前回は4章1~8節までから、主イエスが受けた二つの誘惑を学んだ。今日は三つ目の誘惑である。この誘惑では「ここから下に身を投げなさい」(9節)と声がかかったが、新改訳第三版では「ここから飛び降りなさい」と訳されていた。私が小学生の時、自宅で階段から飛び降りて、足を怪我して、祖母に連れられて病院通いしたことを覚えている。数年前、姉貴がこの階段飛び降り事件の真相を笑みを浮かべながら話してくれた。飛び降りなさいと命じたのは私だと。そうだったのか~。私は全然記憶がなかった。覚えているのは飛び降りたことと、足を打ちつけた時の激しい痛みだけである。それと、こんなバカなことをするんじゃなかったという後悔の念である。今日を見る誘惑は、そんな笑い話では済まされないレベルの誘惑である。

最初の誘惑は空腹という一番の弱さをついた誘惑だった。基本的欲求をついてきた。二番目は世と世にあるものを手にすることができるという誘惑。私たちにとっては、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢を刺激するような誘惑である。けれども、キリストはこれら二つの誘惑に打ち勝つ。悪魔は、主イエスが欲望をあぶり出すような誘惑には動じないとわかると、切り口を変える。しかし、今日見る三番目の誘惑は、戦法は変わっても、9節にあるように、「あなたが神の子なら」と神の子という立場を意識させての誘惑であることに変わりはない。私たちも主イエスを信じて神の子とされている。だから、この誘惑も心に留めなければならない。

「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい』」(9節)。そんなことをしたら死んでしまう、と思ったら、実際、ここから落ちて死んだ人の記録が残っている。第二の誘惑で主イエスは悪魔を拝まなかったわけだが、悪魔は、俺様を拝まないのならば死んでもらおう、というところだろうか。実際、そうであったと思う。ところがそんな直截的なことは口にしない。神の守りということまで口にして欺いている。

「神殿の屋根の端(原語:翼)」とは、実際、どのあたりなのか特定はできないが、このあたりであろう、と言われている場所がある。エルサレム神殿は紀元70年に焼けてしまうわけだが、この神殿についてよく知っていた歴史家ヨセフスは、次のように述べている。「境内の西側の部分には門が四つある。そのうちの南に面した回廊に一つの門があって、その門の下はケデロンの谷という谷底」「そこの場所の下の谷は深くて、上から下を見下ろすことはできない。それから、その上に建っている回廊は、きわめて高い。だから、その屋根の上から下を見下ろすと、回廊の高さと渓谷の深さが二重になるため、めまいがして、だれも底まで見下ろせる人はいない」。だいたい、この屋根の上あたりだろうと思われる。そこからケデロンの谷まで45メートルの距離である。

悪魔は、「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい、飛び降りなさい」と勧めたわけだが、自分のことばの補強としてみことばを引用してきた。「神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」(10,11節)。このみことばの引用がこれまでの誘惑と違う点である。主イエスは最初の誘惑も二番目の誘惑も、みことばで退けた。ならば私もみことばを使ってやると、悪魔はこの三番目の誘惑において、みことばを使う戦法を取った。これならだませるだろうと。悪魔がみことばで誘惑するというのも常套手段である。異端の人たちの文書を読んでいると、みことばが次から次へと引用されている。しかし、よく見ると、聖書の文脈を無視した引用だったり、みことばの一部を変えたり、削ったりの引用だったり、実に巧妙である。また異端だけではなく、聖書を信じない学者たちの文章も危うい。聖書は誤りだらけだと言っておきながら、自分の主張を権威づけるために、適当なみことばを引用して、信じなさいと説得する。こうした誘惑は蔓延状態である。悪魔はみことばを誤ってではあるが引用することが得意である。いわばブランドをちらつかせて信じ込ませようとするような、この紋所が目に入らぬか~とやるような、最高の詐欺行為である。

この場面で悪魔が引用したみことばは、詩篇91編11,12節である。この詩篇は神信頼の詩篇である。それは出だしの1,2節を読むだけでわかる。「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神』と」。この詩篇は神に信頼する者は守られると告げている。11節では「主が あなたのために御使いたちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ」と、「すべての道で」、つまり、どんな生活場面でも、どんな人生場面でも、守られるというのである。このように守りが約束されているのだから、神は私を守ってくれるだろうか、今やってみようなどと、神を試す必要などない。それは不信頼の表明である。「神はいるのいないの?私を愛しているのいないの?守ってくれるのくれないの?目に見える証拠がほしい。しるしを求めてみよう、試してみよう」。この詩篇を正しく汲み取っているならば、そのようなふるまいに出ないだろう。神はこの詩篇全体を通して、数々の人生の試練や苦しみや悩みの時でも、ともにいて助け、守ると約束している。ところが悪魔はこの詩篇を、無謀な冒険へチャレンジさせるための誘いのことばにしてしまっている。自分の命を危険にさらして、神がどうされるか試してみよと。神の子であったなら守ってくれるはずだと。前回も学んだように、ほんとうの神の子は、私は神に愛されていると、神に信頼しきっている。神の愛を疑わない。神の愛を信じきっているならば、神が私を愛しているかどうか試してみようなどと、神を試すような行動に出ないだろう。神の愛はこれで証明されるはずだなどと、そのような行動には出ない。

この場合、悪魔は完全にみことばの前後の文脈を無視している。そうして、守るとか、石に打ち当たらないようにするとか、ことばの部分部分にだけ心を留めさせ、自分の悪意を遂げようとしている。今述べたように、詩篇91編は神信頼の詩篇である。信頼しているならば、神が守ってくれるかどうかを試すような無謀な行動には出ない。それは信頼と全く反対の行動である。詩篇91編は人生の厳しい局面にあっても守られることが言われているのであって、自分から危険を冒して、神が守ってくれるかどうか試してみなさいなどと、愚鈍なことは勧めていない。ほんとうの神の子は、苦難の中にあっても神の愛を疑わない。たとい死の陰の谷を歩くことがあっても神の愛を疑わない。3.11の地震の時、大きな被害にあった教会の牧師が、印象に残ることを語っていた。信徒の方々の自宅もそれぞれが大きな被害にあってしまい、信仰が揺るがないかと案じたとのことだったが、どの信徒たちも神さまに対する信頼を口と態度で表している様子を見て、感慨深かったとのことだった。

主イエスは悪魔の誘惑を、またしてもみことばで払いのけた。「するとイエスは答えられた。『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている」(12節)。「あなたの神である主を試みてはならない」、これぞ、神の子本来の姿勢である。このみことばは申命記6章16節である。「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない」。主を試みるということがどういうことかを知るために、マサでの試みを振り返ることはためになる。マサでの試みは出エジプト17章1~7節にある。そこを見ると、イスラエルの民たちは荒野で水不足に悩み、民はモーセに対して、「ここで俺たちを殺す気か」とつぶやいた。モーセは神の代理人なので、そのつぶやきは神に向けられたものであった。神を試みるとは、神信頼と反対のことである。神に信頼する者は厳しい局面に立たせられても信頼を失わない。ましてや、しるしを見せてくれなければ信頼しないなどと言わない。ビルのてっぺんから飛び降りることを試みて助けてくれなければ信頼しない、などとは言わない。そのような奇跡的保障を求めたりはしない。父なる神の愛を試すことはしないということである。たとい自分の願うような助けがなくとも、たとい死の床に伏せっても、神への信頼は失わない。そうでありたいと思う。

主イエスはみことばを引用して悪魔の誘惑を退けたわけだが、この引用は悪魔のそれとは違う。どう違うだろうか。悪魔は自分に都合のいいようにみことばを引用したが、主イエスの場合そうではない。悪魔のように、取って付けたような引用、自分の主張に都合の良い部分を切り取った引用というのではなく、みことばが主イエスのうちに根づいていて、それが口に上っているという印象である。みことばを自分の都合で使うというのではなく、みことばに生きようとする真剣な姿勢がそこにはある。みことばは主イエスにとっては生きる糧、悪魔にとっては道具である。商売道具である。私たちは悪魔のようにみことばをイジり、自分の都合の良いように使うのではなく、主イエスのようにみことばを尊び、それに生きようとする者たちでありたい。

三番目の誘惑の性質に戻るが、この飛び降りてみなさいという誘惑は、別の見方をすれば、あなたが偉大な神のひとり子、メシアであることを派手に宣伝しなさいという誘惑にもなっているかもしれない。神殿の頂から飛び降りて怪我一つしなかったら、人々は主イエスを偉大な神の子として崇めまつるだろう。スペクタクルでセンセーショナルな手段は自己宣伝にはもってこいである。だが主イエスは、それとは反対の十字架の道を歩んで行かれる。

以上、前回と今回で三つの誘惑を学んだ。視点を変えて力というキーワードでこれらの誘惑を見ると、最初の誘惑では、「石をパンに変えてしまえ」と、自分の力を使うように試みがあった。二番目の誘惑では、悪魔が「わたしがこれらをあげよう」と、悪魔が自分の力をちらつかせた。今日の三番目の誘惑では、「神が守ってくださるだろう」と、神の力を口にして欺こうとした。自分の力、悪魔、神。神が一番確かだろうと。このように見てきても、ありとあらゆる詭弁を使い、なんとか主イエスを打ち負かそうとしたことがわかる。そしてこれらの誘惑は、どれもこれも、あなたのためにというニュアンスがある誘惑である。あなたの空腹がおさまるぞ。世の権勢と栄華を手にできるぞ。神の奇跡的守りを体験できるぞ。あなたのためを思って言っているんだ。やってごらん。きっとうまく行く。だが悪魔は、主イエスをはじめとする神の子たちのことなど、これっぽちも愛してはおらず、むしろ残酷でしかない。神の子に対しては、神から引き離すこと、自分の奴隷にすること、滅びに引きずり込むこと、それしか考えていない。悪魔は愛のかけらもない。私たちの欲望に応えようとするが、私たちの幸せはこれっぽっちも考えていない。無慈悲な黒い神である。こうして、人は欺かれてしまうのである。

13節をご覧ください。「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた」。「あらゆる」とは原語で「すべての」ということばである。悪魔はあの手この手と、やれることはすべてやって、手を尽くしたということである。ひと昔前の新改訳第三版では「誘惑の手を尽くしたあとで」と訳している。やり切ったのである。荒野の誘惑の記事は具体的に三つの試みが記されているわけだが、ユダヤ人の世界では「3」という数字は、完全性、全体性、究極性、そういったことの象徴なのである。悪魔の誘惑はパーフェクトな試みだったのである。三つの試みの記事のあとに、「すべての試みを終える」という文章は意味深で、悪魔は主イエスを攻撃する武器をすべて使い切った、使い果たした、という印象を受ける。実際そうであった。しかし、主イエスはどんな攻撃を受けても、誘惑に負けなかった。最初の神の子のアダムは一回の食べ物の誘惑で負けてしまった。しかし第二のアダムと言われる神の子、主イエスは、断食の後の空腹という厳しい状況にあって、手を変え品を変えと、ありとあらゆる誘惑を受けたにもかかわらず、負けなかった。悪魔が知恵を絞って手を尽くして誘惑してきたにもかかわらず負けなかった。すべての試みに打ち勝たれた。熾烈な戦いがそこにあったわけであるが、勝利された。総体的に完全、完璧とも言える誘惑であったにもかかわらず、一部の隙も与えず、勝利された。悪魔は一旦手を引き、体制を整えて、またあとで攻撃してくるわけであるが、主イエスはこのようにすべての試みを経験し、すべてに勝利されたあとに、御霊の力を帯びられて、公に救い主としての生涯をスタートされることになる。救い主として世に出て行く準備は万事整ったというところである。

私たちはそれぞれが、荒野の誘惑の記事から学ぶことができたと思う。私たちにも誘惑が来る。悪魔は私たちを神から引き離そうとする。そのためであったら、ありとあらゆる手段を使う。欲望を満たしてあげたり、有頂天にさせたり、とにかくなんでもする。しかし私たちは、それを自分の願いがかなえられる絶好のチャンスと思ってしまうのではなく、狡猾な敵による誘惑だと自覚しなければならない。また悪魔はトラブルや災いを用い、私たちを絶望の淵に落とし込み、神に背を向けさせようとするかもしれない。また、悪魔は神の守りを口にしたり、みことばさえ用いてくる。できることは何でもするという印象である。悪魔は自分の時が短いことを知って、私たちを道連れにして、滅びに引きずりこもうとしている。そのためだったら何でもする。

それがどのような誘惑の種類であっても、打ち勝つ秘訣は同じである。先ずは、自分が神に愛されている神の子であることをしっかりと自覚することである(3章22節)。これが絶対的に必要である。これが大前提である。その上で、霊的戦いの武器を用いることである。それは二つある。1,14節には「聖霊」「御霊」ということが記されている。御霊はどのように働くのだろうか。主イエスはこの時、断食祈祷をしていたわけであるが、祈りのうちに御霊は働き、誘惑に抗する力を強めてくれる。これは、ふつうのクリスチャンであれば体験済みであろう。祈りのない時は、コロッと誘惑に負けてしまいやすいものである。祈りがないと、神に拠り頼む思いも、神を恐れる思いも吹き飛び、肉の思いに押し切られるのである。お腹の空いた狼のように、はたまた子どもを産んで気が荒くなっている狼のようになってしまい、適切な判断力も自制心も失ってしまうのである。パウロは「どんなときにも御霊によって祈りなさい」(エペソ6章18節)と教えている。また、御霊はみことばとともに働く。聖書はみことば自体が御霊のことばであることを教えている。主イエスは三つの誘惑ともすべてみことばで打ち勝たれたわけである。みことばによって、うそ偽りを見抜いた。誘惑にNOと言えた。私たちも同じことをしていくのである。パウロは、「御霊の与える剣である神のことばを受け取りなさい」(エペソ6章17節)と教えている。主イエスは悪魔の誘惑に対して、間髪入れずにみことばの剣を抜いた。ここが凡人と違うところである。これは神の子たちの模範である。ある先生が言っていたが、「日曜日に礼拝をささげても、普段の日の生活判断は、みことばではなく世の判断基準でやっているクリスチャンが多い」。自戒したいところである。

さらに誘惑に関して覚えておきたいことは、私たちの救い主は、私たちと同じ肉のからだを持ち、先ほど見たように、すべての試み、あらゆる誘惑というものを体験されたということである。主イエスが知らない誘惑はない。であるならば、主イエスは、私たちの弱さに同情し、御霊を通して必要な助けを与えることが必ずおできになるはずある。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです」(へブル4章15節)。私たちは、荒野の誘惑をはじめ、数々の誘惑に打ち勝たれた主に拠り頼むことができる幸いがある。こんなに心強いことはない。一度誘惑に負けたといっても、あきらめる必要はない。赦しをいただき、誘惑に打ち勝つ秘訣を実体験で学びとっていくことができる。こうして私たちは、神の子として成長していくのである。