イースターおめでとうございます。桜の花がようやく開花し、春本番を迎えた。年間の自然界の移り変わりを見ると、落葉樹は秋に葉を落とし、北国では白一色の厳しいシーズンを迎え、モノトーンの季節になる。そして春を迎えると、雪はとけ、雪の下に眠っていた土がほっこりと膨らみ、そこから草の芽が顔を出す。木々も新芽をつけ、若葉を生やし、そして自然界は色とりどりの花を咲かせる。その中に立つと、春ならではの香りというものを感じ取れる。過日は桃の花の香りもかぐことができたが、この春の季節は、木々の花や草花の香りを届けてくれるとともに、私たちの心にいのちの香りを届けてくれる季節でもある。それはキリストが死に打ち勝ってくださったからである。

私たち人間は草花でも樹木でもないわけだが、聖書を読むと、人間はよく木にたとえられている。ぶどうの木とかオリーブの木とか杉の木とか、色んなものにたとえられている。木にとって望ましくない現象は何だろうか。枯れるということである。それは死に向かう現象、死んだ現象である。そこで、木が枯れる原因というものを、ちょっと調べてみた。主なものを六つほどあげてみたい。◎水不足~聖書は祝福された人を、水路のそばに植わった木のようだとたとえている(詩篇1編)。具体的にそれは、神さまの教えをいのちの水として大切にする生活のようである。◎日差しが強すぎて葉枯れ~太陽の光は生き物に欠かせず、この光を失うと死の世界になると言われている。植物は光で光合成を行うわけだが、人間も含めて、生き物はすべてデリケートにできている。強すぎるのは耐えられない。聖書で神は光と言われている。◎剪定のしすぎ(強剪定)~イエスさまは、私たちをぶどうの木にたとえて、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶように刈り込みをする、と言っている(ヨハネ15章2節)。剪定そのものは必要だが、剪定は傷つける行為。ある程度元気なうちは良いが、弱っているときは控えなければならないわけである。また夏は葉をたくさん出して疲労状態になっているので、夏は控えたほうが良いと言われている。この時、たくさんの葉を落としてしまうと、幹や根が直射日光にさらされ弱ってしまうことにもなる。神さまは、私たちの強さ、弱さをご存じで、私たちに対して時宜にかなったお取り扱いをされることを思う。◎地面が固すぎて酸欠になる~農業高校で、空気を含んだ団粒構造が良いと学んだことを覚えている。聖書を読むと、神さまは人間に対して、心かたくなだと責められている場面が多々ある。それで、耕しなさい、と言われている箇所もある。◎土壌のPHのバランスが悪かったり、栄養不足~以前、関東で教会堂建設をしたときに、どでかいクリスマスツリーを作ってやろうと思い、業者に頼んで、敷地に3メートルもあるような大きいもみの木を植えていただいたが、一年で枯れてしまった。砂地っぽかったので、土が合わなかったのだろうと業者に言われた。農業高校時代、私は土壌の研究を専攻したことがある。どの種類の土壌で稲が一番良く育つのかという実験を先輩から引き継いで行った。当然のことながら、栄養豊富な粘土質の土壌が生育も実入りも良かった。いずれ私たち人間も栄養が必要である。イエスさまはある時、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばによる」と、欠かせない栄養について語られた(マタイ4章4節)。◎害虫~私たち人間にとって、それは「悪」ということなので、「試みに会わせないで悪からお救いください」と祈るように、イエスさまは教えられた。

私たちは枯れるというようなことが自分にも起こらないようにと願うわけだが、イースターは、枯れないためにというだけでなく、いや、枯れても、死んでも、それに打ち勝ついのちの力があるのだということを教えてくれるのである。それが今日の記事である。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(11章25節)。このみことばに励まされた人は、数限りなくいる。私も、気持ちが萎えた時や、体が衰弱した時、そして死を思う時、このみことばに励まされる。

春は新芽が出る季節である。切り株の脇から新芽が出る。木の幹や枝から新芽が出る。地面から新芽が出て、発芽する。そこに新しいいのちを感じるわけである。以前、強風で木が倒れて、根っこも切れて、葉っぱも全部落ちて、もうだめかとあきらめていたら新芽が出て喜んだ、という記事を読んだことがあった。イースターはこうした喜びを、私たち人間に起こることとして体験させてくれる。新しい人生、新しいいのち、新しい力、そうしたものが私たちに必要である。

今日の記事は、ラザロという男の人が、死んで墓の中に入れられて四日も経っていたということが背景としてある(17節)。「四日」というのは、死体が腐り始める時期で、蘇生する希望はゼロと受け止められていた日である(39節参照)。三日目までは蘇生の可能性があると信じられていた。だがすでに四日目。この日にイエス・キリストが来られたということが一つのポイントである。四日目は、人間的には何の希望もない日である。この日に、イエスさまは「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と宣言された。この宣言はふつうではない。「わたしは超自然的な力でラザロをよみがえらせ、いのちを与えます」と言っているのではない。もっと、すごい宣言である。「わたしはよみがえりです。いのちです」と言っている。原文を見ると、「わたしは」が強調されている。日本語訳でそのことを表すために、「わたしは」を太文字で表現したり、「わたしは」の上に濁点をつけて強調しても良い。「わたしはよみがえりです。いのちです」は驚くべき主張で、自分を神として宣言しているのに等しい。ある方は、このイエスさまの主張に対して、こうコメントしている。「イエスは、そしてある種、過激な反応を要求します。つまり、彼を悪だと非難するか、狂人だとして立ち去るか、あるいは神だとしてひれ伏し拝むか、のどれかです」。「悪だと非難するか」ということだが、今の時代に蔓延している悪行を念頭に表現すると、「彼を自分を神とする詐欺師だと非難するか」という言い換えもできるかもしれない。だがキリストは神を装う詐欺師とはならない。聖書の舞台となっているユダヤ文化において、神は唯一という神観しかなく、日本人のように、八百万の神を認め、人間誰でも神になりうるという神観はない。日本人は生き神様まで容易につくり出し、それを口にするが、一世紀のユダヤ人たちはそうではない。ユダヤ人は「神は唯一」と唱え、神はすべての被造物を超越した神聖な存在であると理解し、神の名を書くとか、発音することさえ拒絶していた。カミってるということばまで飛び出す日本とは真逆である。ユダヤでは、どんなにすぐれた人物であっても、その人に神の名を付すことはなかった。当時もカリスマ性のある詐欺師はいたが、自分が神であるかのように装ったり、自分を神だと言って説得する試みはしなかった。やっても無駄だからである。もしやったのなら、死罪の罪に問われる。こういう文化にあって、キリストは自分が生ける神であることを示し、この時は、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と宣言された。どんなにすごい宣言か、わかっていただけただろうか。ある人は、この人物は詐欺師でないとしたら、やっぱり「狂人だとして立ち去るか」だと言われるかもしれない。キリストを狂人、精神異常者だと非難するのが妥当だと言われるかもしれない。しかしながら、福音書に見るキリストのすぐれた教えは、21世紀に至るまであらゆる民族に感化与えており、それは、キリストが狂人ではないことを証している。キリストは詐欺師でも狂人でもない。残る選択は、神の救い主であるということである。ラザロの姉のマルタは27節で信仰告白をしている。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリスト(救い主)であると信じております」。

だが、キリストはユダヤの議会において、つまり政府の中枢機関において、自分を神と等しい者としたという罪状で、ほどなくして死刑の判決が下る。先ほども触れたように、当時のユダヤでは自分を神としたら死刑判決が下った。ご存じのようにキリストは十字架につけられることになる。キリストはその前に、ご自分が神の救い主である確証として、ラザロを死からよみがえらせる(43,44節)。

その前のエピソードとして、一つ心に留めたいのが、今日の箇所のキリストの涙である。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、『彼をどこに置きましたか』と言われた。彼らはイエスに『主よ、来てご覧ください』と言った。イエスは涙を流された」(33~35節)。まず「霊に憤りを覚え」ということばにコメントしておきたい。「霊に」というのは「ご自分のうちで」ということで、キリストの内側の反応について言っている。それは怒りであり憤りであった。「憤る」ということばは「怒りに唸る」ということばである。38節では、「イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら」と言われている。ほんとうにキリストは怒り、憤ったのである。それはラザロを追いやった死に対してであり、全人類を支配している死に対してである。死は受容するしかない当たり前のもの、という受けとめはされていないようだ。キリストは死を敵視している。聖書は「罪の報酬は死です」(ローマ6章23節前半)と教えているが、死は人間の罪の結果であるというのが聖書の主張である。それは人間に定まった当然の成り行きでもなく、神がつくりだしたものでもない。それは人間の罪がもたらしたもの。自分で蒔いた種を刈り取るかのように、人間は死をかぶることになった。私たちは正直に自分をみつめるときに、自分自身のうちに、自己中心、高慢、ゆがんだ思い、邪欲、憎しみ、その他の罪があることを知る。それらが死というさばきを引き寄せてしまうものなのである。

キリストが流された涙も、先の憤りと関係がある。この涙は死に対する無力の涙、絶望の涙というのではない。また単に、愛する人との別離から来る悲しみの涙というのでもない。人間を不幸にする死に対する憤りから来る涙である。悲憤の涙。悲しみ憤る涙である。もちろんこれは、人間を愛するがゆえの悲憤の涙である。死を克服できないと見た人間は、自分たちを慰めるために、死は自然な当たり前なものです、死を不幸と考えるのはやめましょうとか、死とは仲良くしましょうとか、色んなことを言ってきたが、キリストにとって死は人間を不幸にするもので、憤りの対象でしかなく、悲憤の涙を流さざるを得ないものであった。

だからキリストは死に敗北することを選択しない。先ほど触れたように、キリストはこの後、ラザロを死からよみがえらせる。それはたましいを肉体に戻すといった、単なる蘇生ではない。死後四日経っていて、肉体は悪臭を放ち腐っていた。からだの組織全体が腐っていた。それをよみがえらせたのだから、完全なる再生のみわざだった。

その後、キリストは十字架刑に服したわけだが、「わたしはよみがえりです。いのちです」という宣言は、この十字架を通して、完全に証明されることになる。キリストは十字架刑を避けようと思えば避けられたのだけれども、避けずに十字架に向かわれたのは、死に対する憤りのためであり、死によって死を克服するためだった。

キリストは十字架の上で私たちの罪を負ったというのが、聖書を通して明かされた神さまサイドの証言である。そして、私たちに代わって死のさばきを受けられ、絶命した。「罪の報酬は死です」という真理を、私たちと一体となって体験された。そして、三日後に、「わたしはよみがえりです。いのちです」が目に見えるかたちで現実のものとなる。それは十二使徒たちでさえ信じていなかった奇跡だった。キリストは死からよみがえられたのである。

先に紹介した「罪の報酬は死です」のあとのみことば約束する。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(6章23節後半)。「わたしはよみがえりです。いのちです」というのは、「わたしは永遠のいのちです」と言われたのに等しい。キリストを私の罪からの救い主と信じるならば、私たちは一旦この世での人生は閉じるけれども、「わたしは永遠のいのちです」というお方の永遠のいのちをいただいたがゆえに、やがての御国において、復活のからだという朽ちないからだをもって生きる恵みをいただく。それが25節後半の「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」ということである。

良く見ると、キリストのことばはまだ続いている。続く、26節のキリストのことばにも目を落とそう。「また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。このことを信じますか」。先に見た25節後半の「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」というのは、「死後の救いの表現」である。それに対して、26節は「現在の救いの表現」である。ユダヤ人は死後の救いは信じていた。義人の復活といった表現で。キリストは、26節では現在の救いにも目を留めさせる。だが、「生きていて私を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません」と言われても、一度は死ぬよね、と思ってしまう私たちがいる。不死身はあり得ないと。いったいキリストは何を言われたいのだろうか。これは、以前言われたキリストのことばを参考にすればわかる。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、死からいのちに移っています」(ヨハネ5章24節)。「死からいのちに移っています」ということが現世で起きる。すると、現象面での死は死でなくなる。切り倒された木から新芽が生えるように、切り株から新芽が出るように、いのちは続いている。死んではいない。死んだようで死んでいない。現在の救いということを考えると、キリストのいのちは、私たちの人生の春夏秋冬すべてに働くということである。今の時も、今年も、私たちの人生に働く。単に、死後のためのいのちではない。今の人生のためのいのちである。「わたしはよみがえりです。いのちです」と言われる方とともに生きていくことができるというのは、自らの弱さを思うときに、ほんとうに心強いのである。罪の力にも絶望することはない。多少の試練も瑣末なものに思えて来る。仕事、経済、病の問題、その他。そして、誰にでも訪れる肉体の死を前にしても希望は失われない。キリストのいのちは死に打ち勝つ。

「わたしはよみがえりです。いのちです」。今日は皆様に、このキリストの宣言を心にしっかりと受け入れて帰っていただきたいと思う。「わたしはよみがえりです。いのちです」と言われたお方を救い主として信じ、受け入れていただきたいと思う。そして永遠に朽ちない希望を持っていただきたいと思う。主イエス・キリストの復活に感謝します。