今日のテーマは、主への愛、神への愛ということであるが、私たちは、いつから自覚的に神を愛するようになったのだろうか。それは、罪を赦された経験をした時である。もし、自分にさほど罪がないと思うなら、神を愛することはしない。人は神の赦しを経験した時に神を愛する。

今日の物語は、罪の赦しを経験し、主イエスを深く愛する罪深い女の物語である。彼女は主イエスへの愛を公然と表した。そのことにより、自分の罪が赦されていることを示した。

場面は、主イエスがパリサイ人の家へ食事に招かれて、会食の場面である(36節)。パリサイ人というと主イエスを敵視する人たちというイメージで、主イエスを食事に招くことがあるのかと思われるかもしれないが、ルカの福音書だけで、主イエスはパリサイ人の家で三回食事をしている(11章37節 14章1節)。このパリサイ人は40節から「シモン」という名前であることがわかるが、主イエスに対してある程度の高評価を下していた人物ではないかと思われる。39節で、「この人がもし預言者だったら」と言っている。シモンはイエスという男がどのような人物なのか、もっと良く知りたいということで、ディナーに招いたのだろう。

36節で主イエスが「食卓に着かれた」とあるが、「食卓に着かれた」と訳されていることばの意味は、「下に寝そべる」である。どういうことかと言うと、ユダヤ人は平素は椅子に座って食事をしたが、祝宴とか格式のある食事の宴席では、寝そべって食べるというのがマナーであった。左肘をついて足を斜め後ろに伸ばし、右手で食べるというスタイルである。この時の食事がそうであった。

さて、この時、一人の女がこの宴席の場に侵入してきた。この行動自体は、一世紀のユダヤ文化にあって特別なことではない。偉大な教師が宴会に招かれているときなど、一般の人の出入りが許されていた。招待されていなくとも入ってきて、壁際にいたりしたそうである。古代世界は人の出入りに関してオープンだった。今日の物語を見てわかるように、女の存在自体が問題視され、不法侵入だとしてとがめられているわけではない。彼女の主イエスに対する行為が問題視されているだけである。大きな宴会だったので使用人の出入りも激しく、見知らぬ女が一人こっそり忍び込んできても誰も怪しまなかったという説明もあるが、見知らぬ女がこっそり忍び込んで来て、という流れの場面ではない。「すると見よ。その町に一人の罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏の壺を持って来た」(37節)。「一人の罪深い女」とあるが、伝統的には「売春婦」だったとされている。だが聖書は「罪深い女」としか表現していない。不道徳な女であったことはまちがいないだろう。そして、39節のシモンの発言からも知れるように、この女は町で良く知られていた札付きの女性であったことがわかる。シモンは彼女を一目見て誰であるか判断できた。見知らぬ女がこっそり忍び込んで来て、というのではない。顔を知られている女が非難の目を向けられるのを承知で、招待された客人の足もとまで近づいた。この客人イエスに愛を示したかったからである。人のいないところで主イエスに愛を示そうとしたのではない。人目をはばかってという行為ではない。彼女の愛は人の批判も恐れず、公然と大胆に主イエスのもとへとおらせた。主イエスへの愛は世の非難を恐れず、彼女を大胆にさせた。これぞ本物の愛である。

彼女がこのとき手にしていたものも驚きである。「香油の入った石膏の壺」である。もしこれがナルドの香油であったなら、300デナリ相当。それは一年分の賃金に値する。いずれにしろ、たいへん高価なものを持参したことはまちがいない。主イエスのために。泣けてくる話である。彼女はこれを、最初は主イエスの頭に注ごうと準備したのかもしれないが、実際は、「そしてうしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った」(38節)。彼女は、斜めうしろに投げ出している主イエスの御足の近くまで来た。食事をしている主イエスの頭に手を伸ばし、そこに香油をという大胆な行動には出れない。彼女は御足に集中した。彼女の目からは涙が零れ落ちている。罪赦された嬉し涙だったのだろうか。主イエスの愛に感動した涙だったのだろうか。その涙は御足を濡らした。この涙濡らしは彼女が最初から意図していたことではなく、自然にそうなってしまったことだろう。彼女はあわてて自分の髪の毛でその涙をぬぐい去り、続いて御足に口づけした。ユダヤの文化にあって、この口づけは親愛の情や尊敬を表すものであった。そして高価な香油を御足に塗った。

この様子をパリサイ人のシモンは怪訝な目で見ていただろう。それは、不道徳な女が何をしているのだ、ということだけではなく、彼女の行為を主イエスが黙って受けていたからである。パリサイ人にとって清さを保つということは、汚れた罪人たちと交わらないこと、接しないことであった。彼らの基準からすると、罪深い女をなすがままにさせている主イエスの平然とした態度はふつうではなかった。現代でいうと、ばい菌にさわるのと一緒である。けれども、かつて主イエスは取税人や罪人たちとのパーティを楽しまれたお方である(5章29~32節)。その時も、パリサイ人たちはぶつぶつ文句を言っていた。なぜ、あのような汚れた者たちと親しく交わるのかと。

今日の場面では、パリサイ人の心の中のつぶやきである。「イエスを招いたパリサイ人はこれを見て、『この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女か知っているはずだ。この女は罪深いのだから』と心の中で思っていた」(39節)。パリサイ人はイエスさまを「この人がもし預言者だったら」と言っているが、同じく7章の、ナインのやもめの息子の生き返りの物語において、人々は主イエスを「偉大な預言者が私たちのうちに現れた」と言っていた(16節)。その時の講解で、主イエスは預言者以上のお方であることをお伝えしたが、一預言者であることにはまちがいない。パリサイ人は預言者は眼力があると思っている。主イエスは確かに、自分にさわっている女が誰で、この女は罪深いということも知っていた。それどころか、パリサイ人シモンの心の中のつぶやきもお見通しだった。彼の心のつぶやきから見えてくることは、まず、この女を見下しているということ。彼には他人の罪を見る目があったが、自分の罪を見る目がない。そして彼女の行為を喜んでいる主イエスを、冷ややかな目でしか見れない。そのまなざしはクールであった。

パリサイ人シモンは、この女のように不道徳の罪は犯していなかったかもしれない。しかし彼は偽善の罪、自分は正しいとする自己義認の罪を犯していた。総合すると彼は、神の前に不道徳の罪に匹敵するような罪を犯していた。どちらが罪深いというなら、お互い違いはあっても、神の目から見ればどんぐりの背比べである。主イエスの目には、二人とも罪深く映っている。結局、二人の違いは罪意識の違い。シモンの場合は、自分の罪深さを感じていないというか罪意識がわずか。それは、この後の主イエスのたとえからもわかる。反対に、彼女のほうは自分の罪深さを十分に感じている。主イエスは、この後、たとえを通して、軍配を彼女のほうに上げる。

主イエスは借金のたとえを語る(40~43節)。聖書は罪を借金(負債)にたとえている。ある金貸しから二人の者がお金を借りた。一人は五百デナリ。もう一人は五十デナリ。二人とも返済することができなかった。ところが金貸しはあわれみ深く、二人の借金を帳消しにしてやった。主イエスは、「それでは、二人のうちのどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか」と問いかける。小学生でもわかるような質問である。

主イエスは、罪深い女とシモンの二人を意識してたとえを語った。「五百デナリ」はおよそ二年分の賃金である。「五十デナリ」は二カ月分の賃金である。「五百デナリ」が罪深い女、「五十デナリ」はシモン。500引く50で、罪深い女のほうが450デナリ分罪深いというのではない。二人の数字の差は、彼らの罪意識の違いを表している。誰しもが神の前に負いきれない罪という負債を負っている。だが、人それぞれに罪意識の違いがある。ルカ5章のペテロの召命の場面で、ペテロは「私は罪深い人間です」と告白している(8節)。新約聖書の手紙の多くを執筆した使徒パウロは「私は罪人のかしらです」とまで告白している(第一テモテ1章15節)。彼らは罪深い自分を赦し、愛してくださる主イエスの愛になんとか応えようとした。だがシモンは、こうした罪意識にまで至れないでいる。よって悔い改めも生まれないし、主イエスの赦しの愛も体験できない。それが罪深い女との行動の差となった。彼は主イエスの質問に対して正しい答えをした(43節)。より多くを帳消しにしてもらったほうが金貸しをより多く愛すると。シモンの正しい答えは、自分を窮地に追い詰めることになる。

主イエスはこの後、44節冒頭で、「それから彼女の方を向き、シモンに言われた」とあるように、罪深い女を意識させながら、彼女への評価を上げ、シモンへの評価を下げる譴責をされる(44~46節)。ここでは、客人を迎える習慣について言われている。その習慣において、二人を対比している。ここで三つの習慣が言われている。一番目は、足を洗う。これは一般に異邦人奴隷の仕事とされた。二番目は、足に口づけをする。高名な教師に対する尊敬とか、うやうやしい敬意を表すポーズである。第三は、頭にオリーブ油を塗る。主イエスは、シモンはこれらをしてくれなかったと言っているが、実は、通常はしなくても容認されたマナーだったのである。だから、非常な無礼を働いたということではない。もちろん、すれば丁寧である。罪深い女の場合は、これらすべてをした。正確には、それ以上のことをした。主イエスの足を涙で洗った(44節)。次に、主イエスの足に口づけしてやまなかった(45節)。「口づけしてやめませんでした」は、「口づけし続けた」ということである。最後に、主イエスの足に香油を塗った(46節)。それは、日常の安いオリーブ油ではない。高価な香油なのである。気がつくのは、この物語に、彼女のことばは一言もない。あるのは、涙と愛溢れる行為だけである。

主イエスはシモンに言明する。「ですから、わたしはあなたがたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(47節)。「赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」と、シモンは自分のことが言われていると気づいただろう。罪意識の希薄さ、欠如、そうであるならばイエスへの愛はわき起こらない。それとは反対に、自らの罪深さを悟り、罪の赦しを経験した彼女は、主イエスを愛さずにはおれなかった。

48節以降は、今度はシモンにではなく罪深い女に対して語られる。「そして彼女に、『あなたの罪は赦されています』と言われた」(48節)。49節では、食卓に着いている人たちがこの宣言に対して驚いているが、以前にもお話したように、ユダヤ人は、罪を赦す権威は神だけが持つものと理解していた。ところが、その罪の赦しを主イエスが公の場で宣言されたのである(参考に、ルカ5章20,21節をお読みください)。同席していた人たちは、彼女への罪の赦しの宣言をすんなり受け入れなかっただろう。それが表情に表れ、態度に表れ、小声か大きな声か知らないが、声となって表れ、ざわついただろう。

だが主イエスは、彼女には安心感を持ってもらいたい。それで、最後にこう言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)。「安心して行きなさい」は別訳すると、「平安へと行きなさい」。キリストに受け入れられ、罪赦された平安、神にある平安、これが約束されたのである。

この罪深い女がシモンの家に現れるまでの経緯は何もわからない。それはわからなくとも、自分のような罪深い者が主イエスに受け入れられ、赦されたという体験があったからこそ、この度の行為に出たことはわかる。そして主イエスは、この公の場で、改めて罪の赦しと救いを宣言し、確約された。それは彼女にとって大きなプレゼントになったはずである。

今日の物語から、自分の罪深さを自覚した者はキリストへの愛も深くなる、多く赦された者は多く愛するということを、改めて知ることができた。平均的な品性の人にとっては、シモンは反面教師となる。罪の自覚が浅いままで終わりやすいため、主イエスへの愛もくすぶり続ける。

私たちは、キリストの十字架刑の時代のあとに生きているわけだが、主イエスを愛する者となるために、二つのポイントにまとめて整理したい。一つは、自分も五十デナリではなく五百デナリの借金の者であることを自覚することである。これは大切なことである。もう一つは、十字架を真正面から見上げることである。主イエスへの愛は、人間的努力によっては決してわき起こらない。主の十字架を見上げた時に起こる。主が私たちの罪という負いきれない負債を全部負って、あの十字架の上で血を流し、代価を払ってくださった。罪という借金地獄にいた私たちを救うために、主は十字架にかかり完済してくださった。こうして死の刑罰から救ってくださったのである。主の十字架に私たちは、借金地獄から救ってくださった主の深い愛を見る。私たちは罪深い私たちのために十字架についてくださった主の愛を知り、主の愛にほだされて、主に仕えていこう。