前回は、2章1~7節から、世にも不思議な救い主誕生の場面を味わった。マリアは産気づいて慌てたと思うが、気づいたら生まれた男の子は飼葉桶ですやすやと寝ているのである。天上であがめられていた神の子は、人として一番低い生まれ方をしてくださった。それが、今日の場面につながる。社会的に一番低くみなされていたような人たちへの誕生の告知である。

誕生の告知をしたのは御使いである。現代なら、夫や身内が電話して、あちらこちらに喜びの知らせを伝える。いずれ、伝える側は人間である。だが、救い主の誕生の場合、御使いが率先して告知した。しかも、伝えた先が、これまた予想外の対象だった。ユダヤ教の上層部の人たちにではない。羊飼いたちである(8節)。紀元1世紀の羊飼いは貧しかったと言われる。ユダヤ教のラビ伝承では「不潔な連中」の烙印を押している。貧しくて不潔な連中、これが当時の羊飼いである。不潔というのは身体的というよりも、人間として汚らわしいということである。もともと羊飼いは遊牧民であるわけだから、長期間、共同体から離れて生活せざるを得なかった。それだけでも、自然と別種扱いされて疑いをかけられることになる。一度群れを連れて出れば三月も帰って来ないという屋外の厳しい生活である。そのためになり手も少なく、犯罪者、ならず者など、ほかに職につけない者たちのたまり場になっていたとも言われる。彼らは泥棒をなりわいにしていると言われもした。長期間屋外での家畜を飼うという生活自体、ユダヤ教の口伝律法・規則を守ることを困難にする。必然的に彼らは、軽蔑のまなざしで見られることになる。三世紀のラビは詩篇23編に言及して、世界中で羊飼いたちほど軽蔑される職業はない、とまで言っている。キリスト時代後のユダヤ教のタルムードやミシュナーには、卑賎な職業のリストとして羊飼いが繰り返し登場している。「羊飼いは悪しき者たちであるから、彼らと何の交渉も持ってはならない。ミルク、バター、チーズも買うのをやめなさい」。そんな風にも言われもした。一世紀頃の羊飼いは、そこまで嫌われていなかったという見方もある。ベツレヘム近郊の羊飼いは神殿で献げる羊を飼っていたと思われるから、そこまでの差別を受けていないはずだとも言われる。しかし、いずれ、羊飼いは貧しくて卑賎な職種の人々と思われていたことはまちがいない。社会の下層階級の人たち、最底辺の人たちと言っていいかもしれない。ここが大きなポイントである。

羊飼いたちが告知を受けたのは、ベツレヘム近郊の野原で、野宿で夜番をしていた時である(8節)。当たり前ながら、彼らは夜働く職業の人たちでもあった。季節としてはいつ頃なのだろうか。普通、5~11月頃は、遠く離れた場所で羊を飼う。11~5月頃は町の近郊で飼う。そしてミシュナーには、ベツレヘム近郊で放牧される羊は神殿でいけにえにされるものであるという一節があり、近郊の野原には年間を通じて羊の群れがいたことを示している。よって冬の可能性もあるが、しかし「夜番」という記述から、子羊が生まれる春頃、いや刈入れが終わった夏頃が現実的という見解もあり、季節は判明していない。

野宿で夜番をしている羊飼いたちのところに、ひとりの御使いが訪れる(9節)。今度はカブリエルとは言われていない。「主の使いが」と言われているだけである。この時、主の栄光が回りを照らしたので、彼らは非常に恐れることになる。栄光は輝きが伴うものである。夜なのに、辺りが真昼のように明るくなったのではないだろうか。「非常に恐れた」とある。直訳は「大いなる恐れを恐れた」である。恐れの二重表現である。とんでもなく恐れたのである。寿命が縮むような恐れである。御使いは彼らをひどく恐れさせるために出現したのだろうか。そうではない。その反対である。御使いはこの恐れを喜びに変えようとする。ひどく喜ばせようとする。

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます』(10節)。それはメシアの誕生である。それを「告げ知らせます」。「告げ知らせます」ということばは、「良い知らせを告げる」「福音を告げ知らせる」ということばである。神とみなされていた皇帝アウグストゥスの誕生が福音であると言われていた時代に、御使いはほんものの福音を告げ知らせる。大いなる喜びの福音を告げ知らせる。誰に対して福音を告げ知らせたのだろうか。原文では、「大きな喜びを<あなたがたに>告げ知らせます」となっている。11節では「きょうダビデの町で、あなたがたのために」とあるが、この「あなたがたのために」と全く同じことばが10節でも使われている。なぜか「あなたがたに」が訳されていないだけである。この福音は「この民全体に与えられる」という性質のものであったわけだが、代表して「あなたがたに告げ知らせます」と羊飼いたちに告げ知らされたのである。御使いは、貧しい身分の彼らを意識して良い知らせを告げ知らせたのである。ここが大事である。ルカの福音書の特徴の一つは、貧しい者への福音である。

参考に、イザヤ書61章1節を開いて読んでみよう。キリスト預言の箇所である。「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者をいやすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた」。ここで「貧しい人に良い知らせ(福音)を伝えるため」とあるが、羊飼いたちはその「貧しい人」の代表的存在である。キリストは公生涯に入った時、ナザレの会堂でこのイザヤ書の箇所を朗読することになる(ルカ4章18節)。そして平地の説教では、「貧しい人たちは幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」(6章20節)と語ることになる。羊飼いたちは、貧しい人たちが福音の恵みに与ることのモデルとなっている。

御使いは福音・良い知らせの内容を告げる。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(11節)。クリスマスのキャロリングで、行く家先、行く施設で、このみことばを宣言したことを覚えている。キリストは万民の救い主なので、この宣言はどこに行ってしても良いものだろう。ただ、ここで、御使いの声を直接聞いた「あなたがた」とは羊飼いたちであるということを覚えておきたい。当時、羊飼いたちは蚊帳の外のような存在。ラビたちの発言では、ばくち打ちや取税人と並べて扱われるようになる存在。つまり、神さまの祝福の外にあるとみなされていたような存在である。けれども御使いは、そのような羊飼いたちに対して、「あなたがたのために」と言ってくださる。ただ単に「人間のために」「イスラエルの民のために」という漠然な発言ではない。もちろん羊飼いたちだけが福音の対象ではないが、彼らはしっかりとした対象なのである。

御使いは、誕生した救い主のもとに足を運ぶようにと彼らをいざなう。「あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」(11節)。ここでも「あなたがたは、あなたがたのため」と、羊飼いたちがおもんぱかられている。御使いの気遣いあることばが羊飼いたちに投げかけられている。これを聞いたとき、羊飼いたちの心のうちには、生まれた赤子はどこの飼葉桶だろうという思いとともに、一種の安心感もあったはずである。「王宮ではない、総督の邸宅でもない、神殿でもない、偉い宗教学者の家でもない、富裕な商人の家でもない。飼葉おけがあるのは、ふつうの農家様式の家か、どこかの家畜小屋のはずだ。捜しやすいし、見つけやすい。そういった場所なら、『ここはお前たちの来る所ではない、帰れ』と、にらまれて追い返されることもない。おらたちでも大丈夫だ」。生まれてきた救い主は、ほんとうに彼らのための救い主であった。羊飼いたちが見つけやすい場所、足を運んでも問題ない場所にお生まれくださった。神さまは、彼らのために心憎いまでの配慮をしてくださっている。すごいと思わないだろうか。神さまは、誰かさんたちのように、羊飼いたちを不潔な連中として締め出すお方ではない。彼らのような人たちこそが、神さまの眼中にかなう福音の招きの対象なのである。

この後、羊飼いたちは天の軍勢による喜びの賛美を聴くことになる(13,14節)。世界中のどこの演奏会場に行っても、こんなすばらしい合唱は聴くことができないだろう。御使いたちの軍勢による賛美である。ユダヤ人の日常会話用語のアラム語での賛美だったのだろうか。心が溶けるような、平和な気持ちに満たされる賛美であっただろう。ある者は喜びに満ちあふれた顔で、ある者は涙を流しながら聴いたかもしれない。この賛美は、救い主誕生を祝う賛美であったわけだが、羊飼いたちのためのものでもあった。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように」。「平和」ということばは、神との平和を外して考えることはできない。それは「救い」の同義語と言ってよいものである。ここを見ると、救いがすべての人にあると言っているのではないことがわかる。「みこころにかなう人々にあるように」と、救いの恵みはみこころにかなう人々にある。この場面では、人のこころにかなっていなかった羊飼いたちが、神のみこころにかなう人々の範疇に入っていたことはまちがいない。だからこそ、御使いたちは彼らの前に現れた。羊飼いたちは「みこころにかなう人々」であった。そのことを覚えておきたいと思う。

御使いたちの軍勢による賛美劇場を見終え、聴き終えた彼らが、次にしようとすることは決まっていた(15節)。彼らはベツレヘムに行って、主の良い知らせを目撃しようとした。16節で「そして急いで行って」とある。キリストのもとに急いで行こうとするこの姿は私たちの模範と言われるが、主の栄光で照らされ、御使いからすばらしい喜びの福音を告げ知らされ、救い主のいる場所のヒントまで与えられ、救い主の誕生を記念する御使いたちの賛美劇場まで体験したら、急いで行きたくなるのが自然だと思う。そして、「マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ておられるみどりごとを捜し当てた」。

続いて、である。羊飼いたちは、世界最初の福音宣教者のようになる(17,18節)。羊飼いたちはマリアとヨセフばかりではなく、そこにいた人々に対して、「きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と告知されたことを伝えた。そして、飼葉桶に寝ておられるこの男の子こそがその救い主キリストであると伝えた。彼らはその後も人々に伝えたはずである。だから、今日のみことばが聖書に記されている。名もない羊飼いたちであったと思うが、その人数も記されていないが、彼らは羊飼いの仲間たちに、そして貧しい階級の人たちに救い主を伝えたはずである。また、インタビューに来た人たちにも伝えたはずである。それをこの福音書の著者であるルカも聞くことになる。

20節には、彼らが帰る場面が記されている。「羊飼いたちは、見聞きしたことが、すべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。羊飼いたちの口に賛美が満ちている。みことばの実現が、救い主との出会いがそうさせた。ほっこりする光景である。

ここまで振り返ってみると、やはり大きなポイントは、貧しくて不潔な連中とされた羊飼いたちに誕生の告知があったということである。権力者や富む者にはなかった。上層階級の人々にはなかった。大祭司やいっぱしの宗教学者、教育者にもなかった。無教養で貧しく、卑賎な職業とされていた羊飼いたちにあった。当時、神のおこころに留まるような人は、羊飼いたち以外にもベツレヘムとその近郊にいなかったのだろうか。いたと思う。まして、この時、住民登録で各地から上ってきていたわけだから、神の名を尊ぶ人たちはそれなりにいたはずである。けれども、羊飼いたちに告知があったということには意味がある。

今日の物語で思い出すのはマリアの讃歌である。まず、1章51~53節を改めて読んでみよう。ここで、権力や王位や富んでいること自体、問題とされているのではなく、そのような人たちが持ちやすい性質、高ぶりが問題なわけである。51節で「心の思いの高ぶる者を追い散らされました」とあるとおりである。主が顧みてくださるのは心の低い人たちなわけである。主が目を留めてくださるのはへりくだっている人たちなわけである。マリア自身がそうであった。1章48節を読んでみよう。「この卑しいはしために目を留めてくださったからです」。これと同じことが今日の場面で起こっていると言えるだろう。主は卑しいと自覚する羊飼いたちに目を留めてくださった。彼らの貧しさは心の貧しさと表裏一体であった。「貧しい人に良い知らせ(福音)を伝えるため」(イザヤ61章1節)という福音の性質を、今日の場面で見ることができる。現代にも羊飼い的存在はまだまだいるだろう。私たちは、現代の羊飼いたちがどこにいるのか、そういう人たちを見出したいと思う。その人たちに福音を伝えたいと思う。

最後に19節を見よう。「しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思い巡らしていた」。「これらのことすべて」は、受胎告知があってからの、これまでのことすべてが入るかもしれないが、やはり中心は、羊飼いたちから聞いたことであっただろう。無事出産したと思ったら、見知らぬ羊飼いたちがいきなり訪ねてきて、いったいどういうこと?と面食らったかもしれないが、羊飼いたちの報告を聞いて得心がいっただろう。マリアはそれを「心に納めて、思い巡らしていた」わけだが、あえて、このマリアの態度が記されていることにも心を留めたい。「思い巡らす」とは、「良く考える」「熟慮する」という意味のことばだが、マリアは案外、熟慮の人だったようである(2章51節参照)。私たちもキリストの生涯について思い巡らし、思い巡らす作業を通して、キリストとキリストを中心に据えた神のみわざということを良く知る者たちへと変えられたいと思う。