新年度は「キリストを知る」(「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」ホセア6章3節)を目標とさせていただきたいと思っている。現在、連続で学んでいるルカの福音書は、いよいよキリスト誕生の場面である。今日はキリスト誕生の場面を、できるだけ史実に忠実に描くことを試み、そして、まさしく、キリストを知る端緒としたいと思う。

キリストはいつ誕生したのだろうか。現在、西暦2023年であるが、西暦はA.Dと表記する。ラテン語のAnno Dominiの略称である。意味は「主の年」すなわち「キリストの年」である。この西暦を考案したのは、6世紀のディオニュシウス・エクシグウスというローマの神学者であったが、キリスト誕生の年の計算がまちがってしまったことはよく知られている。紀元前という表記法もある。B.Cと表記する。Before Christの略称である。意味は「キリスト以前」である。こちらはラテン語ではなく英語であるわけだが、それは、これが考案されたのは17世紀と遅かったからである。こうしてキリストの誕生を起点に歴史が二分されたわけだが、その算出法は正しくなかった。では、正確にはキリストはいつ誕生したのだろうか。

1節に、キリストの誕生は「皇帝アウグストゥス」(アウグスト)の時代にあったことが記されている。この人物の正式な名称は、ガイウス・ユリウス・オクタビアヌスである。彼は紀元前27年に元老院から「アウグストゥス」という称号を贈られた。この称号をいただいた紀元前27年から死亡した紀元14年までが皇帝としての統治期間である。アウグストゥスは初代ローマ皇帝となる。彼は当時の記録によると「神」とか「全世界の救い主」と呼ばれ、彼の誕生はグッドニュース(福音)であるとまで言われている。このように、ただの人間すぎない者が神としてあがめられた時期に、この時期を選んで、まことの神がまことの人となり、全世界の救い主として来られた。しかも家畜の居場所に赤子の姿で。神さまのなさることは人知を超えていた。

さて、キリストの誕生の時期だが、紀元前27年から紀元14年の間では、まだ漠然としている。そこで1節の「全世界の住民登録をせよとの勅令」がいつあったのか調査をすればいいだろうということで、調査が進められたが、いつの時点のことなのかわかってない。一回の人口登録が数十年に及ぶケースもあったようで、今日の場面では、この年と断定できない。住民登録というのは主に徴税とか兵役のためで、ローマ帝国内で行われていた。「全世界」というのは、ローマ帝国に限定される。

キリスト誕生の時期を読み解くためにもう二人の政治家が参考になる。ひとりは、2節の「シリアの総督キリニウス」(クレニオ)である。この人物も有名人で、紀元6年にシリアの総督に就任しているという記録が残っているが、あとで述べるが、キリストの誕生が紀元6年以降ということはありえず、こんなに遅いわけはないので、それ以前にもキリニウスはシリアの総督に就任したことがあるのではないかと、碑文などを分析して推察されている。紀元前にもシリアの総督であったと。だが絶対的な証拠はない。また、2節の「最初の住民登録」の「最初の」ということばは「以前の」と訳せることから、キリニウスがシリア総督に就任する以前、と本文を解釈する方もいる。けれども、本文を絶対的にそう解釈していいのかもわからない。

キリストの誕生の時期を読み解くカギとなるもうひとりの人物は、1章5節の「ユダヤの王ヘロデ」である。マタイの福音書2章にはヘロデ王の時代にキリストが誕生したことが記されている。ヘロデ王は紀元前4年に亡くなっている。だから、キリスト

がそれ以後に生まれたことはあり得ない。つまり、紀元前3年も、紀元前2年も、紀元前1年も、紀元後も絶対にあり得ない。そこでキリストの誕生は紀元前4年前半から紀元前5年後半が妥当であると推察されるが、ヘロデが亡くなる3年前頃からが誕生の期間の可能性があると考えると、キリストの誕生は、紀元前4年から紀元前7年の間となる。その頃と思って差し支えないだろう。

ヨセフが登録に向かったのは、現在暮らしているナザレから「ダビデの町」という通称があったベツレヘムである(4節)。ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまでは、南下して約110キロの距離である。地形としては海抜500メートルのナザレから海抜700メートルと上る感じになる。妻をろばに乗せて旅をしたと思われるが、旅にして3~4日の距離である。

ここでの一つの疑問は、この住民登録に、どうして身重になっているいいなずけのマリアも伴ったのかということである(5節)。確かに成人した女性も登録の対象である。でも現代の私たちからすれば、まだ婚約の身であったから、ヨセフの故郷に赴いていっしょに登録する必要もなかったのではと思う。しかし、前にお話ししたように、当時の婚約は、現在の結婚に等しいので、すでに法的にはヨセフの妻である。だからいっしょに登録する義務がある。いっしょに登録に出かけるのは自然といえば自然である。けれどもまだ疑問が残る。家長がひとり出向いて家族の分をまとめて登録すればいいのではないかとも思う。実際、そういうことが行われていた。これにならうと、マリアは出産前でたいへんだから、実家や親戚のところや、場合によっては近所の知り合いのところに身を寄せて夫の帰りを待つとか、できたのではないかとも思う。夫の母親にめんどうをみてもらう手もあったかもしれない。しかし、そうしなかった。適当に頼める相手がいなかったのかもしれないが、そうしなかったのは、やはり結婚前に妊娠してしまったという事実があるので、肩身が狭いし、スキャンダルになるのを避けたかったということが一番だったかもしれない。ヨセフにすれば、人任せにしておけない、僕が守らなければならない、という思いも強かったかもしれない。いや、マリアのほうで、私もいっしょに連れて行ってとせがんだのかもしれない。もしかすると、登録する全員が出向かなければならないという勅令であったのかもしれない。このあたりの事情もはっきりわからないが、はっきり言えることが二つある。一つは、これでベツレヘムからメシアが出現するというメシア預言が成就したということ。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」(ミカ5章2節)。ユダヤ人はこの有名なメシア預言を知っていたが、まさかベツレヘムに旅に来た地方の者がそこでメシアを出産することになるとは思わなかっただろう。神のトリックである。もう一つ言えることは、ベツレヘムでの出産によって、ヨセフとマリアがナザレの町で非難の的にならずに済んだという意味でも良かった。婚約期間の出産は非難の的になるのは目に見えている。処女が御使いのお告げで出産したなどと説明しても、容易に信じてもらえることではない。すべてに、神の計らいがあった。

マリアは月が満ちて出産する(6,7節)。「布にくるんで」とあるが、この動詞は「産着」という名詞から生まれたことばである。別に、ぼろ切れにくるんだわけではない。協会共同訳は「産着にくるんで」と訳している。二人は、出産に備えて産着を用意しておいたことが考えられる。さて、ここでまた疑問が起きてしまう。「布にくるんで飼葉桶に寝かせた」とあるが、男の子はどの場所で生まれたのか、なぜそこで生まれなければならなかったのか、ということ。飼葉桶ですやすやと眠っているイエスさまは、クリスマスの定番である。これはいったいどういうことなのか。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とあるが、ここから、宿屋は満員であったから締めだされた、で片づけられてしまうことがある。そして家畜小屋に追い払われたと。だが疑問が残る。ヨセフは知らない町ではなく、故郷の町へと帰途についた。ヨセフは自分の身を明かせば、故郷の人々は彼らを無下に扱うはずはない。しかも彼はダビデ王家の血筋である。それ以前に、古代中東では旅人をもてなす文化が定着していたことを忘れてはならない。旅人に対して「お泊りなさい」と迎え入れるのが常であった。まして出産間近の女性を連れ立っている。ほおっておくだろうか。出産の兆候が表れた女性は救急車で病院に行ってください、という分業制の時代でもない。村の女に陣痛が起これば、村落共同体として、皆で助けの手を差し伸べて、出産の手助けをするのが普通であった。では、どうしてこういう生まれ方をしてしまったのか、ということになる。

実は、聖書で「宿屋」と訳されることばには二種類ある。一つは<パンドケイオン>。このことばは良きサマリヤ人のたとえで使用されている。「自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10章34節)。この「宿屋」<パンドケイオン>は商業施設としての宿屋である。きちんとした旅館、ホテルのことを指す。だが、2章7節で「宿屋」と訳されていることばは原語が違う。<カタルマ>である。荷物を解いて降ろすということばに由来していて、スペース、空間、滞在場所程度の意味。人がいっぱい集まる宿泊所程度の建物にこのことばが当てはまる。荷物を解いて降ろして休むことができればいい程度の空間。その意味で「宿屋」と訳されていることを考えてみよう。二人は彼らだけの個室を借りることはできなかっただろう。皆で雑魚寝して休もう、というのがありえる事情である。しかし産気づいた。そこで子どもを産むわけにはいかない。よく見ると、「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と書いてあって、「泊まれなかった」とは書いていない。産気づいたら居場所がなくなるだろう。男の人たちが近くにいてもらったら困る。そこで家畜小屋に移動して産んだということが考えられる。当時の宿舎には駐車場代わりに家畜小屋が併設されていた。旅にはろばなどの乗り物が当たり前だったからである。だから、併設されていた家畜小屋に向かったことが考えられよう。宿屋から追い出されたのではなく。

伝承では宿屋併設の家畜小屋ではなく、岩屋誕生説が伝えられている。洞窟内誕生である。2世紀に活躍した殉教者ユスティノス(100年頃~165年頃)などが主張している。その他の古文書にも岩屋誕生説は記されていて、中東キリスト教の定説となっている。産気づいた女性が岩屋で出産だなんてあり得ないと言われるが、岩屋に向かったことも可能性として否定できない。ベツレヘム周辺には岩屋がいくつもあって、今でも家畜や羊を雨宿りさせるために使われているという。実は、キリストが生まれたとされる岩屋があり、そこに教会堂が建てられ、ベツレヘムの聖誕教会として知られている。そこでは、コプト教会やシリア教会、そしてアルメニア教会やギリシア正教会、あるいはローマカトリックなど、各教派の聖職者がそれぞれの礼拝を担当している。ユダヤ教側の文書にも、この岩屋誕生に触れているものがある。「彼らは(東方の博士たちは)、羊小屋の張り出ている洞窟の入口で、幼子と母親を見つけました。母は、ヨセフという名の男と結婚しており、子どもについての話を彼らに話して聞かせました。一人の御使いが彼女を訪れ、彼女が子を身ごもること、その子をイエスと名付けるべきこと、その子は人々を罪から贖い、彼女は永遠に祝福された乙女と呼ばれることになる、と話したというのです。この話が真実であるかどうかは、今後明らかになると思います。世間には、偽者があまりに多く出ているからです。偽りの奇跡の下で生まれた子どもは、少なくありません。そのどれもが嘘であったことが判明しています。それで、この件も、まがいものかもしれません。彼女は、単に自分の不貞を隠そうとしている、あるいはユダヤ人に気に入ろうとしているだけなのかもしれません」(サンヒドリン文書/ユダヤ議会宛文書)。マリアが仮に岩屋で産んだ場合、助産婦など無しでひとりで産んだ可能性もある。ユダヤ人女性はお産が軽いので、ひとりで産んでしまうことも珍しくなかったそうである。

そして、近年有力視されているもう一つの説がある。農家様式の民家の居間での出産である。滞在場所を意味する<カタルマ>は、「宿屋」の他に「客間」という訳も可能で、実際、そう訳されている箇所がルカの福音書にある。最後の晩餐の会場に関して、<カタルマ>が「客間」と訳されている。「弟子たちと一緒に過越しの食事をする客間はどこか」(ルカ22章11節)。ルカ2章7節は「客間には彼らのいる場所がなかったからである」と訳せる。協会共同訳は、別訳として「客間」と記している。ルカ2章で客間という場合、農村地帯の典型的なパレスチナの民家を思い起こしてみるとよい。平屋の三部屋構造である。真ん中が家族用居間である。居間の右隣に客間がある。間は厚い壁で仕切られている。二階が客間の場合もある。居間の左側が家畜小屋(馬屋)である。仕切りは壁が半分で、家畜が顔を出せるようになっている。そして居間との仕切りに、居間側に飼葉桶がある。ここはワンルーム二間という構造である。さて、ヨセフ夫婦は、親戚か友人を頼って、こうした家に泊まりに来たとする。しかし、残念ながら客間は満員だった。家人はどうしただろうか。中東はもてなしの文化である。この時期は住民登録で大勢の人がベツレヘムに上って来ていただろう。まして身重の女性をほおっておくはずはない。そこで、その家の家族は、ヨセフとマリアを自分の家の家族部屋である居間のほうへと招き入れた。追い出したのではなく招き入れた。陣痛が始まった。出産のために村の助産婦や女たちが介助に立ち会うことが自然の流れとなる。居間の隅には飼葉桶がしつらえてあって、そこに藁を敷いて、赤子のベッド代わりに使った。「宿屋」を「客間」と理解する場合は、こうした光景が考えられる。これが一番現実的といえば現実的である。この農家様式の民家の居間での出産説が近年、脚光を浴びている。

整理すると、可能性として、ヨセフとマリアは宿泊所にいることができなくなって、併設する家畜小屋ないし、岩屋(洞窟)の家畜小屋に向かってそこで出産した。もしくは、宿泊しようとした農家様式の民家の客間は満員だったので、家族部屋に招き入れられ、そこで出産した。もしかすると、最初は客間にいたけれども、客間で産気づいたので、客間から家族部屋に移動し、そこでの出産だったかもしれない。どのケースを選択するにしろ、ベッドは飼葉桶となる。羊飼いたちが一番に発見しやすかった場所は、岩屋かなという気もするが、真実はわからない。

このキリスト誕生に関して、イメージを膨らませて、様々なことが言われてきた。飼葉桶をめぐってもしかりであるが、私たちがキリスト誕生の物語から汲み取らなければならないポイントは、神の子であり、王の王、主の主であるキリストが低い姿でこの地上に来てくださったという事実である。人間にすぎない皇帝アウグストゥスが神として、全世界の救い主として讃えられていた時代に、まことの神であり、まことの全世界の救い主が、家畜の居場所に降誕された。無力な赤子として。それが、当時にあって人としての最低の死に方である十字架へとつながっていく。飼葉桶から十字架へ。このラインは固く結びついている。これが私たちを罪から救うための神のご計画であった。この事実に私たち人間の高慢は打ち砕かれるし、羊飼いや東方の博士たちとともに、心ひれ伏して礼拝することを選択するよう促されるのである。今朝、改めて、キリストの謙卑、キリストの謙遜を深く覚えて、御名をあがめたいと思う。