現在、「平地の説教」を学んでいる。今日の区分は「あなたの敵を愛しなさい」がテーマの有名な説教である。マタイの福音書の「山上の説教」にも同様の教えがある(マタイ5章38~48節)。これらの教えは有名で良く耳にするにもかかわらず、人間には実行不可能な高邁な教えと受け止められ、それをどのように解釈したらの良いのか、未だに意見が分かれてしまっている箇所である。山上の説教は教会時代の教えではないという立場がある。この立場に立つ人たちは、山上の説教はメシア王国(ダビデ王国)の律法であるとする。彼らの主張はこうである。「主イエスはメシア王国の律法を語られた。ところが、ユダヤ人たちはメシアであるキリストを受入れなかったので、このメシア王国(ダビデ王国)は未来に延期されてしまった。そして教会時代が来ることになった。よって、山上の説教は教会時代の教えではない」。こうして、山上の説教は、直接的には私たち教会時代の教えではないと結論づける。「もし山上の説教がキリスト信者のための日常生活の規範であると言うなら、これは深刻な欠落です」(チャールズ.C.ライリー)。この立場に立つ人々は、聖書は字義どおりに解釈しなければならない、文字通り実践しなければならないと強調する人々である。だが、山上の説教は現代のクリスチャンに対する教えではないと解釈することによって、文字通り実践しなくとも良いのだと難を逃れてしまう。では、この立場に立つ人々にとって、現代のクリスチャンたちが山上の説教をどう受けとめればよいのかということだが、その道徳的原則を適用すればよい、で済ませるのである。

私は山上の説教を含め、この平地の説教も、キリスト信者の日常生活の規範と信じる。だが、私と同じように受けとめる人たちでも、困惑するのは確かである。例えば、「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい」(29節前半)に対しては、どうしてそのように命じられているのかは不明といった言及が見られるし、続く「あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません」(29節後半)に対しては、文字通りそうしなさいと命じたと受け取る必要はなく、気前の良さということを教えようとしたのだ、といった言及が見られる。これも、文字通り実践する必要はなく、道徳的原則を適用すれば良いという解釈である。私は、このような命令の背後にどのような道徳的原則があるのかを見極めるのは大切であると思っているが、これを聞いていた弟子たちにとって、命令を文字通り行う場面も出てきたのではと思っている。

主イエスはまず、「あなたがたの敵を愛しなさい」と言われる(27節前半)。この命令は35節でも繰り返されている。そして、これらの命令の前後に、実際に敵を愛するとはどういうことなのかが言われている。「敵」と言えば、当時のユダヤ人にとっては異邦人であった。だが主イエスはそうした民族意識に限定して「敵」ということばを使っているのではないようである。20節からわかるように、先ずこれはご自身の弟子たちを主眼とした教えである。22節では、主イエスのために憎まれたり、排除されたりということが起こることが記されている。だから「敵」という場合、キリストの弟子であるゆえに敵対してくる人々ということが第一義的に想定される。クリスチャンというのはキリストの弟子である。だから、これらの教えが教会時代のものではないと言えるだろうか。教会時代の教えではないというのは欺瞞である。「敵」という存在は27,28節で、「あなたがたを憎む者たち」「あなたがたを呪う者たち」「あなたがたを侮辱する者たち」と言い換えられている。そして、弟子たちにはこうした対象に対して三つのことが勧められている。第一は、「あなたがたを憎む者たちには善を行いなさい」。憎む者たちを憎み返すのは誰でもやっている。その人たちに善を行ってこそ愛である。「善を行いなさい」は「親切にしなさい」とも訳せる。「あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない」(出エジプト23章5節)。これなど良い実例である。第二は、「あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい」。悪口を言われたら悪口で応酬する、売り言葉に買い言葉、こうしたことは世の常である。「祝福する」ということばは、「良いことを言う」が原意である。「死んでしまえ」ではなく、祝福することば、親切なことばをかける。第三は、あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい」。侮辱されて、ただじっと耐えているだけではなくて、赦しの祈りをささげたり、祝福を祈ってあげる。主イエスは十字架上で、ご自分を十字架につけ、あざけっている兵士たちに対して、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分で何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23章34節)と祈られた。

続いて主イエスは具体的事例を二つ挙げる。頬を打つ者と上着を奪い取る者の事例である。「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬を向けなさい」(29節前半)。この「あなたの頬を打つ」というのは、当時ではユダヤ教集会からの排除を暗示しているかもしれない(22節「排除」参照)。この行為は、頬ピシャ程度ではないようである。「頬」と訳されていることばは、「あご骨、あご」を意味することばである。「打つ」は「打つ、殴る」を意味することばである。かなり痛そうである。こういう場合、抵抗するのでなければ、逃げ去るか、しり込みして委縮してしまう行動に出るかのどちらかだろう。無防備に、もう一方の頬をさらすというのは大変な度胸である。「打つなら打ってみなさい」と、物おじしない態度である。逃げ腰になっていない。自分は間違ったことをしていないし、神が私を弁護してくださるという確信があるのだろう。「神である主は私の耳を開いてくださった。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に背中を任せ、ひげを抜く者に頬を任せ、侮辱されても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。しかし、神である主は私を助けてくださる。それゆえ、私は侮辱されることがない。それゆえ、私は顔を火打石のようにして自分が恥を見ないことを知っている」(イザヤ50章5~7節)。そして、これは、人を恐れていない態度でもある。私は様々な人物の物語を読んでいて、すぐれた霊性をもつ人は、臆病ではなく、人を恐れない人だと気づいた。「あなたは何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは」(イザヤ51章12節)。人を恐れて、その恐れる対象を愛せはしない。人を恐れない人こそ、敵を愛することができる人である。

もう一つの具体的事例は、「あなたの上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません」(29節後半,30節)。上着も取り、下着も取るというのは、日本でも江戸時代頃まであり得たことである。身ぐるみはがされるというやつである。しかし、全員が文字通りこの命令に従っていたら、略奪者の天下になって、泥棒王国ができてしまう。文脈からわかるように、これを社会ルールや法律として言っているわけではない。敵とあなた個人の関係という範疇である。歴史小説に「山立ち問答」というものがある。一人の武士が家僕を連れて、主君の命を受けて隣国に向かった。日が暮れて峠に差し掛かった時、十人以上の賊たちに取り囲まれ、金品と着物の大小、全部渡すように迫られた。そうしなければ切るぞと。その武士は、全く物おじせず、「金品は渡すが、主君の用事を果たすまでは裸にはなれない、用事を果たしたら、この峠に戻ってきて、着物の大小を渡す。武士に二言はない」。そう言って、金品だけ渡して立ち去り、用事を果たしてくると、同じ峠道にまた戻ってきて、賊たちを呼びだし、賊たちの前で着物を脱いで裸になり、着物の大小を渡して約束を果たし、ふんどし一丁の姿で国に戻っていった。物語には続きがある。賊たちは、逃げも隠れもしないで約束を果たす、この堂々としたふるまいに感動し、自分たちが仕えるべきお方はこの方しかいないと、その武士を捜し出すと、皆でひれ伏して、家来にしてくださいと頼み込む。そして主君の計らいで、賊たちはその武士の家来になる。

次は実話を紹介しよう。西川悟平さんというアメリカ在住のピアニストの話である。彼は才能豊かなピアニストであったが、25歳の時、ジストニアという難病にかかり、指が動かせなくなってしまう。ようやく7本の指が動かせるようになるものの、満足に弾くことはできない。しかし彼はピアニストの夢を捨てることはせず、「今、動く指で弾ける曲を弾こう。僕だけの音楽を奏でよう」と決心する。彼はこう言っている。「この病気は神さまからのギフトでした。新しい治療法で全部の指が動くようになるよ、と言われても、『結構です』と断ります。すべてがプラスに変えられました」。

彼はニューヨークのアパートでくつろいでいた時、思わぬ体験をする。物音がするので、友だちだろうと思って見に行くと、そこに体格の良い黒人と、ラテン系の人が立っていた。黒人は注射器を向けてきて、「動くな。刺すぞ」と脅かしてきた。ラテン系の人が寝室の引き出しをあさり始めた。西川さんは頭の中で考えた。「この人たちはどうして犯罪に手を出すようになってしまったのだろう」。そしてラテン系の人に聞いた。「どういう幼少時代を過ごしたのですか」。ラテン系の人はあさっていた手を止めて、おもむろに話し始めた。「俺が今までに味わってきた苦しみがお前には絶対わからないと思うけど、母親はアルコール中毒だった。父親には、小さい時から虐待されていた」。西川さんはその話を聞いて、涙が出てきた。そして二人に向かって言った。「何でも欲しいものを持って行ってください」。思いがけないことばに驚いた二人は、ピアノを弾いている西川さんが写っているポスターに気づいて、西川さんに言った。「お前、ピアノが弾けるのか。俺たちのためにも何か弾いてくれ」。すでに夜遅い時間だったが、西川さんは近所迷惑になることを恐れつつも、数時間、ピアノを弾いた。

最後に、ラテン系の男が言った。「実は、今日は俺の誕生日なんだ」。西川さんは「おめでとう!」と言って、ハッピーバスデーを弾き始めた。その男は言った。「俺の人生で誕生日を祝ってもらったのは始めてだ」。西川さんはまた言った。「日本から届いたばかりの美味しいお茶があるけど、飲みますか」。結局、明け方まだお茶を飲みながら、三人で楽しい会話の時をもった。二人は何も取らず西川さんのアパートをあとにしたが、別れ際に黒人がこう言った。「俺は、日本の優しい文化が好きだ。ちゃんとドアに鍵をかけておけよ」。

アッシジのフランシスコの逸話には、盗賊たちの回心の物語がある。修道院に食物を恵んでくれと三人の盗賊が訪れたが、番人は追い払った。悪名名高き連中だったからである。それを知ったフランチェスコは番人を叱った。「主は、『私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来た』と言われたではないか。食物と飲み物を届けなさい。盗賊たちの所に行って、自分が無慈悲であったことを詫び、盗賊たちに、これからは悪事を働かず、神さまを恐れ、隣人を苦しめたりするようなことがなければ、困っている時はいつなんどきでも食べ物や飲み物を届けましょうと、腰を低くして、伝えなさい」。これを実践すると、その盗賊たちは、「俺たちはなんという卑劣なことをしてきたんだ」と、それまでの非道を悔い改め、フランチェスコのもとで神に仕える者となったというお話である。

「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい」(31節)。これは一般に「黄金律」(ゴールデンルール)と呼ばれるものである。直訳はこうである。「そして、あなたがたが、人々からして欲しいと望むように、あなたがたも、彼らに同じようにしなさい」。「彼らに同じようにしなさい」と言われる「彼らに」は敵も入る。黄金律は敵が意識されていることは、続く32節以降の教えからも明らかである。この黄金律を、敵を意識しないで、ただ困っている人のためにと受け取ってしまうなら片手落ちである。敵が食べるものがなくて困っているとする。敵の立場に立ってみて、自分であればやはり食べ物がほしいし、それが必要だと判断し、食べ物を分けてあげる。それで、黄金律が実践できたとなる。敵が怪我をしている、着るものがない、等々、敵の立場に立って、ニーズは何か、自分だったどうして欲しいかと考える。そして実践する。「黄金律」は敵を意識しなければならないのである。

主イエスは、32節からは、敵を愛せなければ何もほめるところはない、敵を愛してこそ神の子と言えるのだと教えていく。まず、32~34節を読んでみよう。「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか。罪人たちでも同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸したとしても、あなたがたにどんな恵みがあるでしょう。罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに返しています」。そのとおりであるが、「罪人たち」と四回言われていることばだけ説明しよう。マタイの福音書のほうでは「異邦人でも」「取税人でも」といった表現になっている。神の律法をもたない異邦人や、取税人のように神の律法に従っていないとみなされる人々を「罪人たち」と捉える習慣があった。彼らでさえやっていることをやったからといって、何事かあろうか、というわけである。私たちは、信仰者でない世間一般の人々でも、愛されたら愛する、良くしてもらったお返しする、そういった返礼、返報はやっていることを知っている。こうしたことをしたからといって、神の子どものしるしとはならないというわけである。

神の子どものしるしは、敵を愛する過激な愛で証明される。それは何の見返りも期待せず敵を愛する愛である。35,36節を読もう。「しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」。敵を愛してこそ、晴れて神の子どもと言える。愛敵が神の子どものしるしなのである。

主イエスは、この区分の終わりで、天の父のあわれみ深さを強調している。天の父のあわれみ深さというものはどうして知れるのだろうか。私たちは信仰をもった時に、それぞれが新約聖書を通して、キリストの十字架は私の罪のためであったと知り、神のあわれみ深さをかじった。その後、自分の愚かさ、罪深さを思い知らされる度ごとに、こんな者になんて神はあわれみ深いのだと、神のあわれみを痛感させられることになった。赦し、忍耐、守り、養い、すべての面において。そうすると、聖書の読み方も違ってくる。よく、新約聖書の神は愛の神で旧約聖書の神は裁きの神、怒りの神だといった言われ方がする。はなはだしい誤解である。旧約聖書を預言書まで良く読み通せば、神は不信仰に陥った選びの民に対して、どれほどに怒るに遅くあわれみ深いお方かを痛感させられるし、諸国に対してもあわれみ深いお方であることを知る。そして、神のあわれみは現代の諸国に対しても変わらないと気づかせられる。

今日は敵を愛するということがテーマだが、よく、敵を愛するとは敵を好きになることではないと言われる。敵に愛情を抱くことではないと。それで少し気が楽になるのだが、しかし、敵にあわれみの念を抱くということなければうそだろう。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい」とは、敵を愛する文脈の中で言われている。「あわれみ深い」とは「いつくしみ深い」「なさけ深い」といった別訳が可能である。こうしたご性質の元手は父なる神である。

敵を愛する愛は、私たち生まれつきの性質にはない。敵どころか味方を愛するのに四苦八苦している。やはり、その愛は聖霊を通して与えていただかなければならないだろう。そして、天の父は求める者たちに聖霊をくださるだろう。

今日は敵を愛するということを学んだ。私たちは、敵を愛するというのはクリスチャンの理想なんだと、そこで止まってしまうところだが、イエスさまの教えはそうではなく、敵を愛してこそ神の子どもと言えるのだ、敵を愛せよと教えていることに気づいて、実践したいと思う。