今日は、キリストの女性観の一部を紹介させていただければと思っているが、先ず、伝道者の書7章26節をご覧ください。「私は女が死より苦々しいことに気がついた」。これは、神が女性をどのように見ておられるかということではなく、罪人である男性は女性をどのように見てしまうかということが言われている。男性は女性の性に誘惑に負け、身を持ち崩してしまうということが良くある。さて、この書の著者は男性なので、「女が」と言っているが、女性の立場から観察したらどうなるだろうか。歴史を振り返るときに、女性は男性に隷属してきたという事実がある。だから女性は男性に対して、「男は暴力的で身勝手で獣に等しい」と男性を評価してもおかしくない。
  聖書は男尊女卑を言っていない。男性と女性の価値は平等であるという人間理解がある。しかし、機能的な役割といったことを無視した男女の平等も言っていない。聖書は、男性は女性に対して、いのちを捧げるという愛のリーダーシップを発揮するように命じているし、女性は男性の欠けたる部分を補い助けるように命じている。では、どうして男性は女性の価値を落とし、自分に隷属させるような関係になってしまったかというならば、それは人間世界に罪が入ったからであると聖書は説明している。
 キリスト時代でも女性は男性から冷遇されていた。妻は、料理がまずいとか、美人じゃないとか、そういう理由だけで離婚させられてしまった。そして子どもを産めない女性は徹底的に差別された。女性の存在価値は、子どもを産むことと良く働くことにあるとみなされていた。そのどちらでもない女性は存在価値ゼロだった。しかし、新約聖書を読むと、そういう女性たちにキリストは目を留められていることがわかる。
 12年間不正出血で苦しんでいた女性がいた(マルコ5:25~34)。彼女は当然、存在価値ゼロであり、それどころか、その病ゆえに、神に呪われているとまでみなされていた。彼女に触れる者さえいなかった。家族の者も。なぜなら、それは不浄の血であったので、触れると穢れるとみなされていたからである。しかし、キリストは彼女がご自分に触れたとき、怒ることをせず、いやしを宣言してくださった。
 18年間腰が曲がったままの女性がいた(ルカ10:10~17)。彼女はその障害のゆえに、水汲みといった基本的な家事さえできなかっただろうと言われている。彼女も存在価値ゼロとみなされる女性。彼女は家族のお荷物と感じ、心苦しい思いでいただろう。そして、当時、障害をもつことは罪の結果とみなされていたので、彼女もやはり、差別の対象であった。彼女の孤独は深かっただろう。しかし、彼女もキリストはいやされ、救われる。
 男性からの裏切りで苦しんでいた女性がいた。サマリヤの女と言われる女性である(ヨハネ4:1~42)。彼女はユダヤ人から見れば異邦人であった。異邦人というだけで当時は差別された。ユダヤ人はサマリヤ人を神に呪われた民族とみなしていた。キリストがサマリヤの井戸のかたわらで休んでいると、サマリヤの女性が日中、ひとりで水を汲みにきた。これはおかしなことであった。なぜなら、水汲みは通常、朝方か夕方、共同で行うものだからである。ということは、彼女は同胞のサマリヤ人の女たちからも差別されるような後ろめたいことをしていたということになる。彼女は離婚歴が5回もある女性で、今は別の男と暮らしていた。当時、女性のほうには離婚する権利がないので、彼女は5回も男のほうから離婚状をたたきつけられたということになる。5回も男に裏切られ、今は別の男と同棲中。後ろ指をさされる生活をしていた。キリストのほうから、この女に声をかけられた。これはありえないこと。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は口も利かない仲。相手が女であればなおさらのこと。異邦人の女性に声をかけるということだけで驚きとされていたのに、キリストは、同胞のサマリヤ人たちからも相手にされていないような罪深い女に声をかけられた。これは、さらに驚くべきことだったである。結果的に、キリストはこの女性を救いに導く。これは、キリストが当時にあって、革命的な女性観をもっていたことの証拠である。
 姦淫の現場を取り押さえられた女性がいた(ヨハネ8:1~11)。彼女は一般に「姦淫の女」として知られている。彼女は現場を取り押さえられ、公衆の前に引き出された。彼女は公けに罪を暴露されたにもかかわらず、キリストのもとにとどまった。姦淫の女を訴えた者たちが自分たちの罪を自覚させられ、バツが悪そうにキリストのもとを立ち去っても。それは彼女が罪を悔い改めた証拠である。彼女に罪の赦しを与えたキリストは、これからは罪を犯さないようにと諭す。
 キリストは女弟子を普通に認めていた。だから誕生することになる教会も女性の比率が高いことになる。2000年前は、東洋でも、ギリシャでも、ローマでも、どこでも男尊女卑であったので、キリストの女性観は革命的だった。私たちは、女性を認め、女性を女性のままで救ってくださるキリストのもとに、しかも罪深いことがわかりながらも愛していてくださるキリストのもとに、安心して向かうことができる。
 私たちは誰のもとに行こうとするのか。ひとり孤独にとどまろうとするのか。それとも薄氷とも言える人の愛情を求めてさまようのか。何にとどまろうとするのか。話の途中で、姦淫の女がキリストのもとにとどまったのは悔い改めた証拠であるということを述べたが、彼女がキリストのもとにとどまったのは、単純に、悔い改めたからということだけではない。キリストに愛の権威を感じたからとどまったのである。本物の愛をキリストに感じたからとどまれたのである。そうじゃなかったら、すぐに逃げ出していただろう。皆さん、キリストの愛を信じよう。キリストは私たちの罪のために十字架でいのちを捨ててくださったほどに、私たちを愛していてくださるお方である。ある人は、キリストがいのちを捨ててくださっても、まだ不十分であると感じる。しかし、キリストに、これ以上何をしろというのだろうか。他にまだ足りないことがあるのだろうか。また、キリストの愛の招きを拒む理由はあるのだろうか。キリストは「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい」と招いてくださっている。このキリストの招きに応え、罪の赦しをいただき、キリストの愛に生かされて歩んでいきたいと思う。