HP「太陽の下での楽しみと労苦」 伝道者8:15~17

  伝道者の書において、著者は、太陽の下で起こるすべてのことは「神のみわざである」としつつも、それがなぜ起こるのか、どういう意味があるのか「見きわめることはできない」と述べている(伝道者の書8:15~17)。分からないことは無理にわかろうとする必要はない。人間の知恵には限りがある。私たちの限りある知恵で、知恵には限りがない無限の知恵をもつ神のはかりごとを見きわめることはできない。
 いずれ、大切なことは、先ず第一に、著者のように、すべての出来事に対する神の主権を認めるということである。あるユダヤ人の高名な神学者は、自分の子供が病気の方であるが、病気や苦しみがなぜ起きるのかという問題に対して、こう結論づけてしまった。「神は起きてしまったことをどうすることもできなかった。なぜなら神は愛であっても全知全能の主権者ではないから。それを止められなかった。けれども、苦しんでいる私たちのことを同情してくださっているよ」。この人たちは神の主権を否定し、自分が気に入ることだけを神のみわざとし、そうでないことは神に帰さないという過ちを犯している。また、神でもどうしようもないことがあるんだと受け止め、それで自分を慰めている。
負の出来事の意味について、確実に言えることを少しだけ述べておきたいと思う。私たちは順調に物事が運んでいる時は、どうしても自己依存に陥りがちである。そして互いに頼りあうことを忘れて、自分に頼り、高慢になり、自分が神のようになっていく。自己依存の達成を生き方の目標としてしまい、人に頼ることも、神に頼ることも忘れていく。神に頼っていると口にしている時でさえ、自分の願いや必要に応じて、神を自分の思い通りに操ろうとするものである。しかし神は人の思い通りになる方ではない。それが人生である。けれども、自分の弱さ、もろさを認め、神に向かって心を開くなら、神は必要な助けを必ず与えてくださる。特に自分の力ではにっちもさっちもいかないと素直に認めた時に助けてくださる。こうして、神を現実的に体験し、神の主権を認めた生き方に変えられていく。本当に神の主権を認めた者は、自己中心を認め、自己満足の追求をやめるだろう。そして神とともに歩む歩みを身に着けていこうとするだろう。
 第二に大切なことは、神の恵みを恵みとするということである。その人が神の恵みを恵みとしているかどうかは、その人に自分におもしろくないと思えることが起きた時の反応でわかる。人は自分におもしろくないことが起きた時、「不当だ、なぜ自分にこんなことが」と言う。そして、自分のような<比較的良い人間>になぜこんなことが起きるのかと、怒ったり、自己憐憫に陥ったりする。あの旧約の聖徒ヨブもそうだった。非の打ちどころのない生活をしてきたという自信のある彼にとって、自然災害、人的災害はまだしも、自分が人にも憐れまれないような重病人となるに至っては、神に抗議せずにはおれなくなった。後にヨブは高慢であった自らを悔い改め、災いを受ける前以上に祝福される。私たち多くの人間は、神は私にこれこれのことをしてくれて当然だと考える。食べ物を与えてくれるのも、家畜を与えてくれるのも、畑を与えてくれるのも、何の災いに会わないのも当然だとする。しかし何が当然なのだろうか?神が食べ物も飲み物も衣服をお金も健康も与えてくれるのは当然なのだろうか?私たちは神からいただいて当然というものは何もないはずである。私たちにとって何が当然かというならば、私たちは罪人であるがゆえに、罪の裁きを受けて当然なのである。滅びが当然なのである。だから、それ以外のものはすべて恵みなのである。だから、日ごろ、私たちが当然だと思ってしまっているものは当然のものではなくて、神の恵みなのである。キリストは私たちの罪の裁きを身代わりに受けてくださった。それを信じる者の罪を赦し、天の御国のいのちを約束してくださった。これもすばらしい恵みである。私たちは当然の罪の裁きをまぬがれ、罪赦され、永遠のいのちを受けたわけだから、それ以上のことを「当然でしょうと」神に要求する権利はどこにもない。地獄が当然なのに救われているわけだから、「なぜ私にこの苦難が・・・不当な報いです」と神に文句を言う資格もない。そのようにして神を非難することに時間を使うのは止め、神の恵みを恵みとすることである。
 第三に大切なことは、人となられた神キリストに心を向けることである。神を信じているといっても、受肉した神を信じていなければ、神は神秘的で、私たちの日常生活とは何ら関係のない、ただの象徴的存在となってしまう。神を知りたければ、先ず、キリストが私たちの罪のためにどれほど不当な苦しみを受けてくださったのかを思い見ることである。そして苦しんでいる人は、人として受難を味わわれ、よみがえられたキリストの力に励まされて生きることができる。十字架で苦しまれた神のキリストは、今も全被造物とともに苦しみ、私たちとともに苦しんでいてくださる。そしてご自身の復活の力を通して、苦難や失敗から立ち直る力を与えてくださる。キリストは私たちの人生に入って、精神的にも肉体的にも苦しんでいる私たちを慰め、助け、同伴者として歩み、天の御国への門をくぐらせてくださる。キリストが全人類のために苦しんでくださったことを知っているので、「どうして私が苦しまないでいられましょうか」という気持ちにもなる。言うに言われぬ苦しみの中で、ともにいてくださるというキリストに心を向けるなら、孤独感やひとり置き去りにされているという感覚を持つこともない。私たちはキリストを通して神信頼を学ぶ。そして神の力を体験する。神の現実は私たちのものとなる。