1節に「人の知恵はその人の顔を輝かし」とある。よく「人は40歳をすぎたら、自分の顔の責任を取らなければならない」と言われる。ところで、「顔の責任」とは何だろうか。親に責任を取ってもらいたいなどと言わないでください。「顔の責任」とは、自らの人格形成の責任ということであろう。この場合の顔とは、鼻が低いとか高いということではなくて、心の鏡としての顔ということである。内なる人の特性というか表情が顔に表れる。心が沈んでいれば顔は曇る。イライラしていれば険しい表情となる。
 こんな話がある。イタリヤで一人の画家がイエス・キリストと十ニ弟子を描くことを決め、まず、イエス・キリストから始めることにした。そこで彼は、イエス・キリストのモデルを探した。ある日、彼は、教会の聖歌隊の中に、天使のように純真で輝く顔の少年を見つけ、この少年をモデルにイエス・キリストの絵を完成した。そして次々にモデルを探しては弟子たちを描き、最後に、あのイエス・キリストを裏切った、裏切り者のユダを描く頃には、20年以上が経過していた。ユダのイメージは狡猾、陰険。画家は毎日街に出て、狡猾、陰険なユダのモデルを探したが、中々見つからない。ようやくのこと、路地裏で、これ以上卑しい顔はいないという人を見つけ、アトリエに来てもらった。すると、この男は画家にこう言った。「わたしのことを覚えているかい。わたしはかつて、イエス様のモデルとなった男です」。これはとても厳粛な話である。
 さて、人の顔を輝かせ、いい顔にするという本物の知恵とは何であろうか。それは、以前学んだ「神を恐れる」ということである。「神を恐れる」という表現は伝道者の書で繰り返し登場する。この伝道者の書のメッセージを一言で要約するならば「神を恐れよ」となる。伝道者の書の著書はソロモン王であるが、彼は箴言9章9節で「主を恐れることは知恵の初め」と述べている。
 明らかに顔の輝きは神との関係に左右されるものである。世界最初の人間創造のストーリーが創世記にある。神はアダムとエバと呼ばれる最初の男女を造られた。この人間の先祖たちは、神と顔と顔とを合わせて交わっていた。ところが二人が罪を犯した時、神の顔をまともに見ることができなくなった。「人とその妻は主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)とある。罪を犯すと相手の顔をまともに見られなくなるというが、それは真実である。「顔向けできない」ということばが日本にある。恥ずかしくて相手の顔を見れないという意味である。神は罪を悔い改めない人間に対してこう語っている。「彼らはわたしに背を向けて、顔を向けなかった」(エレミヤ2:27)。太陽に顔を向ければ顔は輝く。しかし太陽に背を向ければ顔は陰る。同じように、神に顔を向けなかったならば、喜びや平安は消え失せ、自然に顔は陰り、固くなるであろう。神を信じる前の人たちの証を聞くと、「わたし暗かったの」というものが圧倒的に多い。太陽に背を向け、自分の影を踏むような人生。けれども、そのような中から180度方向転換して、太陽を見上げるようにして神の御顔を仰ぎ見、神と交わりを回復することによって、その人の顔は輝いてくる。それは、その人の性格から出る自然な輝きとも違う不思議な輝きである。神の臨在とその性質がもたらす輝きである。詩編27編8節では、神の呼びかけとして「わたしの顔を慕い求めよ」とあり、その応答として、「主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」とある。このように書いたのは、ソロモンの父ダビデである。またモーセは顔と顔とを合わせて神と交わったと言われる特段に神との交わりが深かった人で、人々が近づけないほどに顔の肌が光を放っていたと言われている。「アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった」(出エジプト34:30)。
 私が信仰をもった教会は、ドイツの宣教団であるリーベンゼラ・ミッションが開拓した教会である。このミッションの先生にプフラウム先生がいる。この先生は、ある会合で初めて会ったご老人の気品に圧倒されてしまい、会合の後、その老人に話しかけ、その気品の秘密を探ろうとしたそうである。それで解ったことは、その老人は、ドイツのヴィッテンベルグ州の最後の王に仕えていた家令であったということである。この老人は王宮に住み、いつも王と顔と顔とを合わせて生活する中で、気品が身に着いていったというわけである。
 顔の輝きということに関して、神を恐れるということとともに忘れてならないのは、みことばを悟るということである。顔の陰りはみことばによって変えられ、顔の表情の固さ、粗野は、みことばの学びと健全な理解によって変えられる。みことばの光が差し込むと、暗さは消え、固さは和らげられる。明らかに1節はそうしたことが暗示されている。ルカ24章では、エマオの途上の暗い顔つきの弟子たちのストーリーがある。彼らはイエス様は死んだままであると思って希望を失っていた。「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとわからなかった。イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。』すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった」(ルカ24:16~17)。彼らはなぜ暗い顔つきでいたのだろうか?彼らの最大の問題は、救い主に関するみことばを信じていないことにあった。だから、よみがえられたイエス様にこう叱責される。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」(同24:25)。みことばの真実を信じていないと、目の前の状況に絡み取られるばかりで、喜びも希望も生まれない。ヘブル人への手紙、ローマ人への手紙を見てもそうだが、手紙の受取人たちは、信仰生活がつらく感じて足元ばかりに目をやるようになり、みことばを通して約束されている栄光の御国を見上げる姿勢が弱り、またイエス様からも目を離しがちだった。だから私たちはみことばを通して喜びを回復して、そのみことばを握って生きることが大切なのである。