本日はマタイ、マルコ、ルカの三福音書に記されている有名な荒野の誘惑の物語である。印象的な物語であるが、一つのドラマを観る感覚で終わってしまい、また、これは主イエスに対しての独特な誘惑であって自分とは関係がない、で終わってしまうことが多いのではないだろうか。そこで、主イエスが受けた誘惑の世界に自分たちを没入させることを忘れないで、荒野の誘惑を見ていきたいと思う。

主イエスは公けの活動を始める前に、御霊に導かれて荒野に入った。そこで悪魔の誘惑を受けられた。荒野で思い起こすのは、エジプトを出たイスラエルの民が荒野の40年間の旅路において、神に逆らい、神を試み、罪を犯し続けたことである。主に、食べ物、飲み物のことで神に信頼し切れず、つぶやき、誘惑に負け、罪を犯した。主イエスも荒野で、食べ物のことで誘惑を受けることになる。

今日の記事は、主イエスの行動としては、ヨルダン川でのバプテスマの後の記事である(3章21.22節)。主イエスがバプテスマを受けられた時、天から、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という声がかかった。主イエスは私たち神の子たちの代表である。そして、「あなたが神の子なら」と誘惑を受けることになる。

神の子というとき、世界最初の神の子は、前回、主イエスの系図で学んだアダムである(3章38節)。アダムはエデンの園で罪を犯し、こうして全人類が罪人となった。主イエスはこのアダムと比較され、新約聖書において、最後のアダム、第二のアダムとして描かれている(第一コリント15章45節、他)。最後のアダムである主イエスは最初のアダムと違って悪魔の誘惑に打ち勝つ。このことによって全人類を罪から救う資格があることを証明する。最初のアダムが受けた誘惑は、食べ物に関してであったが、最後のアダムである主イエスが受けた誘惑も、最初は食べ物に関してであった。しかし、同じ食べ物の誘惑でも、主イエスのほうがきつかった。なぜならば、主イエスの場合、空腹であったからである。にもかかわらず、誘惑に打ち勝った。続いて別の手段で誘惑が繰り返されることになるが、悪魔の試みは失敗に帰することになる。

荒野の誘惑の物語は二週にわたって学んでいく。今日は、荒野の誘惑の三つのうち二つを見るが、私たちも神の子とされた者たちとして、主イエスにならって誘惑に打ち勝つのだという視座に立って見ていこう。

第一の誘惑は1~4節までである。主イエスは荒野で四十日間の断食祈祷をされたようである。この期間が悪魔の誘惑の期間となった。第一の誘惑は、もっとも負けやすいと思えるものだった。断食の弱さをついた。主イエスは空腹になっていた(2節)。悪魔は、その人のその時の状況で一番弱いと思える欲求、欲望というものをついてくるだろう。人間の基本的欲求には、食べ物や飲み物の欲求、性的欲求、快適な生活を求める欲求、人に認められたいという欲求などがある。悪魔はそこをつく。悪魔はこれまで、皆さんの欲求、欲望、その弱さに対して、どんな誘惑を仕掛けてきただろうか。

「もののけ」という歴史小説がある。もののけは妖怪であるが、姫の姿で峠に現れ、巧みに人を誘惑し死に至らしめる。もののけの退治に四人の検非違使が向かった。もののけは相手がひとりでないと現れないというので、彼らはひとりずつ順番にもののけが現れる場所に向かう。彼らは勇猛果敢に見えてそれぞれに弱点がある。一人目は食べ物に弱い。二人目は女に弱い。三人目は酒に弱い。もののけは彼らの弱さに付け込み、接待し、彼らの欲望を十分に満足させて、死に至らしめてしまう。彼らは誘惑に負けたにもかかわらず、微笑を浮かべ、これで本望だと言って死んでいった。彼らの死を聞いて、四人目の検非違使は考えた。自分の弱さは何だろうかと。それは出世欲だ。彼はその弱さを認め、また俺だけは大丈夫だなどといううぬぼれはいけないと身を戒めて、もののけを退治する。悪魔は弱さをついてくる。今の皆さんの弱さは何だろうか。主イエスのこの時の一番の弱さは食べ物に関してであった。お腹が空いていた。悪魔はそこをついた。この場合、断食による主イエスの空腹を覚えれば、誘惑の手順としては順当な誘惑が来たことがわかる。悪魔は一番引っかかりやすいと思える誘惑を最初に選択したことになる。

最初の誘惑において、悪魔は目の前にあるものを誘惑に用いた(3節)。荒野には丸い石灰岩の石が散らばっていた。パンを想起させる石である。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい」。イエスさまはその丸石をパンに変えてしまうことができる。できるからこそ誘惑になっている。にもかかわらず、誘惑に乗らなかった。私たちにもできることで誘惑が来ると言えるだろう。お金を使えば願望をかなえることができる。電話をして手に入れることができる。機器を操作して手に入れることができる。手を伸ばし取ることができる、足を運んで手に入れることができる。それが罪になるかもしれないという考えがよぎっても、イメージした欲望に押し切られることになる。頭がいい人、知能指数が高い人が誘惑に勝てるかというと、そういう保障は全くない。制止のきかない欲望に引っ張られて、知性、感情、意志を総動員させて目的を遂げようとすることはざらにある。まさに本望を遂げたいと。

このパンの誘惑で、石をパンに変えるというしるしを行えばユダヤ人はあなたをメシアと認めるだろう、という誘惑を受けたとか、石ころをパンに変えて大量生産すれば世界は幸せになるからやってみよ、そういう種類の誘惑を受けたとか言われることがあるが、このルカの文脈では、主イエス個人の空腹の試みである。3節の原文は、「あなたが神の子なら、この石に一つのパンになるように命じなさい」となっている。空腹という個人的弱さをついている。丸石を使って刺激して、自分の食欲を満たすためならがまんなどしないで、あなたの力を使いないさいと、自分勝手な行動に誘おうとした。父なる神のみこころがどこにあるのかということは関係なく、自分勝手に、短絡的に、安易で安直な方法で、強引に欲望を満たすように謀った。

主イエスの場合、公生涯において、確かにメシアとしての力を行使することがあった。有名なところでは、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人を養った五千人の給食の奇跡がある。しかし、主イエスは一度足りとも、自分の欲望を満たすために、また自分を危害から救うために、その力を発揮されることはなかった。とりわけ十字架刑の時はそうであった。「神殿を壊して三日で建てる人よ。もしおまえが神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。・・・彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイ27章40~43節)。このようにけしかけられた時でも、みこころに服従して、十字架の死を全うされた。

悪魔はこの時も、「あなたが神の子なら」と言っていることに注意を払おう。「もし神の子だったら」という仮定文ではなく、「あなたは神の子なのだから」という事実に基づいて訴えている。神の子なのだからできるだろう、神の子なのだからやってもいいだろう、という誘惑。悪魔は「神の子」という意味を受取違いさせようとする。神の子は、わがままに育てられた金持ちの貴族のお嬢様、お坊ちゃまのように、何でも好きなようにふるまえるのではない。そこまでは思っていなくとも、ちょっとでも自分に都合よく解釈して、自分の意を遂げようとすることがある。それはただ、自己中心、自己満足の世界を生きようとしているだけのことである。では、真っ当な神の子とはどういうものだろうか。真っ当な神の子は何よりも神の愛を信頼しきっているだろう。神の愛を信頼しきっているなら、我欲を優先して無理な行動に出ることはしないだろう。そして、まことの神の子には神への恐れが植え付けられている。それが欲望に突き動かされて動いてしまうことを制止し、その欲望を冷めさせ、服従する立場を取らせる。

主イエスがこの時、悪魔の誘惑をはねのけた返答は次のとおりである。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」(4節)。これは旧約聖書の申命記8章3節の引用である。平行記事のマタイの福音書では、「人はパンだけで生きるのではない」に続いて、「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」も引用している(マタイ4章4節)。だが、なぜかルカは、この後半の「神の口から出る一つ一つのことばで生きる」を省いている。ルカの強調は、おそらくは、人はパンだけで生きるような、パンだけが生きがいのような、パンだけがすべてであるかのような、パンさえあれば幸せだといった、そういう人生観に釘を刺すことにあるのではないかと思う。この現代になっても、パンのためなら人殺しも辞さないといった話が聞こえてくる。確かにパンという糧は地上で生きるには欠かせない。欠かせないにもかかわらず、現代、食料生産は落ちている。給料は上がらない。物価は高騰する。私たちは文字通りの荒野に置かれているわけではないが、パンだけに執着したくなる時代に入ったのかもしれない。だからこそ、ここからが神の子の本領発揮である。ポイントは、神の子とはどういうものなのかを理解するということである。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」(3章22節)。神の子は神に愛されている。それをよくよく考えるならば、パンだけに執着して、パンを第一にして、前後の見境を忘れて、小手先の手段に出ることはない。天の父なる神に信頼と服従を表すのが神の子である。

いにしえの時代、食べ物のことで神に信頼できず、神は私たちをこの荒野で殺す気かとわめいたイスラエルの民たちは、私たちの反面教師となっている。彼らは初め、食べ物の乏しさからこうつぶやいた。「あなたがた(モーセとアロン)は、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている」(出エジプト16章3節)。飲み水が乏しくなると、こうつぶやいた。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を渇きで死なせるのか」(出エジプト17章2節)。飢え死にさせようとしている、渇きで死なせようとしている、これが彼らの切り口上だった。繰り返そう。私たちは神の子とされている。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」と言われる存在とされている。それが神の子である。神の子として、神の愛を信頼しきっているなら、先のような不信に満ちた発言は生まれないはずである。

私たちは様々な欲望にかられる時こそ、心静めて、天の父なる神を仰ぐのである。神が私たちを養い、正しく生かしてくださるのである。詩篇50編11節には、「わたしは山の鳥も残らず知っている」という神さまのことばがあるが、それならばなおさら、神さまは神の子たちのことを忘れるはずはなく、気づかってくださるはずである。その神さまに、神の子どもとして、信仰をもって向き合っていきたい。一時の感情で後先見えなくなり、ひとりっ走りしないように気をつけたい。先ずは「あなたはわたしの愛する子」という御声をしっかり聞いて、日々、神さまとともに歩んでいただきたい。

次に、第二の誘惑を見よう。5~8節である。悪魔は主イエスを世界の国々が見える高いところに連れて行った(5節)。そして、こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから」(6節)。第二の誘惑も最初の誘惑同様、目に訴えている。それはパンを想起させる丸石ではない。もっと強烈で刺激的でダイレクトな映像である。目に飛び込んできたのはこの世の権勢、栄華である。パン一個の映像どころではない。悪魔は、最初の誘惑より、もっと強い刺激でイエスを打ち負かそうという狙いである。ナルホドという戦略である。

ここで意外な事実が言われている。それは「私に任されていて」ということばである。この世が悪魔に任されているというのである。「任されている」ということばは「引き渡されている」という意味を持つことばである。この世は悪魔に引き渡されている。この世は悪魔の支配下にある。この真理については使徒ヨハネが何度も語っている。悪魔は「この世を支配する者」と繰り返し言われている。「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを私たちは知っています」(第一ヨハネ5章19節)(参照:ヨハネ12章31、14章30節、16章11節)。旧約聖書を見ても、悪魔がこの世を支配する者であることが暗示されている。ヨブ記1章7節では、悪魔が地を巡回していることが記されている。ダニエル書10章では、悪の御使いがペルシアやギリシアといった強国を支配していることが記されている。もちろん、神の主権の中で、一時、こうしたことが許されているだけである。

悪魔が提供してきた「国々の権力と栄光」は、やがて御子イエス・キリストに服することになる。それは御国の完成の時である。それは聖書においてはっきり啓示されている。特に、旧約の預言書や黙示録において啓示されている。終わりの日にキリストは再び来臨され、神に敵対するこの世界は裁きを受け、万物は刷新され、すべては御子の支配のもとに置かれる。それは、もはや罪や災いや死もない世界である。それは新しい天と地である(黙示録21章等)。ただ、この実現のためには、キリストは十字架につかなければならなかった。「その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることをよしとしてくださったからです」(コロサイ1章20節)。被造物世界はアダムとエバが悪魔の誘惑に負けたことにより、罪の呪いを受けてしまった。その回復のために御子は十字架の上で身代わりとなって呪われた者となり、血を流して、贖いのみわざを果たさなければならなかった。

悪魔が神の救済計画をどれくらい理解していたのかはわからないが、悪魔は、主イエスが苦しみを経ずに、楽をして全世界を手に治める手段を提供する。それはものの数十秒で済むという簡単なものであった(7節)。「もしあなたが私の前にひれ伏すなら」。実に簡単でインスタントな手段。苦労がいらない。飛びつきやすい誘惑である。しかし、絶対にしてはならないことである。悪魔に屈服するだけのことである。オカルティストたちの悪魔崇拝に関する文献を調べると、富、権力、超能力、霊能力、そうしたものを得るために悪魔と契約を結ぶ話が出てくる。こうして望むものを手に入れても、たましいを悪魔に売り渡してしまった人たちには平安はないようである。私たちはオカルティストではない。しかし、この誘惑は私たちと関係ないと思ってはならない。第二の誘惑は、神以外のものを拝み、世と世にあるものを手に入れようとする誘惑である。今年に入り、テレビを見ていたら、人々がたくさん参拝に訪れる九州の離れ小島にある神社をレポートしていた。どうして大勢の人がわざわざ小島まで出かけるのかと思ったら、その神社で参拝すると宝くじがよく当たるからだそうである。この手の話は枚挙にいとまがない。日本人の多くは拝む対象はあまりこだわらない。ご利益を受ければいいのである。日本で最も多い社、神社はお稲荷様で約3万ある。続いて多いのは、死者を神として祭った社という順になるだろうか。死者を祭るという場合、たたりを恐れてということが一般の動機であったようである。このたたりとご利益が同化していく。日本人は、敬神という動機ではなく、無病息災、商売繁盛という受けるもののことのほうが拝む動機である。対象がどうのではない。だから、拝む対象は死人でも動物でも鬼神でもかまわない。ご利益を受けさえすればいい。私たちはこうした神々の背後に悪魔という黒い神の存在を見なければならないだろう。

7節後半の「すべてがあなたのものとなる」ということばは魅惑的である。だが、全世界を手に入れたとしても悪魔のしもべとなってしまったら、何になるだろうか。そして、手に入れようとしているものは、永遠の御国と違って、やがて滅んで消え去るものでしかない。それだけでなく、自分のいのちまで失ってしまうことになる。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか」(マルコ8章36節)。冷静になって考えれば、何の得もない。実にばかばかしいことである。にもかかわらず、人々は肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢がかなえられたなら、顔の筋肉を緩ませてしまう。ほくそ笑んでいるのは悪魔である。

主イエスはこの誘惑を、最初の誘惑同様、みことばによってはねのける。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」(8節)。これは申命記6章13節の命令である。これを忘れて、異教の神々崇拝、死者崇拝といったことに手を出している信者が何と多いことだろうか。神学的にこうしたことを許してしまっている教派もある。私たちはこうしたことはしていないというかもしれない。しかしながら、基本的に神に仕えるか悪魔に仕えるかのどちらかで、その中間はないことを覚えておこう。偶像崇拝をしていなくとも、神ではなくこの世を愛しているなら、それは同じことなのである。「あなたは世をも世にあるものをも愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛(御父を愛する愛)はありません」(第一ヨハネ2章15節)。第二の誘惑は「この世を愛する誘惑」と一口で言えるだろう。結果、御父への愛を失ってしまうことになる。悪魔は、私たちを神から引き離すことができれば、それでいいのである。私たちは狡猾な敵を意識しながら、「私たちを試みに会わせないで悪からお救いください」と祈りつつ、神の子どもとして、神を愛し、神を恐れ、神だけを礼拝し、神に服従することを選び取りたいと思う。