著者は伝道者の書9章に入ると、太陽の下で未来に起きる事柄に焦点を合わせる。良いと見えること、悪いと見えることは、善人にも悪人にも起きる(1,2節)。また、死は善人にも悪人にも同様に訪れる。「同じ結末がすべての人に来る」(3節)。死の影は悪人にだけ忍び寄ってくるのではない。善人にも忍び寄る。善人は地上の人生で悪人同様、悪い事も体験し、しまいには死も訪れる。これでは不公平ではないか。よって、解決はおのずと、日の下(太陽の下)ではなく、日の上(天)に求めることになる。そして、確かに、そこに本当の解決がある。
このように言うとある人たちは、もう解決していると言うかもしれない。人は死んだら天国に行くのだろうと。しかし天国というのは、罪赦された者たちが入る世界である。そこに入れるという確信があるだろうか。「きっと入れるだろう、たぶん入れるだろう」と不確実なことしか言えない人がほとんどではないだろうか。それどころか、天国があるかないかの確信すらないのではないだろうか。
 天国から地上に来られた方がいる。イエス・キリストである。キリストは天から下られ、肉体をまとい人となられた。そして人として罪のない人生を歩まれ、天の御国を証され、時至り、私たち罪人の罪を被り、エルサレムの死刑場で十字架につけられ、身代わりの死の裁きを受けられ、尊い血を流された。キリストは三日後によみがえり、天に帰っていかれた。私たちに先だって天国に昇られた。このキリストの救いのみわざにおいてポイントとなるのは十字架刑である。キリストの十字架は私の罪のためであったと信じる者に罪の赦しがあり、永遠のいのちが与えられる。その人の肉体は死んでも、天の御国の門をくぐることが許される。
私たち日本人も日の上の世界にあこがれはする。しかし、それは不確実な希望でしかない。人は死んだらどうなるのかという説は諸説入り乱れて混乱している。今、お盆の時期である。お盆は正式には「ウラボンエ」と言い、地獄に逆さに吊るされた苦しみのことを言うが、それを救う行事がお盆である。お盆には地獄の釜の蓋が開いて、たましいが家に帰ってくると言う。だが亡くなった人たちは地獄ではなくあの世に行ったはずではなかったのか?お墓を別の墓地に移す時はたましい抜きをしなければならないと言う。たましいはお墓に住んでいるのではなく、あの世に行ったはずではなかったのか。お盆が終わればたましいは送り出され、どこに行ったかはわからないが家にはいないことになっている。なのに仏壇にいると言う。この矛盾はどう考えたらよいのか。また、お彼岸は日本にしかない習慣で、あの世からたましいを迎える時とされているわけだが、お盆が過ぎ、地獄に帰ったはずのたましいが、なぜあの世から来るのか。お彼岸が過ぎると、たましいはあの世に帰ったことになっているが、まだ仏壇にもお墓にもいることになっている。そればかりでなく、草場の陰にもいることになっている。海や山にもいると言われる。ひとつのたましいが、あの世にも地獄にもお墓にも仏壇にも、はたまた草場の陰といった自然界にも同時にいるというのだろうか。それだけではない。人が死んだら蝶々や鼠や別の人間に生まれ変わるのだとも言われている。もうこうなると、たましいは幾つあっても足りない。分身の術でも使うしかない。今述べた生まれ変わりの教えは輪廻転生の教えである。これは死後の生まれ変わりの思想である。インドでは人は死んだらすぐに生まれ変わるとされた。ほとんどが動物に生まれ変わり、人間に生まれ変わるのはまれだと小乗仏教では説いている。死んだらすぐに生まれ変わる訳だから、たましいが寄り付くお墓も仏壇も、必要とはされなかった。
 この仏教が中国に伝わった時、問題が起きた。中国では儒教が信奉されていて、先祖のたましいは祭壇に寄り付くとされ、形ある祭壇を拝む先祖崇拝がされていたからである。最初の頃、先祖崇拝をしない外国の宗教はお断わりと、仏教は突っぱねられた。それで先祖崇拝との妥協が生まれた。中国で仏教は、儒教、道教、シャーマニズムと混合し、それが日本に伝えられて、それはまた日本の民間宗教と混じり合ったというわけである。実は、仏教の創始者の釈迦は、仏壇どころか輪廻転生の教えも説いていない。輪廻転生というのは、仏教以前のヒンズー教、バラモン教の教えで、それらがまた仏教と混ざり合い、そのせいで輪廻転生どころか、仏教以前の様々なインド古来の神々が仏教に混じり合うようになっていった(般若心教等)。釈迦は神々に救いを求めよなどとは説いていない。釈迦は今、崇拝の対象だが、釈迦は死が間近になった時、弟子たちに対して、「これから私の亡き後は、法を灯りにして生きよ」と言い、わたしを信じれば救われるなどと言っていない。彼は真理を求める同行の一人として自分を考えたにすぎない。彼は、神なのか、天使なのかと問われた時、首を振った。彼は一哲学者であった。実は、地獄、極楽の教えも釈迦は説いていない。聖書の一番古い部分は釈迦誕生の一千年も前に西アジアで書かれているが、地獄、極楽の教えは西アジアの思想の影響だと言われている。1世紀頃キリスト教が仏教に影響を与えたこともわかっている。もうその時、インドにキリスト教が伝わっていたからである。親鸞、空海の教えも聖書に近いと思ったら、彼らは聖書を読んで勉強していた。その証拠の品もお寺に保管してある。私たちは仏教の初期の純粋な教えを知ろうとしても、仏典そのものが釈迦の直接の目撃者たちが書いたものではないので、どこからどこまで信じていいのかわからない。しかし、今、ご一緒に見ている新約聖書は、イエス・キリストの目撃者たちが生存中に書き上げたものなので信頼できる。この書は、イエス・キリストが神の救い主で、真理あり、永遠のいのちであることを証言している。このキリストを通して天の御国に入ることができることを約束している(ヨハネ14章6節)。天の御国は確実にある。キリストを信じる者は確実に天の御国の門をくぐることができる。不確実性の世界、そして先はどうなるかわからない不確実性の時代を生きている私たちにとって、望みを、このキリストに置くことができるという幸いがある。皆さんはどこに行こうとしているのだろうか?死んだらどうなるのだろうか?確信がありませんか?キリストを通して救いがあるという一本道を信じていただきたいと思う。救い主イエス・キリストは実在し、天の御国も実在している。そこが私たちの真の住まいである。