8章は、主イエスの神としての権威を示す物語で詰まっている。自然界に対する権威が22節以降の物語で、悪霊に対する権威が26節以降の物語で見ることができた。今日の物語では、病と死に対する権威を見ることができる。

主イエスと弟子たちはガリラヤ湖の対岸に出かけていたが、今、戻って来た(40節)。「みなイエスを待ちわびていたのである」とあるが、その中でも、「早くイエスさま、戻って来てください」と誰よりも待ちわびていた男がいた。その男とは、会堂司のヤイロである。娘が死にかけていたのである。(41節)。「会堂司」とは、会堂の礼拝をリードする役職である。前回は墓場に住んでいた男と対峙した主イエスであったが、今度はユダヤ教のコミュニティの中心的役割を果たす男と対峙することになる。彼には12歳ぐらいの一人娘がいて、この時は危篤状態であった(42節前半)。12歳という年齢だが、当時、13歳が男性の成人年齢であった。ということは、女性の12歳というのは、単に少女の年齢ということにはならない。成人年齢に達した年齢ということになる。彼女の人生はこれから花開くという時に、助からない病にかかってしまった。しかも、ヤイロにとって彼女は一人娘である。ヤイロにとって幸いであったのは、彼には主イエスに対する信仰(信頼)が芽生えていたということ。彼は主イエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願した(41節後半)。

主イエスは彼の家に向かうも、早い足取りでは無理そうである。「群衆はイエスに押し迫って来た」(42節後半)とある。この後の記事を見ても、外で道を歩いているのに満員電車のような状況であったことがわかる。これに加えて邪魔が入る。主イエスにとって邪魔ではないが、ハプニングが起きる。混雑している中、どさくさに紛れて一人の女が主イエスに近づいてきた。「そこに、十二年の間、長血をわずらい、医者たちに財産すべて費やしたのに、だれにも治してもらえなかった女がいた」(43節)と、医者のルカが記している。平行箇所のマルコ5章26節では、「彼女は多くの医者からひどい目にあわされて、持っている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた」とある。まず長血だが、異常出血である。この病は不浄な病とされ、この病にかかった女性は儀式的に汚れた者とみなされるだけでなく、彼女がふれたもの、および彼女がふれたものにふれてしまった人も汚れたとみなされた(レビ15章25~27節)。汚れた人は当然、神殿に入れないし、会堂に出入りもできない。なるべく人に近づかないように注意深く生きていくしかない。ということで、長血を患った女は宗教的にも社会的にも孤立した生活を送らざるをえなかった。しかも12年間という長きに亘って。治る努力はしたが、悪い医者に引っかかって財産も底を突く状態。病気も進行するばかり。当時の病気の考え方とすれば、彼女は神の国には入れない罪深い女扱いのはずである。彼女は何度も幻滅を味わい、どん底まで行きついた。自分の運命を呪ったり、自己憐憫に陥っても不思議ではない。しかし、彼女にとって幸いであったのは、ヤイロと同じく、主イエスに対する信仰(信頼)が芽生えていたということ。だから、主イエスに近づいた。しかし、病気が病気だったので、自分の正体が誰にもバレないように近づかなければいけなかった。そして主イエスに対しても、みつからないように、知られないように事を済ましてしまおうと。彼女は群衆をかき分けかき分け主イエスに近づき、そして、うしろから衣の房にさわった(44節)。「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである(マルコ5章28節)。彼女の一途で必死な思いが伝わってくる。これは「溺れる者は藁をもつかむ」とは違う。イエスさまの一部にでもふれれば絶対に治るという確信から来た行動である。主イエスの能力、力、権威を信じ切った行動である。彼女は瞬時にいやされることになる(44節)。

彼女はこの後、秘密裏に立ち去ろうとした。だが、それを主イエスは許さなかった。「わたしにさわったのは、だれですか」(45節前半)。彼女は額を青くしたか、心臓の鼓動が高まったか、体に震えが来たか、どういうことになったかわからないが、体に緊張が走ったことは確かだろう。ペテロは、大勢の人が取り囲んで押し合い圧し合いやっているんですから、何をおっしゃるんですか、といった反応を見せる(45節後半)。だが、主イエスは単なる肉体的接触とは違う何かを感じ取っている。「だれかがわたしにさわりました。わたし自身、自分から力が出行くのを感じました」(46節)。主イエスの感覚は私たちのそれとは違う。信仰による接触に気づく。そして、さわったその人とは誰であるのかも分かっていたはずである。彼女は大勢の群衆の中にまぎれていた一人にすぎないが、主イエスにとってそうではない。彼女はこれまで、人々の関心は薄く、孤立して生きてきた女性であったが、主イエスにとってはかげがえのない一人であり、この時も多大な関心を示しておられる。彼女は隠しきれないと知って、主イエスの御前に震えながら出て、ひれ伏してすべてを打ち明ける(47節)。主イエスは彼女をとがめることなく、こう告げられる。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(48節)。主イエスは「あなたの信仰があなたをいやしたのです」という表現を取っていない。「救ったのです」である。彼女は単に肉体的いやしに与ったばかりか、もっと深いいやしに与ったのである。全人格的救いということである。「安心して行きなさい」の直訳は「平和へと行きなさい」。平和、それは神からの賜物で、救いの同義語である。御使いたちはキリストの誕生時に賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように」(ルカ2章14節)。この平和が、12年間長血を患った女にももたらされたということである。ハレルヤ!

さて、彼女のことで時間を取っているうちに、一つの報告が入る。「イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人が来ていった。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすことはありません』」(49節)。一刻の猶予を争う時に、長血を患った女性に時間を使うという事態となった。ヤイロの娘は家に着く前に死んでしまう。けれども主イエスは、「残念なことをした。遅かった」という反応は全く見せない。遅くなかったからである。到着の遅れは主の御計画のうちにあり、それは主の御計画の中では遅れではなく、ベストタイミングだったのである。人の目には、「イエスさま、もっと早く動いてくだされば、手遅れだ」と思うことがある。だが、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3章11節)である。私たちのはやる心、いらだつ心、それは、主に明け渡さなければならない。そして、主の時に、主の栄光を拝することになるのである。

主イエスは言われた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われます」(50節)。長血を患った女のいやしは、ヤイロにとっても益となったはずである。励ましとなったはずである。目の前で不治の病が治る奇跡を目撃して、彼の信仰は強められたと信じたい。そして、「恐れないで、ただ信じなさい」を正面から受け取ったと信じたい。

これから行われようとする奇跡は人に見せるものではなく、野次馬根性で家の中に入り込んで来られては困る。家の中には弟子の三羽烏と、その少女の両親しか入ることが許されなかった(51節)。しかし、泣き悲しんでいた人々に主イエスは言われた。「泣かなくてよい。死んだのではなく、眠っているのです」(52節)。葬儀には専門の泣き女たちがいるのが通例だった。皆でオイオイやっていただろう。だが、それは無用である。眠っているからである。「眠っている」という表現は、生き返り、復活を前提としたことばである。つまり、死より目覚める時が来るので「眠っている」という表現が採られているのである。だが、それを解しない人々は嘲笑った(53節)。

では、ヤイロの娘を生き返らせる主イエスのみわざを見よう。「しかし、イエスは少女の手を取って叫ばれた。『子よ。起きなさい』」(54節)。まず特徴的なのは、「イエスは少女の手を取って」という動作である。先ほどは、主イエスは病で汚れている女がご自分にさわるのを許した。この場合は、主イエスから死体に接触した。死体は汚れとされ、死体にふれる者も汚れるとされた。当時の常識である。普通の人はしない行為である。7章14節では、やはり汚れとされる棺にふれて、やもめの一人息子を生き返らせるみわざを行った。5章13節では、汚れとされるツァラアトに冒された人にさわっていやしのみわざを行われた。今回の場合、さわるとか、ふれるとか以上の「手を取って」という接触行為である。

続いて、権威あることばで、いのちを返される。「子よ、起きなさい」。聖書には、このような権威あることばの事例がたくさんある。旧約聖書から思い出したのは、神の救いのことばで、「わたしは捕らわれ人には『出よ』と言い、闇の中にいる者には『姿を現せ』と言う」(イザヤ49章9節)。神のことばが発せられれば、それはその通りになる。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」(イザヤ55章11節)。

こうして少女は生き返った。「すると少女の霊が戻って、少女はただちに起き上がった」(55節前半)。肉体と霊が分離するのが死と言えるが、彼女に霊が戻った。主イエスの前に死は屈服した。

この日、二人の女性が、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」というみわざに与った。二人の共通点は、ある時点で病に侵され、いのちが消耗していったということとともに、「12」という数字がある。一人は12年間、社会から隔離されて、孤独な生活を送っていた。日陰の女性というイメージである。病は悪くなる一方で治る望みは断たれようとしていた。もう一人は親の寵愛を受け、一人娘としてかわいがられて育ってきたが、突如の病か、病弱であったのか、いのちの灯が消えようとしていた。それぞれの12年間であったと思う。長血を患っていた女性のほうは、自分は治ったけれども、ヤイロの娘は死んだという悲報を受けて、少女はどうなってしまったのかと案じていたのではないかと思う。病の重さから言えば、ヤイロの娘のほうは危篤状態であったので、優先順位から言うならば、いやしはまずヤイロの娘からというところであった。「それなのに、私は時間を取らせてしまった」と申し訳ないという気持ちが働いたかもしれない。長血を患っていた女性は、ほどなくしてヤイロの娘が生き返ったという吉報を耳にして安心しただろう。そして、もしかすると、この日を境に、何の交流もなかった二人に交友関係が生まれたかもしれない。

以上で、ハッピーエンドに終わった二人の女性の物語だが、最後に、私たちが病んでいる人にどのように向き合うべきか、三つのことを確認して終わりたい。

第一に、外部者は病の原因について不必要な詮索をすべきではないということ。ご存じのように、当時は、病は罪の結果として決めつける傾向にあった。それは今もある。ある女性が病気になって教会の長老たちのところに行ったら、「あなたは何か罪を犯したからこうなったのだ」と言われ、悔い改めを迫られたそうである。ご存じのように旧約聖書の有名人ヨブも、ヨハネ9章の生まれつきの盲人も、罪とは無関係に病となり、障害を負った。彼らは信仰の学校に入れられたことはまちがいないが。私は、あなたの前世に問題があるから病弱なのだと、ある新興宗教の方に言われたことがある。病は遺伝的要因もある。環境の要因もある。家庭生活や社会生活にストレスがあって、ぜんそくや不整脈や、その他の障害が現れる事例も多い。これらは心理的要因と言ってもいいだろう。病は本人の責任に帰せられる場合も確かにある。食生活の乱れ、また、心に隠し持っている罪に起因するものも確かにあるはある。聖書は悪霊が引き起こす病があることも告げている。しかし、どうして病にかかってしまったのか、原因を究明できないものが多い。同じように生活しているのに、どうしてこの方にはこんな病がというものが多い。そして、病というのは、人間ならほとんど誰しもがかかるものである。その人に重大な問題があるからこうなったのだという詮索は人がすべきことではない。それは不遜なことである。

第二に、病んでいる人の回復を願うということ。これまでのルカの福音書の学びからもわかるように、病の種類は色々あれど、主イエスはすべての病人に対してあわれむ態度を見せられた。私たちもそうであるべきだろう。そして、主はいやしのみわざを行われた。だが、いやされない病があるではないかという意見もあるだろう。確かにあるにはある。大勢の人にいやしのわざを行ってきた使徒パウロも病にかかっていた(第二コリント12章7~9節)。パウロはそれを「肉体のとげ」と呼んでいるが、どのような病であったのかは記されていない。パウロはそれを取り去ってくださいと三度も主に祈ったが、その祈りは聞かれなかったとある。それは、パウロのためになると主が判断されたからである。主は語られた。「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(第二コリント12章9節)。私も病気で療養中にこのことばを受けた。本人と主との間ではやりとりが様々あるわけだが、第三者は病んでいる人を見たら、一応に回復を願い、祈るべきである。そのような中で、主は祈りの力も体験させてくださるのである。その事例も多い。

次のような文章に目が留まった。「ある時、私は、小さなグループの祈祷会に出席していたのですが、その中の一人が背中の状態が悪くて苦しんでいたので、他の人がそのために祈りましょうと提案しました。その提案はもう一人の婦人の思いの中に、その日欠席している友人が同じような背中の痛みに苦しんでいることを思い出させたので、その人のためにも祈って下さいと願いました。その場にいた背痛の女性は、『そうですよ。私はその痛みがよくわかります。もう私のために祈らなくて結構です。あの方のほうが私よりもっと悪いのですから。あの方のために祈りましょう』と言ったのです。お笑いですね。それとも悲しむべきでしょうか。うわべは同情を示すような言葉に聞こえますが、実は祈りに答えられる神の能力について、このような人は滑稽で、哀れな見解を持っているのです。その見方は、あたかも全能なる神は人に与える賜物に限りがあるので、数が切れてしまうと、求める者に「残念。遅すぎたね」と言うようなものです」。祈りに答えられる神の能力は、今日の物語からも知ることができる。主イエス・キリストは偉大な権威を持つ神である。私たちは、キリストを小さくしてしまうことがなく、聖書が啓示する等身大の姿でキリストを見、このお方に信仰を働かせたい。

第三に、病んでいる人の救いを願うということ。主イエスは、12年間長血を患った女にいやしとともに救いを与えた。この救いは永遠の救いである。それは病も死もない神の民としての生活である。これが、主イエスが私たちに与えたい最大のプレゼントである。