今日から四回にわたって「平地の説教」を学びたい(20~49節)。17節で、「それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった」とあるが、主イエスはパレスチナ全土と、それ以外の地域からも集まっていた群衆を前に説教をされることになる。この説教は「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら」(20節)とあるように、弟子たちを中心とした教えである。弟子道が語られている。今日は四つの幸いの教えを学ぼう。
一番目の幸いは、「貧しい人たちは幸いです」(20節)。前回もお話したように、ルカの福音書の特徴の一つは「貧しさ」の強調である。「貧しい」ということばは20節の他に、ルカの福音書では九回使用されている(4章18節、7章22節、14章13節、14章21節、16章20節、16章22節、18章22節、19章8節、21章3節)。それらの箇所を見てわかることは、主イエスは貧しい人に福音を伝える使命を担っておられるということ、また、貧しい人は今貧しくとも、やがて神の大いなる祝福にあずかるということである。16章では物乞いをしていた貧しいラザロの話があるが、彼は最後にアブラハムのふところが象徴する天の御国で安らぐことになる。
「貧しい人たちは幸いです」は、24節の「富んでいるあなたがたは哀れです」と対になっている。「幸いです」<マカリオス>ということばは、食べるもの、着るものに事欠かないお金持ちに使われたことばである。つまり、富んでいる人たちに使われたことばである。貧乏人に使われることはなかった。だから、主イエスは当時の価値観と全く反対のことを言われたことがわかる。しかも「貧しい人」と訳されていることばは、「物乞いをする人」「乞食」を意味することばである。それは徹底した貧しさである。
それにしても、なぜこうした貧しさに言及されるのだろうか。それは文脈を見ればわかる。20節冒頭で、「イエスは目を上げて弟子たちをみつめながら」とあり、弟子たちが貧しくなる可能性があることを示唆している。それはなぜだろうか。「貧しい人たちは幸いです」に続く文章を見ていくと、「今飢えている人たち」「今泣いている人たち」と続き、22節では、キリストのためにのけ者にされる可能性が記されている。キリストのためにのけ者にされ、それで貧しさや飢えに耐えなければならないことが起きる。けれども、神の国に入ることができるから幸いなのだ、と教えていることがわかる。「神の国はあなたがたのものだからです」(20節後半)。主イエスは、文字通りの貧しさそれ自体が幸せだと教えているわけではなくて、私に従うゆえに貧しさを忍ばなければならなくとも、やがてあなたがたは神の国の祝福にあずかるのだ、満ち足りるのだ、喜びは大きいのだ、報いは大きいのだ、だから幸いなのだと言われたい。
この箇所と比較されるマタイの福音書の「山上の説教」では、ただ単に貧しい者ではなくて、「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5章3節)と、貧しさが心の領域で言われている。だが、ルカの言う貧しさと、マタイの言う心の貧しさは無関係ではない。つまり、貧しい人は富んでいる人に比べて、相対的に、神の前に心が低くなる。人の弱さとして、お金があるときは、神さまよりもお金に心が頼りがちになる。そして傲慢になり、神の国とその義とを求めなくなってしまう。貧しくとも傲慢な人はいるだろう。だが概して、富んでいる人のほうが傲慢になりがちである。だからパウロは富んでいる人たちに対して、こう言及している。「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き(なさい)」(第一テモテ6章17節)と。
二番目の幸いに移る前に、21節以降の特徴について言及しておきたい。21節以降、「今これこれの者は」と、「今」ということばが連発している(計4回)。これは、今どうあってもやがては報いは大きい、という逆転現象を告げたいわけである。反対に、今さえ良ければあとはどうなってもという考え方がある。今さえ良ければという考え方は「刹那主義」と言う。遠い将来のことを考えず、今さえ充実していればそれでいいというもの。目先しか考えない生き方である。24~26節の人たちが、そのような人たちである。その人たちは主イエスによって「哀れ」と言われている。
では二番目の幸いについて見よう。「今飢えている人たちは幸いです。あなたがたは満ち足りるようになるからです」(21節前半)。飢えは貧しさの結果である。「今飢えている人たちは」は、25節前半の「今満腹しているあなたがたは」と対になっている。飢えている者と富んでいる者との結果が入れ替わってしまう。この満ち足りる、満腹するという神の国の祝福を伝えるものが、実は9章に記されている五千人の給食の奇跡(五つのパンと二匹の魚の奇跡)である。そこでは、「人々はみな、食べて満腹した」(9章17節)とある。主イエスがこの祝宴の主人である。
三番目の幸いは、「今泣いている人たちは幸いです。あなたがたは笑うようになるからです」(21節後半)。「今泣いている人たちは」が、25節後半の「今笑っているあなたがたは」と対になっている。「泣く」というのは、これまで見た貧しさが引き金になって泣くこともあるだろうし、22節の「人々があなたがたを憎む」「人の子(キリスト)のゆえに排除し、ののしり」「あなたがたの名をあしざまにけなす」、そういったことで起こるものである。だが、やがて笑いに変えられるというのである。
第四の幸いは、今触れたが、「人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名を悪しざまにけなすとき、あなたがたは幸いです」(22節)22節で付け加えておきたいことは、「人々があなたがたを憎むとき」からわかるように、年がら年中、いつでもこういうことがあるということが言われているわけではないということである。「憎むとき」があるということ。そして、もし、こういう目にあったとしても「あなたがたは幸いです」という保証付きである。続く23節では、「その日には躍り上がって喜びなさい。見なさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。彼らの先祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです」と言われている。天において報いは大きいのだから、「躍り上がって喜びなさい」とまで言われている。つまり、苦しいことがあって心がひしゃげ、つらい目に遭って涙を流しつつも、同時に、躍り上がって喜べるような立場に私たちは置かれているということである。泣きつつ、喜ぶという不思議なことを体験できる身とされているということである。
今、四つの幸いについて学んできたが、私たちはキリストに従うゆえに、つつましい生活に甘んじることになるかもしれない。お金にならない職業を選ぶことが起きる。転職を選択しなければならならなくなるかもしれない。不正に手を出さないゆえに損をすることが起きる。離職を迫られるかもしれない。昇給できないということも起きる。言われのない中傷を浴びて、共同体の中でつらい立場に立たせられるかもしれない。外国では、信仰のゆえに投獄されている人が実際たくさんおられる。もし今さえ良ければと刹那主義に生きるなら、信仰を棄てるという選択も生まれるだろう。または妥協して、26節で暗示されているように、人に媚びて、周囲の色に染まって、長いものに巻かれて、世に流されて生きる生き方を選択することも起きるだろう。主イエスはそうした私たちの弱さをご存じの上で、ご自身の語る幸いを、しっかりと握らせようとしている。「貧しい人たちは幸いです」「今飢えている人たちは幸いです」「今泣いている人たちは幸いです」「人々があなたがたを憎むとき、人の子のゆえに排除し、ののしり、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです」。この四つの幸いを握る人たちは刹那主義に生きないだろう。神の国を見据えて、長いスパンで考えて、主の教えに従って生きるわけである。今さえ良ければではなく、今はどうあってもという視点で、主イエスに一歩一歩従って行く。その姿は、ただ歯を食いしばってという姿ではなく、時には躍り上がる喜びを見せる姿である。
では次に、24~26節で言われている刹那主義の人々をもう少し観察しよう。主イエスは弟子たちを見つめながら説教を始めたわけだけれども、24~26節を見れば、弟子たちではない者たちも意識して語っておられることがわかる。前半の四つの幸いに対応して四つの哀れが宣言されている。「哀れです」と訳されていることばだが、協会共同訳では「災いあれ」と訳している。この語は「かわいそう」とか「不幸です」より強いことばであることは確かで、神の怒りの下にある状況を表している。来るべき裁きはまぬがれられないことを予感させることばである。
「しかし、富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです」(24節)。なぜ富んでいる人が哀れと言われているのか。それは、慰めをすでに受けているから。「すでに受けている」ということばは、全額領収しました、という商売用語でもある。この世から、現世の富から十分な見返りを全額領収してしまって、神からの報酬はゼロということである。それは23節の「あなたがたの報いは大きいですから」と正反対。神からの報いはゼロ。報いは現世で受けてしまった。全くうらやむに値しない。
「今満腹しているあなたがたは哀れです。あなたがたが飢えるようになるからです」(25節前半)。富んでいる人は飽きるほどに食べることができる。しかし、それも期限付きで、やがて「飢えるようになる」。それは満足と反対の状態で、この地上の人生の先の状態であろう。
「今笑っているあなたがたは哀れです。あなたがたは泣き悲しむようになるからです」(25節後半)。笑うこと自体は健康にも良くお勧めである。ここで言われている笑いは推奨できないような笑いだろう。富と快楽が一緒になった笑いというか、軽佻浮薄な笑いというか、貧しい人たちを見下しての高慢な笑いというか、その手の笑いだろう。12章には「愚かな金持ちのたとえ」があるが、そこでは金持ちが「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、休め。食べて、飲んで、楽しめ」(20節)と言っているが、そういう精神だろう。また、貧しい人たち、飢えている人たち、泣いている人たちを見て、「みじめなやつらよ」と、せせら笑うような態度だろう。そういう人たちはやがて泣いて歯ぎしりするだろう。苦しみ身もだえすることになるだろう。
「人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです」(26節)。この26節は22,23節と対になっている。真の預言者はののしられ、迫害を受け、それに対して偽預言者はほめられるという対比を主イエスは用いている。この事実は、旧約聖書に事例がたくさんあるわけである。エレミヤといった真の預言者は悔い改めを迫り嫌われ、偽預言者は平安がないのに「平安だ、平安だ」と叫び、人受けした。私たちクリスチャンは、この世に煙たがられないように、嫌われないように、キリスト教がこの世に魅力的に映るようにと努力しても、一線を越えてはいけないわけである。つまりは聖書が罪と言っていることを罪でないと言ったり、右ならえで偶像崇拝をしたり、罪に対する裁きはないと言ったり、あなたの願望には何でも応えますと八方美人的なふるまいをしたり、そうなると、旧約聖書の偽預言者のように、人々にはほめられるかもしれないが、塩気を失った塩と同じで、実際には神の心を痛ましめるだけで、役には立たない。気をつけて見ていただきたいのは、「人々がみな、あなたがたをほめるとき」の「人々がみな」である。ほめられることは良いことである。良いことをしてほめられるというのは、証にもなっているということである。しかし、「人々がみな」と、世の人たちがみな、世の人たち全員がほめるような人気というのは、怪しい事態であるということである。主イエスの公生涯を見てご覧なさい。ほめられるだけではなかった。父なる神のみこころを完璧に生きられながら、何一つ罪を犯さない生涯を送られながら、イスラエルの指導者たちからも民衆からも反感を食らうことになる。私たちは主イエスにならうよう召された者たちである。
今、四つの哀れを見たわけだが、私たちはこちらに該当してはならないわけである。では先に見た四つの幸いだろうということだが、躊躇してしまうところはあるわけである。誰が極貧を願うだろうか。飢えを願うだろうか。泣いて暮らすような生活を願うだろうか。人々に憎まれ、仲間外れにされることを願うだろうか。私たちは、神さまにそうしてくださいと、祈り願う必要はない。そうではなく、主イエスの弟子として生きて行くときに、このような事態になったとしても、また今そうであっても、神の国を待ち望んで、神の国の幸いを握りしめて離さないということである。
箴言30章8節には、次のような嘆願のことばがある。「貧しさも富も私には与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください」。このような祈りも良いだろう。実際私たちは、「私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください」と祈っている。また、あるクリスチャンは、富を願い求めた。しかし、それはすべてを主のために用いるためであった。そしてそれを実践し、自分自身はシンプルライフを生きた。こうした生き方もすばらしい。結局のところ、私たちは、それぞれが経済状態の別はあっても、主の弟子というアイデンティティをもって、主のために神の国の民として生きるということである。どうか、刹那主義で生きられませんように。今さえ良ければではなく、神の国を見据えて、今はどうあってもという視座を、主イエスにあって持つことができますように。次回は、大きなチャレンジとなる敵を愛することを学ぼう。

