになっているはずだ」と。私たちは、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」という問いかけに対して、また「イエスをだれだと言いますか」という問いかけに対して、どう答えるだろうか。私たちは教会において、「イエスは神の救い主」と教えを受けた。あっちこっち迷走しながらも、ほぼほぼそう信じることになったと思うが、心の片隅には、疑いが潜んでいたり、確信が揺らぐ時期もあったと思う。イエスは正真正銘、神と言える存在なのかと。絶対的な救い主なのかと。そして揺るがぬ確信に至るためには、福音書等を読んで格闘する期間が必要であったと思う。こうした心の旅を主は見ておられる。

最後に、ペテロのもう一つの信仰告白を読んで終わろう。ユダヤ教の指導者たちを前にしてのことばである。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(使徒4章12節)。ペテロの確信に満ちた最高の告白である。この告白に至る者は幸いである。