子どもの時は良くなぞなぞクイズで遊んだ。主イエスもなぞなぞクイズを出す。それは解けそうで解けないなぞなぞである。今日の箇所には、マタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されている有名な「種蒔きのたとえ」が記されている(4~8節)。たとえというのは、わかりにくいことをわかりやすくするために用いるというのが一般的である。だが、主イエスのたとえの用い方はそうではない。主イエスのたとえは、なぞなぞなのである。「種蒔きのたとえ」もなぞなぞである。

初めに「種蒔きのたとえ」の後の、弟子たちと主イエスの会話である9,10節をご覧ください。「弟子たちは、このたとえがどういう意味なのか、イエスに尋ねた。イエスは言われた。『あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されていますが、ほかの人たちには、たとえで話します。彼らが見ていても見ることがなく、聞いていても悟ることがないようにするためです」。意外なおことばである。たとえを聞いても、人によっては謎として残ってしまう。そのたとえは、かえってクエスチョンマークを点滅させる。主イエスは「神の国の奥義」と「たとえ」を組み合わせて述べている。「奥義」<ミュステーリオン>は英語の<ミステリー>の語源となった。「秘密」とか「秘儀」とか別訳できる。「神の国の奥義」とは「神の秘密」なのである。それが主イエスによって啓示される時が来た。主イエスを通して露わにされる時が来た。だが、主イエスはこの神の秘密を謎のようなたとえによって語るというのである。

「たとえ」<パラボレー>の意味は、「傍らに投げる」。理解させたいことの傍らに、それに関連したお話を投げかけて理解させる、という意味である。本来たとえはわかりやすい。だから、人はたとえによって理解することができるので、解説などいらなくなる。ところが、主イエスのたとえは、聞く耳のない者にとっては、謎になってしまうという性質のものなのである。謎として残ってしまうということである。謎のようなたとえなので、聞く耳がなければだめだということになる。だから主イエスは8節で、たとえを話しながら、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、大声で言われた。主イエスのたとえは、なぞなぞとしてすべての人に投げかけられている。たとえが私たちをふるいにかけてしまう。だから、私たちも聞く耳を持つということが大切であることを知ろう。

今日の種蒔きのたとえの背景には、1~3節で記されていた巡回伝道がある。1節にあるように、主イエスは町や村を巡って、いわば、みことばの種蒔きをしてきた。その結果、色々な反応が出てくるわけである。それが今日のたとえの布石となっている。

4節を見ると、これまでの巡回伝道の成果によって、大勢の群衆がみもとに集まってきたことがわかる。主イエスは彼らに向かって、種蒔きのたとえを語る。当時の農夫は、畑を歩き回りながら、肩にかけた袋から種を取り出してバラッと蒔いた。種蒔きが終わったら、収穫まで畑はほおっておかれた。それが今日の農作業と違う点。だから、収穫成功のカギは、種を蒔いた土壌の良し悪しにかかっていた。

主イエスは種が四種類の場所に落ちたことを語る。第一は「道端」(5節)。これは畑ではなく、論外の場所である。人に踏みつけられ、鳥が食べてしまい、芽が出るどころではない。第二は「岩地」(6節)。マルコ4章5節では「土の薄い岩地」となっている。一応、芽は出る。ところが、土が薄いので根は張れない。太陽が照りつけると、水分はすぐに飛んでしまい、あっという間に枯れてしまう。第三は「茨の地」(7節)。「茨も一緒に生え出で」とあるので、最初から茨がわさわさと生えているわけではなく、茨の種がたくさんある土壌ということになる。雑草が生えやすい地ということである。パレスチナでは雑草の背たけが2メートルにもなるという。雑草が一面覆ってしまうので、芽を出し、葉を出し、生長は見せるも、実が熟すまでには至らない。雑草に負けてしまった実を結ばない作物は、もはや雑草と同じである。第四は「良い地」(8節)。どうして良い地であるとわかるかというなら、「百倍の実を結んだ」という結果でわかる。

さて、このたとえはなぞなぞで、しかも難問の部類と言えるので、弟子たちでさえ解けなかった。そこで弟子たちはたとえの意味を尋ねた(9節)。主イエスはたとえの解釈を弟子たちにはして下さった。謎解き問答ということになる。弟子たちには悟ることが求められている。私たちもである。主イエスはまず、「種は神のことばです」(11節)と解き明かされた。ハハ~ンと弟子たちの頭にランプが灯っただろう。続いては、種が落ちた四つの場所の解き明かしがあった(12~15節)。主イエスはこれらの解き明かしを通して、四つのタイプを提示している。どのタイプの説明でも、主イエスが意識して語っておられることは、みことばを聞くという姿勢に関してである。四つのタイプのどれもが、みことばを聞くという姿勢に関連して語られている。

第一は「道端タイプ」(12節)。みことばを聞くには聞く。けれども聞いただけで終わってしまう。反応が悪いタイプ。みことばを受け入れる気持ちはない。「後で、悪魔が来て、その心からみことばを取り去ってしまう」とあるように、みことばを全く喜ばない敵の働きがあったことも告げている。

第二は「岩地タイプ」(13節)。この人は反応が悪いのではない。「みことばを聞くと喜んで受け入れる」と、わりとすぐに、喜んで受け入れる。けれども、土の薄い岩地なので根を張れない。「根がないので」とあるように、長続きしない。「試練のときに身を引いてしまう」と言われている。「試練」とは、外から襲う反対や困難であろう。「身を引いてしまう」と訳されていることばは、「離れる」という意味のことばで、他の箇所では、「信仰から離れる」(第一テモテ4章1節)とか、「生ける神から離れる」(へブル3章12節)という使われ方をしている。試練のときに、信仰から、神から離れてしまうのである。ある訳は「身を引いてしまう」を「棄教する」と訳している。信仰を棄てることである。このタイプは衝動的に信じるが、信仰から離れるのも早い。信仰が浅いからそうなる。信仰が浅いということは、つまり、聞き方が足りないので、深く根づいた確信の上に信仰を築くことができないのである。ひょろひょろともやしのように育ち、試練が来ると、あっという間に信仰から離れてしまう。

第三は「茨の地タイプ」(14節)。「彼らはみことばを聞いたのですが、時がたつにつれ」と、あららららの事態になっていく。このタイプは外側からの試練に負けるというよりも、心の中から色々なものが生え出て、それらがみことばを死滅させてしまうというタイプ。みことばに使うはずのエネルギーを雑草を育てるために使ってしまうということである。どのようなものが茨・雑草になりうるかということだが、三つ言われている。茨の一つ目は「生活における思い煩い」。「思い煩い」<メリムナ>ということばの原語の意味は、「心があちらこちらに分散すること」である。これについては、主イエスが他の箇所で警告している。ルカ12章22節である。「それからイエスは弟子たちに言われた。『ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい』」。ここで「心配する」と訳されていることばが、「思い煩い」と訳されていたことばの動詞である。主イエスは、心があちらこちらに分散する思い煩いはやめなさい、と言っている。私たちの身辺には思い煩う材料があふれている。一人で考え事をしていると、いつしか心病むような思い煩いに浸っているということが良くあるものである。茨の二つ目が「富」への執着。三つめが「快楽」。二つ目、三つ目は、欲望に関係している。思い煩いと欲望、それらがみことばをふさぐ茨となる。その結果、「実が熟すまでになりません」。「熟する」ということばは、「成熟する」とか「完成に至る」といった意味のことばだが、途中まで来てそうならないということは、主イエスを救い主と思っていないわけではないし、神を第一にしなければと思ってはいたけれども、いつしか生活の思い煩いや欲望に抑え込まれて、信仰が挫折してしまうということだろう。

第四は「良い地タイプ」(15節)。「彼らは立派な良い心でみことばを聞いて」とある。このタイプの人は、人より立派な良い心を持っていると自任している人のことではない。また自分は学識があると思っている人のことでもない。そうしたら、パリサイ人の多くが良い地タイプということになってしまう。このタイプの人は自分の罪深さを知っていて、罪からの救いを真剣に求めていて、みことばに対する真摯な姿勢がある人である。ルカ7章36節以降で見た「一人の罪深い女」や8章2節の「マグダラの女と呼ばれるマリア」などは、まさしく良い地の心を持って主イエスのことばを聞いた人と言えよう。良い地の心を持つと試練や誘惑には遭わないということではない。一般人で特別な施設の無菌培養の環境で生きている人なんていないように、試練も誘惑もない環境で生きている人なんていない。結局は、あの人がああだからどうの、周囲の環境が良くないからどうのではない。結局は、その人がみことばをどう受け止めるかにかかっている。「彼らは立派な良い心でみことばを聞いて、それをしっかり守り、忍耐して実を結びます」。良い地の人も、みことばをしっかり守らなければならない状況にあった。忍耐しなければならないような環境にあった。しかし、それをやり遂げたということである。

良い地の人たちの特質を15節から二つに分けると、第一は、「みことばをしっかり守る」。これはどういうことだろうか。「しっかり守る」と訳されていることばは、「しっかりと持っている」「固く保持する」という意味のことばである。大切なお料理をしっかりと持って、落とさないようにテーブルに運ぶ。お家の家宝を身命にかけて守り抜く。そういったニュアンスのことばである。つまりは、みことばに注深くあって、みことばをしっかりと持っていること、みことばを手放なさないこと、落とさないこと、堅く握りしめていること。そうしたみことばを大切にする姿勢である。その人はみことばが意味することを悟ることを心がけ、みことばに従うことになるだろう。

第二は、「忍耐して実を結ぶ」。忍耐というのは、実が熟するまで、完成に至るまでずっと続ける姿勢である。種を蒔いて実を結ぶまでは当然、時間がかかる。イスラエルでは、10月か11月頃種を蒔いて、翌年の6月頃に収穫となるが、これは作物の話で、人間はさらに時間を要する。風雪を耐え忍び、暑さを耐え忍び、幾多の困難にもめげず、幾年月と。病気も、ちょっとした災難も経験する。人とのトラブルもある。老齢のつらさも経験しなければならない。色にたとえると灰色のような生活が続くこともある。もし忍耐が途切れたら、「しばらくは信じていても」で終わったり、「実が熟するまではいかない」で終わってしまう。実りを待つ忍耐が必要である。主イエスは忍耐が切れて、途中で挫折してしまう人たちが出て来ることを知っておられた。日本の信者も「卒業信者」が多いと言われる。また全体的に、信仰生活の後半にバテてしまう人が多いと言われる。信仰生活を全うする秘訣は?と聞かれ、魅力的な答えを期待する私たちだが、「忍耐」の二文字を心に思い浮かべなければならないだろう。信仰生活はマラソンにたとえることができるだろう。100メートル走といった短距離ではない。レースの最初は誰でもダッシュ良くスタートを切れる。レースの中盤から後半にかけてが勝負である。忍耐できるできないの分かれ目というのは、やはり、その人のみことばに対する姿勢ということになる。

後半の16~21節は、種蒔きのたとえで始まった教えの結論部分となる。前半の16~18節は「明かりのたとえ」とも言われるが、これは、先に見た神の奥義を意味している。明かりはオイルランプのことが言われているようだが、ランプは当然、照らす働きがあるのだから、隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置いて、その光が見えるようにする。明かりにたとえられている神の国の奥義とは、聖書の用法では、「人間に隠されている秘密であるが、神が啓示してくださるもの、露わにしてくださるもの」ということである。神の国の奥義は今や隠されていてはならない。「隠れているもので、あらわにされないものはなく、秘められているもので知られないもの、明らかにされないものはありません」(17節)。主イエスは、これまで隠され、秘められていた神の国の奥義を意識して語っている。主イエスが地上に来られてのお役目は、神の国の奥義を明らかにすることなのである。この奥義とは、わかりやすく言うと、福音であり、キリストによる救いのことである。この奥義はキリストご自身と言っても過言ではない。パウロは、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1章27節)と告げている。神の奥義はキリストに詰まっている。

「ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思うものまで取り上げられるからです」(18節)。「ですから、聞き方に注意しなさい」。このメッセージが、今日の区分の教えを短縮したものである。先に見た種蒔きのたとえは、まさに「聞き方に注意しなさい」というメッセージが込められていたわけである。さて、この18節で、「持っている」、「持っていない」が言われているが、それは、みことばによって与えられる神の国の奥義の知識のことである。それはキリストに詰まっている。「良い地タイプ」の人は聞く耳があるので、神の国の奥義の知識をさらに良く知ることになり、神の国の祝福に豊かに与る。反対に聞き方が悪いと、その人は自分は知っていると独り合点しているだけで、知るべきことを知らないまま取り残される。「岩地タイプ」「茨の地タイプ」の人がそうなる。

聞き方が良い人は、みことばを実践することになる。それが19~21節で言われている。やはり大勢の群衆を前にしての主イエスのことばが紹介されている。21節の主イエスのことばに注目しよう。「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです」。ここでは、「神のことばを聞いて行う」とあるように、聞くことと行うことが結びつけられている。聞き方の良い人はみことばを行う人になる。言い方を変えると、聞き方の良い人は主イエスに従う者となる。その人たちは、「わたしの母、わたしの兄弟たち」とあるように、主イエスとの親しい関係性の中に置かれることになる。このような人たちは、主イエスの心近くあるだろう。主イエスの臨在、息遣いを感じながら、主イエスの心の機微を大事にして生きていくだろう。試練も誘惑も、その人たちを主イエスから引き離すことはできない。その人たちは、主イエスの御声に敏感で、それを聞き分け、意味することを悟るように心がけ、主イエスのことばを行うことに心を砕いて生きていく。私たちも同じように、みことばに対して聞く耳を持ち、主イエスのそば近くを歩む者たちでありたいと思う。