私たちにとっての一番の驚きは、何の罪もない主イエスが十字架で私たちのために命を捨ててくださったことである。今日はその反対で、主イエスが人に優れた面を見て驚くという場面である。今日の箇所は珍しい記事である。人のすぐれた信仰に主イエスが驚くという場面はここだけである。「イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来た群衆に言われた。『あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことはありません。』」(9節)。主イエスは弟子たちに対して、「信仰が薄い」とか、「信仰がない」とか、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」(8章25節)と責められる場面がある。弟子たちでさえお褒めにあずかっていない。4章では、故郷ナザレでのエピソードを学んだが、ナザレの人々の信仰は余りにもひどく、平行箇所のマルコ6章6節では、「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」とある。驚いたといっても、それは不信仰に対してであった。今日の記事はそれとは真逆で、りっぱな信仰に驚かれている。ナザレの人々は、「なんだ、ヨセフの子ではないか」と主イエスを見下したわけだが、今日登場する百人隊長はそうではない。主イエスを敬っていた。またナザレの人々は、「ここでもしるし(奇跡)をやってみなさい。そうしたら信じてやるから」といった態度であった。だが百人隊長はそうではない。彼が求めたのは、ただみことばである。みことばをいただければ十分ですと。しかも彼はユダヤ人ではなく、異邦人であった。

百人隊長であるが、ローマの軍隊の歩兵100人の指揮官である。場所はガリラヤ地方のカペナウム(1節)だが、ここに駐屯地があった。百人隊長は人種としてはユダヤ人ではなく異邦人である。にもかかわらず、すぐれた信仰を発揮したので驚きなのである。

では、いやしの物語を見ていこう。百人隊長に重んじられている一人のしもべが死にかけていた(2節)。前にもお話したように、主イエスの活動の本拠地はここカペナウムであった。主イエスのうわさは十分に耳に入っていたはずである。彼は直接には主イエスに会ったことはなかったと思うし、会うのもはばかったと思うが、主イエスがどのようなお方であるのか、その知識は持っていたのである。百人隊長はしもべのいやしを主イエスに期待した。だが、しもべは死にかけていたので、簡単にみもとに連れていくことはできない。周囲にいた人々は、イエスさまに来ていただいたらと進言したのではないだろうか。そこで友好的な関係にあったユダヤ人の長老たちをみもとに送って、「助けに来てください」といやしを願った(3節)。

それにしても百人隊長はなぜユダヤ人の長老たちと友好的な関係にあったのだろうか。回答は5節にある。「私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました」。「私たちの国民を愛し」と、この百人隊長はユダヤ人に好意的で、しかも、それを形で表していた。その最たるものは会堂建設。会堂の中心的な用途は神を礼拝することにある。その会堂を建ててくれたということにおいて、百人隊長は異邦人でありながらも、聖書の神に並々ならぬ敬意を示していた人物であったと言えるだろう。当時、ローマ人が会堂に対して助成をするケースはあることはあった。会堂というのはユダヤ人の宗教とコミュニティのセンターであったので、彼らの社会秩序が保たれるために会堂をサポートするということは賢明なことであった。会堂をサポートすることは、ユダヤ人たちが落ち着いて生活することにつながったので、ローマ人にとってマイナスとはならなかった。日本が太平洋戦争で敗戦となった時、アメリカのGHQでは、天皇制を存続させるかどうするか話し合われたそうである。天皇は日本人にとって国民的支柱であることを知って、国家神道の頂点としての神の地位ははく奪するにしても、日本の安寧秩序のために天皇制そのものは残すことにした。国が一つにまとまるために。反乱など起きないために。けれども、この百人隊長の場合、ユダヤ人たちに大人しくしていてもらうために、これが得策だと、そのような消極的理由だけで、会堂を建てることに協力したわけではないだろう。

「私たちのために自ら会堂を建ててくれました」という表現について考えてみよう。「私たちのために自ら会堂を建ててくれました」というのは、異邦人の彼が、かなりの建設費用を寄進したということであろう。会堂が建つ決定的な費用を寄進したと受け取れる。かなりの思い入れを会堂に対して持ってくれていた。百人隊長は、ユダヤ人に対して好意的な人物であったわけだが、会堂で礼拝される神に対して関心がなければ、ここまでの犠牲は払わないだろう。

百人隊長の代理で出向いた「ユダヤ人の長老たち」はどういう人たちなのかと言うと、カペナウムの行政を担っていた人たちで、会堂の運営にも携わっていただろう。そして、百人隊長の指揮下にある部隊は戦いのためにだけ存在していたわけではなく、イスラエルの行政にも関わっていた。よって、百人隊長とユダヤ人長老たちとの間に、面識は自然と生まれる。そこにきて、この百人隊長はユダヤ人の生活のために何度もひと肌脱いでくれたようであるし、会堂を建てる主力にまでなってくれた。ということから、長老たちと百人隊長の間に友好的な関係が生まれるというのは、自然な流れである。

長老たちは主イエスに熱心にとりなすことになる(4,5節)。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(4節)。この「資格」ということばが一つのカギになる。これと同類のことばが6節で使用されている。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので」(6節後半)。「資格」ということばは、ある訳では「値打ち」と訳されていた。そのような意味のことばである。ユダヤ人の長老たちは、百人隊長に相当な値打ちを見ていた。「イエスさまに来ていただいて、しもべをいやしてもらう位の値打ちがあるお方だ」と。だが、当の本人は、「私には値打ちはない、イエスさまを屋根の下にお入れする資格はない」。まるで正反対の評価になった。

百人隊長はこの自己評価もあって、一旦ユダヤ人の長老を送っておきながら、6節の前半にあるように、友人を使いに出して、主イエスが家の近くまで来られた時、「来ないでください」とストップをかけてしまった。なぜだろうか。何かの番組ではないが、主イエスにストップをかけてしまったこの時の百人隊長の心に分け入ってみよう。彼の心の内を三つに分けて、ストップをかけた彼の心を整理してみよう。

第一、私は異邦人である。ユダヤ教の律法では、異邦人を汚れとし、差別していた。使徒10章28節にはペテロのことばとしてこうある。「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません」。異邦人との交際、訪問の禁止である。ユダヤ人が異邦人の家の屋根の下をくぐるというのは、よほどの場合でないとしない。百人隊長は自分が異邦人であることを意識して、異邦人である自分の屋根の下にイエスさまをお迎えすることはできない、私にはその値打ちがない、と思っただろう。だが、それだけであろうか。
第二、イエスさまは偉大なお方で、それに対して私はつまらない者だ。彼は百人隊長という地位にあったが、イエスさまにさらに高い位を与えている。イエスさまのような偉大なお方を私の家にお入れする資格はない。彼は単に自分が異邦人だからということだけではなく、イエスさまをすぐれて高いお方として敬っているがゆえに、謙遜、自己卑下、心の低さを表したのである。彼は6節でイエスさまを「主よ」と呼んでいる。かつてペテロはガリラヤ湖において、弟子としての召命の場面で、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言ったことがあった(5章8節)。主イエスに神的権威を感じ取ったわけである。百人隊長も、イエスさまに神的権威を感じていたと思われる。彼は自分が異邦人だからということと相まって、主イエスの神的偉大さに対する自分の卑しさを思い、ストップをかけたのだと思う。

さて、百人隊長が主イエスにストップをかけた理由はこれで終わりだろうか。そうではなかったわけである。それだけであったのなら、彼は、しもべがいやされるのをあきらめたはずである。ストップをかけた理由は、自分には値打ちがないという自覚以外にもあった。そして、それが主イエスを驚かせることになる。

第三、私はみことばをいただければそれで十分。これがストップをかけた積極的理由であり、これが主イエスを驚かせたのである。先に見た、自分には資格がない、値打ちがないという彼の自己評価は7節前半でも表明されている。「ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした」。彼は自分が出向いていって、直接面会する資格さえないと考えた。だが、これで終わらない。ことばの続きがある。「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒してください」(7節後半)。百人隊長は、イエスさまに来ていただいて、手を置いていただかなくても、イエスさまにはいやせるという確信がある。だから、躊躇なくストップをかけることができた。

「ただ、おことばを下さい」を、ある訳は「ただ、みことばを与えてください」と訳している。みことばへの信頼である。またある訳は、「ひと言おっしゃってください」と訳している。百人隊長は、イエスさまのひと言だけでいい、ひと言で十分という信仰があった。ここに、謙遜とともに働く全き信仰を見る。彼がこの信仰を発揮できたのは、普段の経験も役立っていた。「と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします」(8節)。「自分が百人隊長の権威でことばを発すると、その通りにことばは実行されました。ならば神の権威を持ち給うあなた様が『いやされよ』とことばを発するなら、それはその通りになるはずです」という訳である。百人隊長は主イエスに宇宙的権威を見ているようである。主イエスの口から出るみことばが、神の権威を持つみことばであるということは、すでにルカの福音書で紹介されてきた。カペナウムでのエピソードを見てみよう。「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに驚いた。そのことばに権威があったからである」(4章31,32節)。「人々は驚いて、互いに言った。『このことばは何なのだろうか。権威と力をもって命じられると、汚れた霊が出て行くとは』」(4章36節)。こうした先の出来事を百人隊長は見聞きしていただろう。主イエスのことばを直に耳に入れる機会もあったかもしれない。百人隊長は主イエスのことばには神の権威があると信じていた。だから「ただ、おことばをください」と言い切れた。

本来、こうした信仰はユダヤ人が発揮しなければならないものであった。聖書の最初の章である創世記1章では、神のことばによって世界が創造されたことが記してある。神のことばは実体を持ち、それはその通りになる。ことばはことばで終わらない。神のことばにはいのちがあり、生きもののように働く。神のことばは真実で、それは必ずその通りになる。それが神のことばの本質である。それは、他の書でも教えられている。有名なところを二箇所開いてみよう。

初めはイザヤ書55章10,11節である。「雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」。

次に詩篇107編20節である。「主はみことばを送って彼らを癒し、滅びの穴から彼らを救い出された」。主イエスは、これをみごとに実演されたのである。主イエスの口から出たみことばは、使者となって百人隊長のしもべに届き、滅びの穴から救い出した。

私たちは、人のことばはその通りにならないことを経験してきている。家の者に「午後7時の電車で帰って来る」と言われ、その通りに受け取っても、心の片隅に、予定が伸びて乗れない可能性があるかもしれない、という思いを残しておいたりする。天気予報で雨が降らないと言われても、降るかもしれない、という思いが働く。的中率が百パーセントでないことを知っているから。契約書のことばを聞いても、心のどこかで、この通りにならないかもしれないという疑いを抱く。そうした心の慣習を神のことばにも向けてしまう弱さがある。だが、ヨハネの福音書1章1節で、「初めにことばがあった」と言われる、「ことばなる神」のことばは人のことばとは全く違う。

私たちにとっては、聖書という権威のある神のことばへの信頼、そこにかかっている。聖書にはたくさんの神の命令、神の約束というものが記されている。それを私たちがどう受け止めるか、そこにかかっている。主イエスの救いの約束を信じない、主イエスの再臨の約束を信じない、御国の到来を信じない、そのようなことをしていたら、残るのは失望だけである。ある場合は、私たちの特定の状況にあって、特定のみことばが、一つの指針として、または約束として迫ってくることがある。それが大きな支えになることがある。私にとっては、先が見えない時、病んでいる時、経済的見通しが立っていない時、その時々に、みことばに励まされた。みことば真実でそれは成ると。皆さんもそのような経験がおありだろう。

こうしたみことばへの信仰において、信頼が揺れに揺れたり、また、しるし好きなユダヤ人のように、「ことばだけでは信じられない。しるしを見せてほしい」とやってしまうなら、それは弱い信仰でしかない。みことばだけで十分という信仰がほしい。前回は、6章の平地の説教の結語の区分から、キリストとキリストのみことばが揺るがぬ岩であるということを学んだわけであるが、今日の物語もそれに通じるものがある。私たちは、百人隊長とともに、「ただ、おことばをください」「ただ、みことばをお与えください」と、この信仰に立とう。この信仰こそが大人の信仰である。そして、これが、主イエスが私たちに求めている信仰である。