主イエス・キリストは新鮮ないのちに満ちた新しいお方である。そのお方が伝統的なユダヤ教の世界に人として来られた。両者は合わなかった。今日の区分では、主イエスは古いものと新しいものを比較対照するたとえを語られている。新しい衣の布で古い衣の布の継ぎをするたとえ、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるたとえである。私は大学生の時、信仰をもったばかりの頃、たとえの中でもなぜか今日のたとえが印象深く心に残った。これらのたとえは、恐れずに、新しいことにチャレンジすることを教えているのだとか、新しい変化を恐れないで受け入れることを教えているのだとか、そうした理解で終わってしまうなら、これらのたとえを正しく受取り損ねてしまうことになる。確かに、古いものにしがみついているだけの姿勢は問題である。人が新しいものを受け入れるには時間がかかるものである。いつまでも新しいものに否定的であると、周囲に取り残されてしまう。「頭が古い」という格言があるが、そのように揶揄されてもしまう。時代や世の趨勢に敏感であることは大事である。しかしながら、今日のたとえを、新しい変化を求める姿勢について教えているのだと、そこで終わってしまったなら、実はたとえの真意を見誤ってしまうことになる。そして、気がついてみたら、霊的いのちは新鮮さを失い、世に迎合した教会、罪に妥協したクリスチャンとなり、証する力を失ってしまったという話は枚挙にいとまがない。

では、今日のたとえを注意深く学んでみよう。今日の記事は、前回の29節からの続きで、同じ場面である。レビが仲間の取税人や罪人たちを招いて、主イエスのためのパーティを開いた場面である。前回お話したように、取税人はユダヤ教の文書では、強盗や殺人者と同じようにみなされた職種の人たちで、ユダヤ社会から村八分にされていた嫌われ者である。隣人ともみなされなかった。30節で「罪人たち」と言われる人たちも同様で、取税人も罪人の範疇に入れられていたわけだが、この人たちはユダヤ教の規則に無知であったり守らない人たちのことで、汚れとされ、神の国には入れない不浄な人たちとされ、敬虔さを自負するパリサイ人のような人たちは、彼らとつきあうことはなかった。それが正しいことであるとされた。「パリサイ」ということばは、「分離する、区別する」ということばから生まれたと言われるが、彼らは自分たちを「義人」と呼び、汚れた人々から自分たちを分離し、取り分け、純粋さを保とうとしたわけである。このパリサイ人たちは、イエスとその弟子たちが低俗な連中と食事まで一緒にしているのを見て、不快感をあらわにしながら弟子たちに質問した。「なぜあなたがたは、取税人や罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」(30節)。その答えを続く、31,32節で主イエスが答えているわけだが、主イエスはご自身を医者にたとえて、彼らに接近する目的は彼らを救うためなのだと、答えられる。

良く見ると、今日のたとえも、パリサイ人たちの飲み食いの質問で始まっている。質問は弟子たちにではなく主イエスに対してだが、同じく飲み食いの質問である。「ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをしています。パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」(33節)。当たり前のように飲み食いに興じて、これはどういうわけか、ということである。パリサイ人たちは、弟子たちの飲み食いする姿が余りにも俗っぽく映ったわけである。神を信じる者にあるまじき姿として映ったわけである。主イエスはどう返答されたのだろうか。主イエスは、31,32節では、取税人や罪人たちと飲み食いする目的は彼らを救うためであることを語ったが、今度は、弟子たちが楽しく飲み食いしている理由について語ろうとする。その楽しい飲み食いと対極的なのは、33節の「断食」である。モーセの律法で定められている断食日は年に一度で、第7の月に実施された(レビ16章29節)。その後、バビロン捕囚を記念して始まった断食の習慣があり、第4の月、第5の月、第7の月、第10の月に実施した(ゼカリヤ8章19節)。また戦争、疫病、飢饉といった災害時に断食した。また、個人的理由で断食することがあった。嘆きがある時、悔い改める時、切なる訴えを神にしたい時など。そしてパリサイ人独特の習慣として、「週に二度」、月曜日と木曜日に断食をする習慣があった。主イエスは断食そのものを否定しているのではないことは明白である。主イエスご自身、荒野で四十日四十夜の断食を経験しておられる。

主イエスは弟子たちが楽しく飲み食いすることを肯定するために、結婚披露宴という祝祭のイメージを持ち込む(34節)。ユダヤの文化において、結婚披露宴は7日間続き、食べて飲んで楽しんで、家や道端で歌ったり、踊ったりした。「花婿に付き添う友人たち」は花婿の世話役なわけだが、花婿を心から祝い、喜ぶことをした。パリサイ人たちもこの文化を認めていた。この場合、「花婿」とは主イエスのことである。「花婿に付き添う友人たち」が弟子たちのことである。弟子たちが楽しく飲み食いしている理由はここにある。花婿イエスとともにいる喜びとお祝いの生活、これがキリスト者のライフスタイルの根本をなすものである。キリスト者のライフスタイルは、律法主義のように、外側の形から始める生活ではなく、内側から喜びが湧き出るスタイル。キリストを喜ぶ喜び、それが形となるのがキリスト者の生活。単純に言ってしまうと、キリスト者の生活は、キリストを喜ぶ生活。

35節では、弟子たちが断食する時が来ることを言っている。「花婿が取り去られたら」とは、主イエスの十字架の死を意味している。断食の勧めは初代教会でもなされている。しかし、ここで、断食を最重視する宗教に戻るとか、そういうことが言われているのではない。主イエスが強調したいことは、キリストを花婿とする喜びの生活である。弟子として加えられたレビには、まさしくこれがあった。外見上の敬虔さ、まじめさは、ある意味、二の次、三の次のことである。キリストを喜ぶ喜びが弟子としての本質である。それがライフスタイルを変える。私たちは花婿イエスの友人であり、また花嫁なのである。旧約聖書では神は花婿とされているが、新約聖書では神の救い主キリストが花婿とされている。私たちは花婿の友人であり、また花嫁なのである。そうであるなら、キリストを喜ぶ生活となるのは至極当然である。

そのライフスタイルについて、主イエスは二つのたとえを語る。一つは衣の布の継ぎのたとえである(36節)。ここでの「古い衣」とは、パリサイ的ユダヤ教の生活である。パリサイ主義の生活と言って良い。「新しい衣」とは、キリストを信じ、キリストを喜ぶ生活。新しい衣から継ぎ切れを取って古い衣に当てるとどうなるだろうか。新しい布は洗うと収縮するので、古い布を引き裂くことになるとも言われるが、ここでは、「新しい衣を裂くこと」になる、と言われている。とにかく両者は合わない。

もう一つは、ぶどう酒と皮袋のたとえである(37,38節)。「皮袋」というのは、羊や山羊の皮で作ったものだが、胴体の中身だけをくりぬいて、手足の穴の部分をくくったり、また皮を縫い合わせて容器にした。そこに、水やぶどう酒を入れた。想像どおり、古い皮袋は弾力に乏しい。そこに発酵力が強い新しいぶどう酒を入れたらどうなるだろうか。古い皮袋は張り裂けてしまう。新しいぶどう酒も地に流れ出てだめになってしまう。新しいぶどう酒が悪いのではない。古い皮袋が悪いのである。この場合、「新しいぶどう酒」とは、キリストとキリストの福音である。それは生命力に満ちたものである。それが合わない「古い皮袋」とは、それまで伝統的だったパリサイ主義のライフスタイルである。禁止命令をたくさん設け、それを守ることを良しとするだけで、独りよがりで、喜びも自由もない。こわばってしまった皮袋である。

キリストとキリストの福音という新しいぶどう酒には、弾力性のある新しいスタイルが適している。その弾力性のある新しいスタイルは、時や場所や相手によって様々な変化を遂げる。結果、キリストという新しいいのちは失われることなく、生き生きとした喜びを味わわせることになる。

この場面で、レビが用意した宴会の光景は、こわばった古い皮袋しか知らないパリサイ人たちにとっては、あきれ果てるというか、非難しか出て来ないものだった。レビの立場に立ってみると、主イエスに受け入れられた喜びから、主イエスに感謝を表したいということとともに、仲間たちや自分と同じような境遇の人たちに、イエスさまを伝えたいと思っただけのことで、罪な行為はしていない。皆で賭博をしたとか、麻薬を楽しんだとか、罪に値することはしなかったはずである。この宴会は29節で「イエスのために盛大なもてなし」とあるように、主イエスを中心とする宴会であり、ホストのレビからイエスさまへの感謝が述べられ、彼の証がなされ、イエスさまから福音が説かれ、弟子たちからイエスさまの素晴らしさが口をついで出るという、喜びの宴会であったはずである。だが、パリサイ人たちにとっては、伝統や習慣に合わない取税人や罪人たちとの合同コンパなんて、汚らわしいとしか映らなかった。だが、しかし、それは新しい皮袋であったのである。それは新しいぶどう酒のための新しい皮袋だったのである。この点をみのがしてはならない。

この新しさについて考える場合、間違ってならないことは、新しい皮袋のための新しいぶどう酒ではなく、あくまでも、新しいぶどう酒のための新しい皮袋ということであるということである。「新しいぶどう酒のための」を忘れた新しい皮袋は意味をなさない。ヒッピーや身なりの汚い若者を受入れ、成長したアメリカの教会でカルバリー・チャペルがある。初めは彼らの受け入れに関して、教会で抵抗があったようである。汚いし、会堂はよごすし。しかし、聖書は何を語っているのかを皆で受けとめて、キリスト中心で教会を形成していった。そこの教会はカジュアルな雰囲気の教会として知られているが、大げさな霊的ヤラセや流行のプログラム、新しい仕掛けにしがみつくことは避けたそうである。そこの牧師であった方がこう言っている。「飽きっぽさが私たちの人間の本性です。たとえそのときに旬のもの、流行しているものがどれだけ刺激的で魅惑的であったとしても、私たちはすぐに飽きてしまいます。そしてさらに新しい観点や切り口、さらに新しいパワーを売りにしたアトラクションを求めるのです。これはあたかも、もっともっと刺激的な力を求めて、以前と同じレベルの興奮と感動を守り続けるようなものです。・・・私たちは肉の欲求を満足させるプログラムや、人々に訴えかける誇大な霊的材料を求めはしないのです」。当時、斬新と思われた教会の牧師の意外な発言である。この牧師が重視したのは、キリストとそのみことば、つまり新しいぶどう酒である。キリスト中心、みことば中心である。外側のスタイルから入るのではない。新しいぶどう酒あっての新しい皮袋であることが忘れられると、本末転倒なことになる。黙示録に七つの教会へのキリストのことばがある(2,3章)。時期は一世紀の終わり頃で、教会が誕生してから60年も経っていない時期である。教会はすでに堕落が始まっていた。その頃、グノーシスといった異端やアーリア系の土着の信仰が教会に入り込み、新しいぶどう酒は早や腐り始めていた。新しいぶどう酒に混ぜ物が混入してきたわけである。皮袋のほうは新しいぶどう酒のためでなくなり、一見にぎわいをみせる教会もあったが、道徳や倫理は低下していった。教会はこのように、黙示録の教会のように堕落を招くか、パリサイ的な律法主義に陥るかのどちからに傾く危険がある。

先の牧師は、真に新しいぶどう酒を尊ぶ方だと思わせる発言をしている。タバコの吸い殻に関してである。「これは私の個人的意見ですが、喫煙という趣味傾向は、この世の中でもっとも不潔なものの一つだと思います。・・・人々が教会に来るときにタバコを吸いながら来るのを見かけます。彼らは教会に入る直前に、タバコを靴で地面に擦りつけるのです。いったい誰が吸い殻を拾うと思っているのでしょうか。子どもから大人になる過程で、私は母から、けっしてタバコや吸い殻には触らないように教わりました。今でもタバコに触るとき、汚いという思いが突き上げてきます。教会の地面から吸い殻を拾い上げるたびに、子どものころから沁み込んだ汚いという感覚がこみ上げてくるのです。『ああイヤだ。』それでも教会の敷地はきれいにしておきたいので、吸い殻が落ちていると拾います。しかし私は頭の中で、誰ともわからない相手に向かって、不満と文句を言いながら拾っていたのです。そして『汚くて、臭くて、まわりの人のことなんか考えない、だらしない、思いやりのない人々だ!』と思っていたのです。そのとき、主が私の心に語られたのです。『あなたは、誰に仕えているのか?』私は『あなたにです』と答えました。主は『だったらぶつぶつ言うのはやめなさい』と言われました。苦い思いを抱きながら仕えるなということです。むかつきながら働くなということです。もし私がタバコを捨てた相手に苦い思いで仕えていたら、むかつきながら働くしかありません。しかし『主よ、今からあなたの教会の敷地をきれいにします』と思うのであれば、吸い殻を拾い集めてごみ箱に入れるのに内心むかつきながら働くといったことはなくなります。なぜなら主イエスのためにやっているのですから。人から同意を得るためではなく、ただ主のためにやります。聖書が言っているように、『ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。』(コロサイ3章17節)。ミニストリーにおいて、これ以上に大切な態度はありません」。このような、主のためにするという姿勢、新しいぶどう酒を喜ぶという態度から新しい皮袋が生まれるのであろう。もし、主のためにということを忘れ、タバコを捨てた相手に対して苦々しい態度でいるだけなら、それはパリサイ人の側に立ってしまう。このレビのパーティでは、元祖タバコを捨てた人のような人たちが幾人もいたはずである。だが、イエスさまと弟子たちは、「うう~っ、汚らわしい、だらしない、こいつらいやだ」と苦虫を嚙み潰したような顔で接した様子はない。彼らを受け入れるオープンな心があり、喜んで新しいぶどう酒をふるまおうとした。そのスタイルが新しい皮袋であった。以上から、新しい皮袋とは、ただ単に新しい形のことでないことはわかっていただけたかと思う。それは新しいぶどう酒のためのものであり、主イエス・キリストのためにということであり、福音を提供するためである。

最後の39節は、ルカ独特のみことばである。「まただれも、古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物が良い』と言います」。つまり、これは、パリサイ人たちにとって、キリストの福音はまずくて飲めない、ということが言われている。やっぱり伝統的なパリサイ的ユダヤ教の教えが一番美味しいと。キリストの福音はまずくて飲めないというなら、砂糖を入れて甘くしましょうとか、炭酸を入れて刺激的にしましょうとか、そういうことではない。味のわかる人にとっては、これほど美味しいものはない。嫌う人も多いが、私たちは味がわかってもらう努力を、新しい皮袋を用意しながらするわけである。その大前提として、私たちがまず、キリストとその福音という新しいぶどう酒を最高に気に入り、喜び、味わい続けたいのである。すべては、そこから始まる。その上で、新しいぶどう酒をふるまうために新しい皮袋を用意するのである。