いよいよ、主イエスによる「平地の説教」も今日が最後である。主イエスは最初に、「貧しい者は幸いです」と口を切り、神の国の幸いについて教えられた。それはこの世の幸福感とは正反対であった。続いては、敵を愛しなさいという教え。それは、そこまでするんですか、というチャレンジの大きい内容だった。続いては、兄弟姉妹をさばかず愛することについての教え。主イエスは、そのためにレントゲンのような視線を相手にではなく、自分に向けさせようとした。そして今日学ぶように、最後は「行い」に焦点を置いたたとえを三つ語って、説教を締めくくる。「実のたとえ」「倉のたとえ」「家と土台のたとえ」の三つである。これらのたとえを通して、主イエスは弟子のしるしは行いにあることを教えている。では、さっそく三つのたとえを順番に見ていこう。

最初のたとえは「実のたとえ」である(43,44節)。「良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶことはありません」(43節)。その実が、良い実になるか悪い実になるかは、木の性質によって決まる。だから、もし悪い実が生ったら、その木の性質が悪いということになる。良い実が生ったら、その木の性質が良いということになる。実というのは、木の性質と一致している。だから、実によって、その木がどのような木なのか見分けることができる。「木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むことはありません」(44節)。この場合、「茨」と「野ばら」が悪い木とされている。「茨」は長いとげを持つ。「野ばら」はどうなのか。「野ばら」と訳されていることばの原語は「とげのある植物」。両者ともとげがあって人を傷つけ、食べることはできない。こうしたとげのある植物の木からは、「いちじく」や「ぶどう」といった人間に有益な実を生じない。木と実は一致している。私の実家の敷地とその周辺には、たくさんの柿の木が生えていた。甘柿の木からは甘柿が採れたが、渋柿の木からは渋柿しか採れなかった。主イエスは、やがて、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15章)と、ぶどうの木のたとえを語ることになる。ぶどうの木にとどまっている枝であるならば良い実を結ぶ。主イエスは、今日の箇所では、その人が真にわたしの弟子であるかどうかは実によってわかる、と言っておられる。その人が良い木なのか、悪い木なのか、実によってわかるというわけである。一般に、その人がほんとうに主を信じているかどうかは信仰告白でわかると言われる。だが46節であるように、「主よ、主よ」と口先だけのことかもしれない。だから、その人がほんとうに主を信じているかどうかは、信仰告白プラス、良い実を結んでいるかどうかによって見分けることができるというわけである。つまりは、普段のふるまいや素行によって見分けることができるということである。特定の場面では誰でも良くふるまえる。でも、普段の行状、素行にはその人の性質が出る。また、人の目につくところではなくて、ひとりで居る時、誰も見ていない時のふるまいに、その人の素が現れると言われる。たいがい、悪い事をする時は隠れてするのではないだろうか。このような行いの実、行状の実にはことばも含まれるだろう。人に対して悪態をつく、中傷する、うそをつく等、こうしたことも行状に含まれる。

私たちは誰でも良い実を結びたいわけだが、パウロは御霊の実でそれを言い表している。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5章22,23節)。この22,23節の前では御霊の実とは対照的な、淫らな行い、好色、偶像礼拝、争い、憤り、ねたみ、泥酔、遊興といった悪い実が列挙されているが、私たちは、こうしたことには手を染めたくないわけである。パウロは、「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」(同21節)と言っている。私たちはそのようではなく、キリストにとどまって御霊の実を結びたいわけである。

次のたとえは「倉のたとえ」である(45節)。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです」。ここでは、口から出ることばに限定して語られている。その人の口にすることばは、その人の心を表している。「人の口は、心に満ちていることを話すからです」と。協会共同訳は、ここを、「およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである」と訳している。「心に満ちていることを」を「心から溢れ出ることを」と訳している。おのずと、心の中にあるものが溢れ出てことばになるというわけである。心という倉が良ければ、おのずと良いものが出てくる。思いやりのあることばだったり、正直さだったり。心という倉が悪ければ、ねたみ、ののしり、偽り、高慢のことばといった悪いものが出てくる。パウロは私たちが良い倉を持つべく、「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」(エペソ3章17節)と言っている。心のうちにキリストを豊かに宿すなら、キリストにあって良いものが出て来るであろう。

主イエスは続いて、自分が主の弟子であると勘違いしている行状のよろしくない者たちに対して批判を浴びせる。「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」(46節)。イエスさまを主と呼んでいるだけでは、その人がほんとうにどういう人なのかはわからない。主イエスはここで、ご自分のことを主という呼び名で呼ぶけれども、いわゆる、みことばを行う気持ちのない人を意識して語っておられる。「主」<キュリオス>という呼び名だが、「権威ある者」「主権者」という意味が込められている。だから、「主」とは服従の対象なのである。日本の武士道を例に挙げると、武士は主君に身命を献げる者とされた。自分の側に何の権利も残さず、主君のための我が身であることを自覚して、主君のために命を献げて生きる。主君の命(めい)には絶対服従する。こうしたことが武士道の極意の一つであった。私たちの主君はイエス・キリストである。それならば、私たちの身の振り方は決まってくる。主君の命(めい)とは何だろうか。みことばである。主に従うとは、みことばに従うことである。主イエスの説教を聞いていた聴衆が知っていた有名なみことばには、モーセの十戒があるだろう。偶像を造ってはならない、偶像崇拝してはならない、主の御名をみだりに唱えてはならない、礼拝の日である安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ、あなたの父と母を敬え、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、うそをついてはならない、むさぼってはならない。これらはなおざりにされていいわけはない。主イエスも、これらを真の意味で守りなさいと教えられた。また、主イエスは、これまでの平地の説教では、敵を愛することを入念に教えてこられた。兄弟姉妹を愛することも。もし、こうしたみことばを聞くだけで終わってしまうなら、「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」と問いただされてしまう。あなたがたは、わたしの名をみだりに口にしているだけだと。

主イエスは、今述べられたことを意識しながら、また平地の説教の結語として、「家と土台のたとえ」(48,49節)を語られて終わる。このたとえは、解き明かすことを躊躇するような厳しいメッセージも込められている。「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人がみな、どんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せても、しっかり建てられていたので、びくともしませんでした。しかし、聞いても行わない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はすぐに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものでした」。こうした光景は気候変動によって、近年、毎年しょっちゅうニュースで見るようになった。私の実家も川そばにあり、家の近くまで一面海になることはしばしばである。地震で倒壊することもある。家が損壊し、家を失った人のストレスと悲しみは大きいわけである。イスラエルでは雨期に川が氾濫して、家が損壊するということがあった。具体的にはヨルダン川を想定できるだろう。主イエスはなんと、家が損壊しない秘訣を教えておられる。

マタイの福音書の山上の説教の最後も、同じようなたとえが記されている(7章24~27節)。違っている大きな点は、マタイでは、岩の上に建てた家と砂の上に建てた家のたとえだが、ルカは、「岩の上に土台を据えて」と、土台のある家と、「土台なしで」と、土台なしの家のたとえになっている。土台のあるなしのたとえである。どちらが堅固であるかは明らかである。建築家の方と話をしていた時、その方が、お客さんたちは土台の上ばかりに関心がいって、土台に関心を持つ方は少ないと言っておられた。当時の事情だが、パレスチナの地面は一般に堅かった。それで地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えることに時間と労力とお金を費やすことはめんどうなことだと考える人たちは、さっと地面の上に建ててしまった。想定外な事態に対処しようという気持ちは薄いわけである。地盤を掘削するだとかいった基礎工事はしないで家を建てる。

このたとえを、キリスト者とそうでない方の比較と思っている方がいるが、単純にそういうことではない。土台なしの家とは、イエスさまに言わせれば、「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わない人」のことである。「主よ、主よ」と呼ぶのだから、自称クリスチャンのことである。洗礼を受けていることをクリスチャンの証拠とするだろう。だが、どうなるのだろうか。「川の水が押し寄せると、家はすぐに倒れてしまい、その壊れ方はひどいものでした」(49節)。この水害は何を意味しているのだろうか。家庭の問題、仕事の問題、大病、その他の降りかかる災い、それらが考えられるだろうか。確かに試練の時にその人の信仰が露わにされると言われる。見かけだけの信仰は、その時くずれると言われる。適用としては試練と言ってもよいだろう。しかし、主イエスがここで言われたいことは、すべての人類に及ぶ最後のさばきの事である。家を建てる、すなわち人生を築いてきたその人の真価は、最後のさばきの時に問われる。土台なしの人生はその人とともに破滅する。

だから、「岩の上に土台を据えて」と、岩の上に土台を据えること大切である。では土台を据える岩とは何かを確認しよう。その「岩」とは、キリストとキリストのことばである。でも、岩がそこにあるだけではだめである。その上に土台を据えて家を建てなければ。つまり、キリストを信じて、キリストのことばを行い、人生を建て上げるということである。

キリストが土台を据える岩であることを教える聖書箇所は、メシア預言の次の箇所である。

「それゆえ、神である主はこう言われる。『見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。』」(イザヤ28章16節)

これは神殿の建物の礎石の描写だが、メシアは揺るがない礎なのである。だから、このメシアを信じ、このメシアの教えに聞き、このメシアの教えに従う者こそが、最後のさばきにも耐えうる人なのである。

だが、このような誤解がある。やっぱり何のかんの言っても、良い行いが大切なんだろうと。良い行いをすれば救いがあるのだろうと。注意深く主イエスのことばに聞こう。47節で、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人」と言われている。「良い行いを行う人」と言われているわけではない。「良い行い」「善行」というのは、無神論の人たちも、他宗教の人たちも良く口にする。しかし、その人たちの主張に耳を傾けると、良い行いの意味することが違う。たとえば、何が不道徳なのか、何が許されてそうでないのか、主張していることが異なっている。偶像崇拝や姦淫について、その他の善悪の判断基準について。主イエスがここで言われていることは、「わたしのことばを聞き、それを行う人」である。「主イエスのことばを聞いて、それを行う人」のことである。平地の説教に限定してしまえば、敵を愛すること、敵に善を行うこと、敵を祝福すること、敵のために祈ること、兄弟姉妹をさばかないこと、そういったことも含まれる。ヨハネは、兄弟姉妹に関していえば、兄弟姉妹を愛さない者は、義を行わない者とともに、神から出た者ではないと言っている。「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです」(第一ヨハネ3章10節 参照:同4章20節)。

皆さんは、イエスがキリスト、すなわち神の救い主、メシアであると信じているだろうか。そしてキリストのことばを比類のない神のことばとして受け止め、それを行う姿勢をお持ちだろうか。その人が岩の上に土台を据えた人なのである。48節で言われている結末に注意を払おう。「しっかり建てられていたので、びくともしませんでした」。「びくともしませんでした」ということばは「揺り動かす」ということばから造られている。「揺り動かすことができない」ということである。「揺り動かす」<サレウオー>ということばは、へブル人の手紙12章27節でも使用されている。「この『もう一度』ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています」。ここで言われている「揺り動かされないもの」とは「揺り動かされない御国」のことである(へブル12章28節)。しかし、ルカの福音書で言われているのは、揺り動かされない御国ではなくて、その人本人が揺り動かされないということである。神のさばきにも動じないということである。人の人生は浮草のように不安定で、草花のように一両日で枯れてしまうようなはかないものである。少しの風でどうにかなってしまうかのような人生である。にもかかわらず、ここで永遠に動じない姿が描かれている。それは、この家がりっぱであるということではなくて、土台を据えた「岩」が素晴らしいということである。この岩そのものがびくともしない、揺り動かされないものなのである。その岩とは、キリストとキリストのみことばである。この揺るがぬ岩に土台を据え、人生を築き上げる人が幸いなのである。