主イエスはガリラヤ湖を横断した。目的地はガリラヤ湖東岸にあるゲラサ人の地である(26節)。来る途中、湖上で突風が吹きおろし、舟は危険な状況になった。弟子たちは溺れて死ぬかもしれないと死の恐怖を感じた。結果的に主イエスがこの嵐を鎮めるわけだが、弟子たちは25節後半で、「お命じになると、風や水までが従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」と驚きの声を発した。イエスというお方は誰なのか、どういうお方なのか、今日の物語でも、この質問に対する答えが備えられている。28節では「いと高き神の子イエス」とあるが、主イエスは、前回は全天全地に権威のあるいと高きお方として、自然界に対する権威を表したが、今回はその権威を霊的敵に対して表す。

主イエスが弟子たちとともに到着したゲラサ人の地の具体的な場所は諸説あるが、ユダヤ人が飼わない豚を大量に飼っていたところから、異邦人の地であったことはまちがいない。そこでは異教の神々が拝まれていた。この地に着くと、墓場に住んでいる一人の狂人と出会う。これから、この男の特徴を五つに分けて説明しよう。

第一、悪霊につかれていた。しかも多くの悪霊に。30節で、「悪霊が大勢彼に入っていたからである」とある。複数以上の悪霊につかれるという事例は時おり耳にする。同じく30節で、悪霊は「レギオンです」と名乗っているが、「レギオン」はローマの6千人からなる軍団の名称。これは大勢の悪霊につかれていることの比喩的表現。主イエスはこの後、悪霊を追い出すわけだが、悪霊追放は救いと密接な関係がある。使徒26章17,18節を開いてみよう。「わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである」。これはパウロを使徒として召す時の主イエスのことばである。救いとは「サタンの支配から神に立ち返らせ」ることであると言われている。悪霊はサタンの手下どもであるわけだが、人は悪霊につかれていなくとも、多かれ少なかれ、このような霊的な敵の影響下に置かれている。このゲラサ人の場合、その影響を最強のかたちで受けてしまっている。主イエスはこれまでも悪霊追い出しをしてきたけれども、今回ばかりは無理なのだろうか。無理ではなかった。主イエスに救えない人などいないことを、この物語は教えてくれる。
第二、自分を制御できない。彼は自分を見失い、自分ではない自分に苦しんでいる。自分の中に別の人格が住み込み、それが、その人の生活を破壊していた。29節を見ると、余りに暴れるので、鎖と足かせでつながれていたことが記されている。しかし、それらを断ち切って荒野に逃げてしまう。平行箇所のマルコ5章5節では、「夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていたのである」と、ただ叫ぶばかりではなく、自傷行為にまで出ていたことがわかる。このように自分を制御できない彼を、簡単に特別視できないだろう。自分の中に悪いもう一人の自分が住んでいて、自分を思うようにコントロールできないという感覚は誰しもが持っているはずだからである。だが人は、キリストによるコントールを受けることができるである。
第三、社会生活は送れず、孤立している。ゲラサ人の物語は、マタイにもマルコにもあるわけだが、ルカの福音書の特徴は、27節後半の「彼は長い間、服を身に着けず、家に住まないで墓場に住んでいた」という記述である。普通の人は服を着て、家に住んで、社会生活を営む。だが、その気はない。39節では「あなたの家に帰って」とあり、平行箇所のマルコ5章19節では「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい」と言われていて、彼には家族があったことがわかるが、家族とは暮らせない。それどころか、あらゆる人との関係を避け、誰も住まない墓場でひとりぼっちで生きようとする。人間関係は築けないというか、築きたくはない。人嫌いとなり、憎しみ、恐れ、利己性、自己嫌悪といったことにとらわれつつ、孤独に生きている。
第四、汚れを愛している。墓場は汚れたところとされていた。この墓場は岸壁を横に掘って作った墓である。そこは死体の置き場所である。ふつうは住みたい場所ではない。29節で悪霊は「汚れた霊」と言われていることにも注意してほしい。彼自身も、彼の生活空間も汚い有様であった。現代人は彼を特別視するかもしれないが、神の聖さよりも汚れを愛する、それは彼だけのことではないことを覚えておくべきである。汚れた霊は、今も人に働きかけているだろう。
第五、夢や希望を失っている。人生に何の夢も希望もないから墓場に住んでいる。墓場は死の場所である。ここに住んで、ただ自暴自棄になって毎日を送っているだけである。まさしく彼は生ける死人である。だが、このままではいけない。
主イエスは、このような彼を救おうとされて、危険まで冒して、わざわざガリラヤ湖を横断してきた。主イエスのご愛を感じる。さて、このゲラサ人は、主イエスを歓迎しただろうか。「彼はイエスを見ると叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください』」。心に留まるのは、「私を苦しめないでください」という嘆願である。このことばの出所は悪霊にあるわけだが、人はキリストに出会う時、今までの生き方にとどまることのないように挑戦を受けるので、思いにおいて苦しみを感じる時がある。人生の転換期に、キリストは私たちのたましいを揺り動かす。そして葛藤が生まれる。キリストに降伏するまでそれは続く。自分の殻の中に閉じ困っていたい。ある罪を捨てずにいたい。今のままが楽だ。そして「私にすべてを明け渡しなさい」という主の御声に従った時、霊の勝利がある。夜明けを体験することになる。

では、悪霊追い出しの場面に移ろう。「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないように懇願した」(31節)。「底知れぬ所」とは、悪魔が世の終わりに投げ込まれる獄屋のことである(黙示録20章1~3節)。主イエスは、さばきの時はまだ来ていないので、「底知れぬ所」に行くことをまだ命じはしないが、かといって、人間に入ることも許さない。それを知っている悪霊どもは、豚に入ることを願い出て、それを許されることになる(32,33節)。34節で、豚飼いたちはこれを見て、驚き逃げ去ったことが記されているが、なぜか、この物語においては、主イエスの弟子たちの驚きの反応は記されていない。人々が主イエスのみわざに驚く記述はこの後も繰り返されるが、弟子たちの驚きの反応の記述は、25節のガリラヤ湖上で終わりである。弟子たちは、主イエスが誰なのか、どのようなお方なのか、心に沁みてきていたということだろうか。

こうして悪霊につかれたゲラサ人は救われた。35節では、「イエスの足もとに、悪霊の去った男が服を着て、正気に返って座っている」とある。「服を身に着けず」と言われていたのが、服を着ている。そして主イエスの足もとで、正気に返って座っている。彼は主の前で我に返った。私たちは、なぜあの時はあんな馬鹿なことをしたんだろうと過去を振り返る時があると思う。感情が乱れた行為、意固地なふるまい、そうしたことが聖霊のコントールを受けて初めて、愚かだったと気づかせられることになる。悪の力が靄のように取り巻いている時は、自分が見えなくなっている。自分はまともであると思っても、実はそうではない。視野は狭く、思考すらまともに働いてない。

実は、ゲラサ地方すべての人がそうなのである。不思議なのは、狂人がイエス・キリストを受入れたけれども、その他のほとんどの人が、キリストを拒んだという事実である。「ゲラサ周辺の人々はみな、イエスに、自分たちのところから出て行ってほしいと願った。非常な恐れにとりつかれていたからであった。」(37節)。確かに、たくさんの豚が突如、崖から下り落ちる様はびっくりさせるのに十分であったと思うが、主イエスを自分たちの生活と産業を破壊する人物と思ってしまったのだろうか。そうであったかもしれないが、彼らはたましいの救いということには無関心なのだろうか。主イエスに、「自分たちのところから出て行ってほしと願った」というのは、彼らの霊性が闇に閉ざされていたことを物語っている。

最後に、悪霊の去った男に対する主イエスの命令を見て終わろう。「悪霊が去ったその人は、お供をしたいとしきりに願った。しかし、イエスはこう言って彼を帰された。『あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことすべて、話して聞かせなさい。』それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた」(38,39節)。彼は主イエスによって救われて献身の生涯を送ろうと思ったが、ペテロたちのように出家することを許さなかった。「あなたの家に帰って」とあるように、また「町中に言い広めた」とあるように、地元での宣教を申しつけた。それは、彼のこれまでのことを考えたなら、また彼の救われ方を考えたなら、一番ふさわしいあり方である。その辺りを整理してみよう。

彼はこれまで、家族には心配をかけ通しで、また周囲に乱暴を働いて迷惑をかけたはずだから、先ずはその辺の後始末はしっかりする必要があったと思う。心配をかけていた家族に報告し安堵してもらう、迷惑をかけていた人たちに詫びる、和解する、場合によっては弁償する等。そして、家族を避けていた彼が、家族のところに帰って、主イエスがしてくださったみわざを家族に伝えるということ。それは彼にとって当然のことである。

また、ゲラサ地方のことを考えたらば、彼は宣教者としてふさわしい。まず彼は、ゲラサ地方で初穂となる存在であったはずである。初穂の彼が伝えるのが良い。しかも彼は劇的な救いを体験した。「ちゃんと服を着るようになった、墓場から家庭に戻った、乱暴狼藉を働いていたのが正気になって柔和になっている、人が全く変わった…」、こうした評判が町中を駆け巡っただろう。ゲラサ地方ナンバーワンの問題児が主イエスと出会って生まれ変わってしまったのである。彼の証はインパクトを持つはずである。彼はこの地方に伝えるのに最適な人物である。

もし彼がゲラサ地方からいなくなってしまえば、この地方に伝える人はいなくなってしまう。主イエスはそれを望んではおられない。ゲラサ地方の人々は37節で見たように、かたくなであり、主イエスを拒んだ。主イエスに離れるように願った。しかし、主イエスはそのような彼らをなお愛しており、彼らのために宣べ伝える者を派遣しようとされた。その適任者が彼であったというわけである。その土地の生まれの者で、土地の人に良く知られていた男、劇的な救いを体験し、その土地の初穂となった彼。主イエスに召されて出家する弟子でないかぎり、私たちは、このゲラサ人の男に倣うべきだろう。未信者の家族に重荷を持つということ。そして、宣教活動の範囲は自分が置かれている町全体であると意識すること。もし、今住んでいる場所を後にしなければならないとしても、私主義になって、ミーイズムになって、自分の住みたい場所で好きなように生きる、という生き方は奨励できないわけである。あくまでも主の弟子として、宣教者として、主が遣わす所で生きるということである。

最後の最後に39節のカギ括弧のことばに注目しよう。「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい」。これは個人的証の勧めである。「すべて、話して聞かせなさい」と訳されていることばは一つで、「詳しく話す」という意味のことばである。自分がキリストによってどのようにして救われたのかを「詳しく話す」ということである。彼はそのようにしただろう。彼は良き証者となった。キリストによって変えられた者として。私たちも救い主であるキリストのみわざを宣べ伝えよう。