今日は主イエスの人間観を学びたい。場面は、「レビ」という男性を主イエスが弟子として召した場面である。マタイ9章9節に取税人マタイの召しの物語が記されており、内容がほぼ同じであるところから、この人物はマタイであるとされている。ユダヤ人は二つの名前を持つことは珍しくなかったので、マタイで間違いないだろう。
職業が「取税人」であるということが、今日の物語の一つのポイントである。取税人を弟子とするというのは、とんでもないことであったことを知っていただきたいと思う。先に主イエスはペテロやヨハネ、ヤコブを召している。彼らの職業は漁師であった。宗教界のエリートでも何でもない。主イエスの弟子には、祭司もユダヤ教の教師も一人もいない。まず主イエスは、一塊の労働者たちを召した。これ自体驚くべきことなのに、取税人の召しはあり得ないと言っていいくらいの召しだった。取税人については、3章12節で少し触れた。取税人はローマ帝国の役人の代理人として税金を取り立てた。ローマはユダヤ人にとってイスラエルを支配する敵国である。そのローマ政府の手先となって同国人から税金を徴収する彼らは、完全な嫌われ者であった。彼らは、既定の税額に上乗せして税金を徴収し、差額をポケットに入れるというあくどいこともしていた。中には誠実な取税人もいただろう。しかしながら、取税人という職種自体が問題とされた。彼らがどれだけ嫌われ憎まれていたのか、簡単に紹介すると、ユダヤ教のミシュナー、タルムードという文書では、彼らは強盗や殺人者と一緒にされている。取税人の家族にまでその恥辱は及び、彼らはユダヤ人社会のコミュニティの場である会堂から締め出され、裁判では証人の資格すらはく奪された。取税人イコール「汚れ」と位置づけられ、異邦人同様にみなされた。ユダヤ人は取税人からお金や施物を受け取ることさえ禁じられた。彼らが集めたお金は盗んだものに等しいと判断されたからである。取税人は、このようにユダヤ人社会から疎外され、罪深い者とされ、ひどく嫌われ憎まれいただけではなく、神の厳しいさばきにしか値しないと決めつけられていた。人間として最低ランクに位置づけられていたのである。主イエスはその取税人を弟子として召した。これは驚くべきことなのである。
レビが召された収税所はカペナウムにあった。彼はそこに運ばれてくる商品に課税していたと思われる。カペナウムは主イエスの活動の拠点であった。ここを現住所のようにして、ここを本拠地にしてガリラヤ伝道を展開していた。だから、レビはこの時、主イエスのうわさを聞いていないはずはない。通行人からも聞いただろう。仕事相手や仲間からも情報は入っていただろう。それに、レビ自身、主イエスのメッセージを直接耳にした可能性も大である。イエスさまはレビが入れない会堂だけではなく、屋外でもメッセージされていたわけだから。レビはイエスさまという人物は、ユダヤ教の教師たちと全く違うことを直感していただろう。当時の律法の教師にはヒレル派、シャンマイ派といった学派があったが、どちらの学派も取税人に対して厳しい目しか向けていない。レビは、イエスさまに温かさを感じていただろうし、それだけではなく、主イエスの権威あるメッセージ、そして権威あるみわざから、このお方は自分の人生をも変えてくれるメシアなのではという期待観を持っていたはずである。
そんな折、イエスさまが通りかかった。そして「目を留められた」(27節前半)。これは目に入ったということではない。意図的な視線である。そして、それは権威ある愛のまなざしであった。今までレビは、同国人から蔑みの目で見られ、冷たい視線を浴びせかけられ、無視されることも限りなかっただろう。そのような彼に、これまで経験しえなかったまなざしが向けられた。愛のまなざしである。レビはこれまで周囲の人々に蔑視されていたというだけでなく、自分でも自分のことを良く見ることができなかったはずである。自分の罪深さということを自覚していただろうから。だから、主イエスのまなざしは特別なまなざしとして瞬時に感じられたはずである。
続いて主イエスは短く声をかけられる。「わたしについて来なさい」(27節後半)。レビの身になってみれば、それは嬉しい一言であったはずである。弟子としてスカウトということならば、検討違いもいいところの声掛けと思われてもしかたがないのだが、レビにその声がかかった。彼はこの時、収税所に座っていたわけだが、もし主イエスから声がかからなかったら、今の現状に座り込んで、いつまでも座り込んで、何とも言えない沈んだ気分で、これが俺の人生だと暗やみの一生を送って行っただろう。
「するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)。「すべてを捨てて」と言われているが、いわば彼は、過去の自分の生き方を捨て、古い自分を捨てて、イエスに従ったのである。彼の全生活が新しい方向に向かった。彼の場合、取税人であることもやめただろう。「すべてを捨てて」とは、無一文になるとか、全部をゴミ箱に捨てるとか、そういうことではない。そうであったなら、29節にあるように、レビは主イエスのために「盛大なもてなし」などできない。「すべてを捨てて」とは、これまでの生き方、これまで大切にしてきたもの、築いてきた財も含めて、そうしたものにしがみつかず、それらをすべて主イエス・キリストに従属させてしまうことである。人生全てが主イエスの望むままに、である。人によっては仕事を変えなければならないし、何かをあきらめなければならなくなるし、自分の楽しみのためだけにお金を使うなどということも無くなる。主イエスを中心とした人生設計となる。主イエスを中心とした毎日の生活となる。「イエスに従った」の「従った」という動詞は、一回限りの瞬間の動きを意味する文体になっておらず、持続する動きを表している。主イエスに従うということが毎日の事柄となった。事実、レビは、この時以来、イエスに従い通すことになる。
このレビの、すべてを捨てて立ち上がって従った姿は、条件つけず、無条件に従う姿であったことも覚えておきたい。「わかりました。でも従うには条件が一つあります」ではなかった。「どこに行くのですか。何をするのですか。それがわかれば従います」、そういうことではなかった。無条件に従ったのである。彼はいやいやながら、強制されて従ったのでもない。彼はただ単純に、主イエスについて行きたくなった。後のことは二の次、三の次で、取るに足らないことになった。
レビは主イエスに召され、本当に嬉しかったのだろう。その証として主イエスのために盛大な宴会を開く。「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた」(29節)。ここからわかるように、レビは、イエスさまのためだけでなく、イエスさまを仲間や他の人たちに紹介するために宴会を開いた。これ以来、レビに倣いましょう、ということで、イエスさまを紹介するパーティ、食事会、家庭集会、そうしたことが世々にわたって行われてきた。現代ではファミレス等でも行われているだろう。
さて、レビが宴会に招いた人々はどういう人たちであっただろうか。30節を見ると、「取税人たちや罪人たち」と言われている。取税人については先ほど説明させていただいた。では「罪人たち」と言われるのはどういう人たちだろうか。「義人はいない、一人もいない」で、すべての人は罪人であるが、ここでの「罪人たち」とは、別の意味である。ユダヤ教のミシュナーには、罪人たちには、ギャンブラー、金貸し、鳩レースに興じる人々、羊飼いたち、そして収税人が挙げられている。これは罪人たちの一例である。今述べた人々は、明確な犯罪人ではない。罪人たちとは、律法学者たちが教えている生活規範、規則、そうしたことに無知であったり、それに従わない人たちのことである。彼らは軽蔑の対象となった。
そして、30節で彼らを軽蔑する人たちが登場している。「パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たち」。前回お話したように、律法学者たちのほとんどはパリサイ人(派)に属する。「パリサイ」ということばは、「分離する、区別する」ということばから生じたのではないかと言われている。彼らはぐうたらな人々から自分を取り分け、分離し、純粋さを保とうとした。取税人や罪人たちと言われる輩から自分たちを切り離す生き方をした。それが聖さを保つことであると。パリサイ人は、取税人や罪人たち、また病人たちも罪深いので救われない、神は救わないと信じていた。救われるのは、パリサイ主義に立ち、汚れから分離して聖さを保つ私たち義人なのだと。パリサイ人は人間を大きく三種類に分けた。第一は、自分たちのように律法を厳格に守って生きている「義人」、第二は、パリサイ人のように厳格に律法を守ることが難しく、いつでも汚れる可能性があるが、それでも神の民と言い得る「地の民」(アム・ハ・アレツ)。主に下層階級に属する民衆で、彼らもパリサイ人から見下されていた。第三は、絶対に神の国入れない「罪人」。レビの宴会に招かれていた人たちである。取税人や不道徳な生活を送る者、雇われ羊飼いなどがこの部類に入る。パリサイ人が「罪人」に分類される人々とつきあうことは絶対にありえない。「罪人」に分類される人々は絶対に神の国に入れない人たちということで、隣人ともみなしてもらえなかった。だから、それは愛する対象ではなかった。「汚れ」として避けるだけの対象である。パリサイ人はこうして俗世間の人々と距離を置いてしまい、つきあいは避ける一方で、肝心の分離しなければならない罪に対しては鈍麻な人々で、内側はどす黒かった。
彼らは主イエスと弟子たちを批判する。「なぜあなたがたは、取税人たちや罪人たちと一緒に食べたり飲んだりするのですか」(30節)。汚れている輩とつきあうあなたがたは最低だ、あなたがたも汚れていると言わんばかりに。古代世界においては、一緒に食事をするというのは親しい交わりを意味し、相手を受容することを意味した。主イエスは罪を受容したことはない。けれども、罪人たちを受容している。主イエスは、取税人、罪人と言われる人たちから自分を分離してしまうことなく、むしろ近づき、接近し、受容し、交わり、罪からの救いという彼らの真の必要に応えようとしている。
「そこでイエスは彼らに答えられた。『医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です』」(31節)。主イエスはご自身を医者にたとえられている。病人を治そうとしたら、病人に近づかなければならないだろう。パリサイ人たちがやっていることは、「診察室に入るな。うつるといけないから。外に立っていなさい」である。取税人や罪人たちは病人にたとえられている。彼らはいわば、自分は病気であるという自覚症状がある。パリサイ人たちは罪の自覚があるのかないのかわからない人たちである。続く32節は、パリサイ人たちへの皮肉も込められているようである。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためにではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(32節)。パリサイ人たちは、自分たちこそが義人、すなわち正しい人であると自称していた。だが、主イエスが招こうしていたのは、このような人たちではなく、自分の罪を認めている人々である。主イエスはたましいの医者であり、自分の罪を自覚している人々に近づく。自分の罪を自覚している人々もまた、治してほしくて主イエスに近づく。
主イエスは罪の自覚症状がある者たちを招く目的は「悔い改めさせるためです」と言われている。「悔い改め」は、ルカの福音書の主要なテーマの一つで、悔い改めについては3章で学んだ。これからも度々登場する表現である。悔い改める目的は、今日の文脈で表現すると、たましいのいやしを受けるためである。キリストによる救いを受けるためである。取税人や罪人たちは、主イエスをクリニックの院長とするテーブルに着いている。彼らはただ単に主イエスと食事の交わりを楽しんだだけではなく、主イエスからいやしのことばを受けただろう。レビも、自分はこれまでみじめな罪人にすぎず、空しさのうちにあったけれども、これから主イエスと新しい生活に入ることは喜びだと証しただろう。取税人や罪人たちは、ユダヤ社会では汚れとされ、ごみ扱いにされ、また自分で自分のことを人間の屑と思ったりしていたと思うが、主イエスに受容され、罪赦される道があることを知り、これまで味わえなかった有意義な時を送ったはずである。救いを受けたのはレビだけでなく、他の取税人や罪人たちと言われる人の中からも、救いを受ける人たちが起こされていっただろう。
主イエスが人の姿を取り誕生した時、御使いたちは、「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように」(2章14節)と賛美したが、主の平和、すなわち主の救いに招かれ、主の救いに与った人々には、蔑まれていた羊飼いたちや、生きている死人とされていたツァラアトに冒された人や、他の重病人や、今日の登場人物たちである取税人その他の罪人たちと言われる人たちが入っていたのである。反対に、自分たちは正しく、自分たちこそが救いに値すると自負していたパリサイ人たちは、救いから遠かったのである。
私たちはパリサイ人の人間観に倣うのか、それともキリストの人間観に倣うのか。私たちは、取税人レビ(マタイ)に愛のまなざしを向け、罪人たちと言われる人たちとも交わり、悔い改めと救いに導いた主イエスの人間観を心に染み渡らせたいと思う。

