ルカの福音書は、福音書の中で女性に関する記述が最も多い。それだけでなく、当時、女性は財産にしか見られないような時代にあって、女性の人間的価値をしっかりと認めた記述がされている。前回は、罪深い女を主イエスが擁護し、救いを確約した記事を見た。今回は、女性が主イエスの弟子に加えられている記述である。たった三節の記述だが、その内容は、当時の女性観を考えると、驚くべきことなのである。今日の箇所は、キリストの女性観を教える場合に、必ず取り上げられる箇所である。

先ず、旧約時代からの女性観の変遷を振り返ってみたいと思うが、旧約時代を考えると、女性の人権は低かったのかなという印象を受けるが、それでも、ルツ記、エステル記といった女性の活躍を描く物語もある。女預言者ミリアム、デボラ、フルダの活躍もある。しかし旧約聖書と新約聖書の間の空白期間である中間時代になると、女性の評価は旧約時代よりも下げられる印象はぬぐえない。エルサレムの学者ベン・シラという学者がいて、聖書の外典に納められる「シラ書」を執筆した。「シラ書」は格言集で、教えられることも多いが、女性に関してはおしなべて評価が低い。一例を挙げると、「女性と席を同じくするな。衣から蛾が飛び立つように、女同士の間から悪意が湧くから。女の親切よりは男の悪意のほうがましである。女は恥辱と不面目の発生源だ」(シラ42章12節)。このような女性の評価が低調な中、ユダヤ教の教師ラビが女性の位置を下げる教えを説き、新約時代に入る頃には、それが文化として定着していた。ラビのことばに次のようなものがある。「女性を相手にあまり話してはいけない。自分自身の妻に対しても。ましてや同僚の妻に対してはなおさらのこと。それゆえ賢者たちは言った。女性と多く話をする男はみずからに災いを招き、律法の研究を怠り、最後にはゲヘナを受け継ぐと」。「男は居住空間で女とだけになってはいけない。自分の姉妹や娘ともである。罪深い思いを持つからである。男は道で女と話すべきではない。自分自身の妻とさえ。他の女とならなおさらいけない。人のうわさ話になるからである。」女性に話しかけるということは勧められていない。当時の村社会では話しかけるどころか、よそ者の男が見知らぬ女と視線を交わすことさえタブーであった。

ところが、主イエスは女性に話しかけただけではなく、女性たちを自分の弟子団に招き入れてしまったのである。しかも伝道旅行に連れて行っている。当時、女性がラビをサポートすることはあったらしいが、女性がラビと一緒に旅行するというのはほとんど知られていない。しかも、主イエスの伝道旅行には、かなりの人数の女性が従者として同行したようである。主イエスは当時のラビたちのような女性観は持っていなかった。女性一人ひとりに神のかたちとしての尊厳を見、男女を平等に扱っている。女性とも交流し、話しかけ、福音を説いた。ヨハネの福音書4章には、サマリアの女の物語があるが、主イエスは第三者もいない場所で、一人の女性に、自分から話しかけた。この行為は、当時はタブーであった。しかも相手はユダヤ人とは不仲のサマリア人で、しかも札付きの問題がある女性のようだった。主イエスはそのような女性であっても、一人格として認め、またやましい心もなく、「水を飲ませてもらえませんか」と、へりくだって語りかけた。そして救いのことばを語った。今日の記事の前の罪深い女とパリサイ人シモンの物語では、罪深い女の献身的行為を受入れ、それを蔑視するシモンをたしなめられた。彼女も札付きの女性であったが、このような女性をさえ、主イエスは排除しない。ルカ8章21節では、主イエスのことばとして、「わたしの母、兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちのことです」とある。なんと、ご自分が語るみことばを行う女性を「わたしの母」とまで呼んでいる。なんという謙譲さだろうか。

では、今日の記事を見ていこう。「その後、イエスは町や村を巡って、神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供もした」(1節)。主イエスの巡回伝道である。 1節の文章を見ると、「十二人もお供をした」と、十二弟子がお供をしたということで、そこで文章が切れているが、原文では切れておらず、お供をしたのは2,3節の女たちもという文章になっている。「お供をした」という動詞は女性たちにもかかっている。何を言いたいかと言うと、女たちも弟子団に加えられているということである。女性たちの名前は、マタイでもマルコでもヨハネでも言及されているが、ルカだけが主イエスの弟子の集団の中に女性たちを加えている。

1~3節はガリラヤ伝道の模様だが、代表的な三名の女性の名前が挙げられている。筆頭が「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリア」(2節後半)。暗い過去を背負った女性である。「マグダラ」というのは地名で、ガリラヤ湖の西岸にガリラヤ湖の別名のティベリア湖の由来となった「ティベリアス」という有名な町があるが、その北数キロにある村ではなかったかと言われる。主イエスの活動拠点のカペナウムからは南西9キロの地点にある。「七つの悪霊を追い出していただいた」とあるが、複数の悪霊の憑依という報告は現代でもあるので、これは文字通りの事として受け取って良いだろう。聖書には悪霊憑依の記述がいくつもあるが、それらを見ると、身体的障がいや精神的障がいが伴っていたことがわかる。彼女もこうしたことと無縁ではなかったはずである。特に精神面においては、うつ状態、不安、孤独感、いいしれない恐怖感、強い自己嫌悪などに襲われ、そして精神錯乱も伴ったかもしれない。誰の目にもふつうには見えなかったはずである。このようにたくさんの悪霊を招いてしまったということにおいて、そこには彼女の心の傷や悲惨な心の有様が関係していたにちがいない。彼女は7章37節の「罪深い女」とは別人と思われるが、7章47節で言われていたように、多くの罪を赦され、多く愛する者となった一人であろう。その証拠に、彼女は、女性の中で一番弟子と言える存在となった。彼女の名前は四福音書すべてにある。彼女は男弟子たちが主イエスを見捨てた時でさえ、主イエスのそば近くにいようとした。彼女は十字架刑の場面では受難の主イエスを仰ぎ、葬られた時は、主が葬られた墓の方を向いて座り、主の復活の日曜日は誰よりも早くかけつけ、一番最初の目撃者となる(マタイ27章55節以降)。男弟子の中では、ガリラヤ湖上で「私は罪深い人間ですから」と告白したペテロが一番弟子だった。女弟子の中では、悲惨な過去を持ち、自己評価は最悪であったにちがいないマグダラのマリアが、一番弟子と言える存在となった。自分の罪深さを自覚する者こそが主イエスへの愛も深くなるのである。

マグダラのマリアと主イエスとの出会いがどのようにして生まれ、どのようにして救われたのか、物語として記述されていない。それは信仰者に不健全な興味を与えないためであると思われる。だが、愚かにも、様々な伝説が生まれてしまった。異端であるグノーシス主義者たちは「マリアの福音書」(マグダラのマリアの福音書)「ピリポの福音書」を執筆することになる。ピリポの福音書では、マグダラのマリアは主イエスの伴侶とされてしまっている。そこから、マグダラのマリアはイエスさまと結婚して子供を産んだ、という伝説まで誕生してしまった。また、聖母マリア崇拝同様、マグダラのマリアが信仰の対象とされるようになった。マグダラのマリアをフランス語にすると「マドレーヌ」と言うが(おそらくは、これがお菓子の「マドレーヌ」の名称の由来と思われている)、フランスのマドレーヌ大聖堂をはじめ、幾つかの教会にマリアの聖遺物が分散して納められていると言われ、こうしたものを拝みに、人々は足を運ぶようになる。お釈迦様の骨である仏舎利が崇拝の対象となったのと同様に。だが、私たちは彼女を拝むのではなくて、彼女の信仰に倣うということでなくてはならない。彼女自身、それを願っているはずである。

続いて、「ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ」(3節前半)。「ヘロデ」とはガリラヤの領主、悪名名高きヘロデ・アンティパスのことである。彼はバプテスマのヨハネを石牢に閉じ込めた男である。彼の妻のヘロディアは世界の悪女伝説で必ず名前が挙げられる残忍な女性。ヘロデにバプテスマのヨハネの斬首を願い出た。「ヘロデの執事」というのは、ヘロデの財産管理人のことである。その妻のヨハンナが主イエスの巡回伝道の従者になったわけだが、それは大変なことを意味していた。かなりの覚悟がいたはずである。領主官邸で影響を受けたのは彼女だけではない。使徒13章1節を見ると、教会のリーダー格の存在として、「領主ヘロデの乳兄弟マナエン」とある。主イエスによる神の国の福音は庶民の間だけでなく、領主官邸にも影響を及ぼしていたことがわかる。ちなみに「ヨハンナ」という名前は「ヨハネ」の女性形である。ルカ24章10節を見ると、ヨハンナはキリストの復活の証人として、マグダラのマリアとともに名前が挙げられている。

三人目は「スザンナ」。「ゆり」という名前だが素性はわかっていない。アメリカの有名な歌に「おおスザンナ」(スティーブ・フォスター作)があるが、この名前の由来は、彼女にまでたどりつくだろう。

「そのほか多くの女たちも一緒であった」とあるが、主イエスの十字架刑の場面で、マタイ27章55,56節ではこう記している。「また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた」。ガリラヤの多くの女性が主イエスにつき従った。十二弟子の母たちの中からも幾人かが主イエスに従った。彼女たちは息子たちのことを気遣ってついて行ったというよりも、それぞれが主イエスの人格に触れて、みことばに感銘を受けて、そのみわざを目撃して、主イエスに献身する決意をしたのだろう。それにしても、女性だけで一団を為していたことが凄い。最初のほうで述べたように、女性がラビの旅行に随伴することはなかったし、男女が互いに口を利くことも一緒にいることも問題視された時代にあって、男たちの巡回伝道に女性たちが一団となって一緒について行く姿は、当時の人々には特異なものとして映ったはずである。ラビたちからは非難された可能性もある。

当時、ラビたちが女性を低く評価し、男性に女性を避けるように教えたのは、男が女を見るときは情欲を抱いて見ざるをえないのだ、だから女を避けよ、という論理も手伝っていた。だが、主イエスはご存じのように、男が女を見るときは情欲を抱いて見ざるをえないで終わらせるのではなく、情欲を抱いて女を見るのはやめなさい、と積極的な教えをされた。本来、そう見るべきだからである。女性を性的対象ではなく、尊い人格として見るように教えられた。この女性を尊ぶ積極的な見方によって、女の弟子と男の弟子が一緒に主イエスに仕えることを可能にされた。

巡回伝道に女性たちの手が貴重であったことはまちがいない。「彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた」(3節後半)。協会共同訳は、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に仕えていた」となっていて、こちらがより自然な訳に思える。皆が財産家であったということではなく、持っている物の中から、それは金銭も入るわけだが、それらを提供して共同生活に役立てた。彼女たちの具体的な奉仕としては、食品の調達、生活用品の調達、食事の準備、後片付け、そうしたことを担当しただろう。男弟子は十二人だけではなく、10章1節を見ると、「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた」とあり、かなりの大所帯に膨れ上がっていったことがわかる。食事の準備だけで大変そう。

この大人数で、宿泊はどうしたのかと思う。当時の町や村は、宿泊施設は十分ではなかった。女性たちの場合、いくら何でも男たちと雑魚寝はできないわけだから、当時行われていたように、親類宅に身を寄せるとか、その度ごとに工夫が求められただろう。

彼女たちは先に見たような奉仕だけに従事していたわけではないだろう。女性は女性に主イエスのことを伝えたはずである。もちろん、正式に派遣されて宣教のわざに携わったのは十二弟子である(9章1~6節)。また先に見た七十二人の弟子たちもである。けれども、彼女たちも行く先々で接する人々に伝えたはずである。女性を中心に伝えただろう「。私はイエスさまによって悪霊を追い出してもらったんですよ。病気を治してもらったんですよ。イエスさまが語られたことはこうなんですよ。イエスさまはこのようなお方なんですよ。神の国の王とはイエスさまなんですよ。イエスさまこそが救い主なんですよ」。彼女たちの働きもあって、女性の信者たちが増えていったと考えるのが自然である。子どもたちも彼女たちを通して福音を聞いたかもしれない。また彼女たちは、主イエスに近づこうとする人々への手助けや、主イエスのみわざに与った人や、主イエスのことばを聞いた人たちのフォローもしたにちがいない。

主イエスの行動を見ると、十二弟子たちだけを連れて行動することがしばしばあった。彼女たちはいつも主イエスと一緒にいたわけではない。けれども主イエスの従者としての自覚をもって、その居るところで、今見て来たような様々な働きに携わっただろう。

彼女たちの幸いは、主イエスからみことばを聞く機会が多くあったということも挙げられる。ルカ10章39節には、マルタの妹のマリアについてこう描かれている。「彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた」。「足もとに座る」というのは、ただの姿勢ではなく、ラビのもとでの弟子の姿勢である。この姿勢を女性がとっている。ラビたちは女に教えるのは正しくないと言っていた。女性は律法の学びの機会から閉め出されていた。女性は男性のように教育は受けられなかった。ところが、この場面は、主イエスはラビと違って、女性にみことばを学ぶ機会を与えてきたことの証拠である。この巡回伝道団は、移動神学校の様子も呈していただろう。もちろん校長は主イエスである。私も神学校時代は、女性の献身者たちと一緒にみことばの学びを受け、そして地域に出て行って伝道や教育の実践活動に携わったが、主イエスの一団に加わった弟子たちは、女性も含めて、神学生のように、学びと訓練もいただいたわけである。人数が多いと、人間関係のトラブルもなかったわけではないだろう。彼女たちはうまくやっていたのだろうか。主イエスに優しく叱られる場面もあったのだろうか。おそらく、この女性の弟子団の中でリーダー的な存在というか、まとめ役が何人かいて、具体的な行動について話し合ったのではないだろうか。先に見た三人がそうであったかもしれない。

このガリラヤの女性たちの最後の記述と思われるのは、使徒の働き1章14節である。それはキリスト昇天後の記述である。「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた」。主イエスの母マリアに関する記述もこれが最後である。ここでは祈る共同体として描かれている。男たちも女たちも、ともに主の弟子として、心を一つにして祈っていたのである。ルカ11章を見れば、主イエスは弟子の一人に請われて、主の祈りなど、祈りについて教えたことが記してある。巡回伝道団は、祈りについても学び、そしてそれを実践していったことの証拠である。その延長としての使徒の働きの記述である。使徒の働きの時代に入って初めて、祈り合うことをしたのではないだろう。

こうして見てくると、みことばに聞く、祈る、証する、奉仕する、この基本形は今も変わらないことを教えられる。それを男女共同参画でやっていた。男女同等、男女平等に主は扱われた。ただし男女の機能的な役割の違いはある。創世記2章18節では、「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」とあり、女性は男性にとって「ふさわしい助け手」として造られたことが記されている。その意味合いが8章3節後半の「彼らに仕えていた」という表現にも表されていると言えるだろう。ただ、誤解のないようにお伝えしたいことは、「助け手」<ヘーゼル>ということばは、聖書の用法を調べると、人間間の助け合いにも用いられているが、神が人を助ける場合にも用いられており、<ヘーゼル>には「救い出す」という頼もしい意味が込められている。<ヘーゼル>には、主人の財産として奴隷的に服従する意味合いは全くない。

以上、当時の女性観なども意識しながら、主イエスの伝道旅行団に随伴した女性たちを見た。彼女たちも弟子団に加えられていた。この女性たちの中で、やはり目を引くのは「マグダラの女と呼ばれるマリア」である。彼女は救っていただいた後、ガリラヤからエルサレムまでの全道中、主イエスについてきた。主イエスの十字架の試練の時も離れず、そして十字架の後も、ついて行こうとした。福音書全体を通して、いつも主イエスのそば近くあろうとした彼女の献身的愛が伝わってくる。私たちも主の弟子として彼女の姿に倣いたいと思う。