今日は、解放、勝利、そういったことを思い巡らしたいと思う。ルカの福音書は祭司のザカリヤ夫婦に男の子が与えられる約束で始まったが、今日はその約束の成就と、ザカリヤの讃歌の記事である。今日は誕生の喜びから始まる(57,58節)。妻エリサベツは御使いの約束どおりに出産する。不妊の女の高齢出産である。それは主の大きなあわれみによるものであった。前回お話したように、何歳ぐらいで産んだのかはわからない。50代?60代?70代?いずれ高齢出産である。ご近所の人々や親族とともに、出産の喜びを分かち合った。

誕生の後、名づけが行われる。この頃は八日目の割礼の日に名づけをする習慣があったようである(59節前半)。割礼というのはユダヤ人にとって神の民となるというしるしであった。人々はこの日、ザカリヤという名前をつけようとした(59節後半)。当時、自分の父親や祖父の名前をつける習慣があった。ところがエリサベツは60節にあるように、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と、予想外のことを言う。人々は驚いてしまう(61節)。

子どもの名前は親がつける権限があるわけだが、エリサベツの出した名前は、当時の習慣に逆らうものであった。それでエリサベツは自分の思いつきで言っているのではないことを知ってもらうために、夫ザカリヤに命名したい名前を尋ねる(62,63節)。彼は書き板に「ヨハネ」という名前を書いた。「ヨハネ」という名前は、御使いがつけた名前だった(13節)。その名前の意味は「主はあわれみ深い」。まさしく、この男の子の誕生は58節で言われていたように主の大きなあわれみであったが、メシア時代の扉が開かれ、主のあわれみが人類に示されるという意味でも、ふさわしい名前であった。ザカリヤはこの後、主のあわれみを讃歌の中で何度か告白することになる。

ザカリヤは、書き板に男の子の名前を書く行為によって、口が利けるようになる(64節)。彼がいつから口を利けなくなったか、確認しておこう。かつてザカリヤは、御使いガブリエルによる受胎告知を受けた時に、不信仰を口にしてしまった。婉曲的な表現で、出産はありえないだろうということを口にした(18節)。それで期間限定のさばきがくだった(20節)。このさばきは期間限定という寛容なさばきであったわけだが、それでも厳しいと感じる。生まれたてのほやほやの信仰者なら、ここまで厳しくされないだろう。だがザカリヤは信仰年数が長かっただけではなく、神殿に仕える祭司をしていて、祭司は約180,000人いたわけだが、その中から選ばれた人物であった。その上で、歴史の分岐点、転換点となる新約時代の幕開けにかかわる大役を担わせられた。だから、ザカリヤには厳しい基準が求められたわけである。さばきが終わる日が、名づけの日であった。口を利けない沈黙の期間は約10か月あったが、祈り、黙想し、瞑想し、信じる信仰を養い、服従の信仰を強めたであろう。また来るべきメシア時代の啓示を受けただろう。だから、沈黙の期間というのは、単にさばきとして捉えるというよりも、神が備えてくださった恵みとして捉えることもできる。すべては益と変えられるのである。

ザカリヤの信仰は熟成され、有名なザカリヤの讃歌を口にすることになる(67~79節)。この讃歌は「ベネディクトゥス」としても知られることになる。この讃歌が「ベネディクトゥス」と呼ばれる所以は、68節の「ほめたたえよ」をラテン語読みすると、ベネディクトゥスになるからである。前回学んだ46節以降のマリヤの讃歌は「マグニフィカト」として知られているわけだが、両者を比較して気づくことは、マリヤの場合は、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださいました」云々と、個人に関することを最初に述べているが、ザカリヤには全くそれがないということ。67節を見ると、「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った」とあり、ザカリヤの讃歌はすべて「預言」なのだと気づく。ではその預言の内容を見ていこう。

この預言は考えられた整然とした構成になっているが、今からは、単純に、第一の区分、第二の区分という分け方で見ていきたい。第一の区分は68~75節である。何についての預言かと言うならば、ことばとしては全く出て来ないが、イエス・キリストについての預言である。この文章をぱっと見ると、過去のことについて語っているという印象を受ける。68節に「贖いをなし」とあるが、原文では「贖いをなされた」という不定過去である。69節は「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた」と同じく不定過去である。過去形で訳している。では過去の出来事の言及なのだろうか。これは、マリヤの讃歌のときにも説明したが、起こるのは未来であっても、確実に起こる未来を表現するときに、過去形を使うことがある。確実な未来を示す過去形。預言の不定過去。それは確実に成就するという出来事なのである。だから、それを、すでに起こったこととして表現してしまうのである。そして確実に成就する出来事とは、キリストによる救いのみわざのことである。それは罪の奴隷からの解放、死の奴隷からの解放、悪魔の奴隷からの解放というみわざである。それをこれから説明しよう。

68節の「贖いをなされた」ということだが、キリストはこのために来られた。「贖い」ということばは、身代金を払って奴隷や捕虜を買い戻し、解放することであるが、そこから、「解放すること」「自由にすること」「救うこと」の同義語となった。ある人たちは、エジプトの奴隷であったイスラエル人たちが解放されたことを言っているのだ、と主張するが、この場面で、過去の出エジプトのみわざにのみ思いを向けさせることが御旨ではないだろう。つまり第二の出エジプトと言える、キリストによる救いに思いを馳せなければならない。キリストはある時、こう言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。悪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)。奴隷ということでは、次のように言われている聖書箇所もある。「そこで子たちはみな血と肉とも持っているので、主もまた同じように、これらの者をお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(へブル2章14,15節)。キリストは十字架の上で血の代価を払って、私たちを罪と死と悪魔の支配から救うみわざをしてくださった。これが贖いのみわざの真意である。

69節の「救いの角」とはメシアであるキリストを意味している。旧約聖書で角という表現がしばし出て来る(申命記33章17節、他)。角というとき、野牛の角を想定しているようだが、角は、その動物のいちばんの力が集まっているところ。その角で力を発揮し、敵を倒す。だから角は力の象徴である。そして、救いの角とは、ダビデの家系から出現するメシア、すなわちイエス・キリストである。「そこにわたしはダビデのために、ひとつの角を生えさせよう」(詩篇132編17節)。ザカリヤは救いの角の働きを敵からの救いとして描写している(71,74節)。私たちが敵という場合、人間という敵を思い浮かべるのが普通だが、ルカは4章以降で、霊的な敵について次から次へと記述していく。そしてキリストがそれに勝る力と権威をもっておられることを描く手法をとっている。

敵からの救いは、73節で言われているように、信仰の父祖であるアブラハムに対して、誓いというスタイルで啓示されたものである。その箇所を読んでみよう。「それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。『これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るであろう。』」(創世記22章15~17節)。敵の門を勝ち取ると言われている「あなたの子孫」とは単数形で、ひとりの人を指し、それはイエス・キリストである。今、この誓いが成就しようとしているのである。神の誓いがあってから二千年後にキリストは登場し、敵の門を勝ち取ってくださった。

メシアによって敵の手から救われた者の恩恵は74,75節に記されている。原文では「恐れなく、主の御前に仕えることを許される」が74節の文章で、これが一つの大きなポイントである。「恐れなく」とあるが、奴隷や捕虜は恐怖に縛られている。びくびくしている。おどおどしている。平安はない。自由はない。敵のコントロールの下で、委縮して暗い気持ちで生きるばかりである。だが主に救い出された者はそうではない。解放された~、救い出された~、やった~と、牢獄から出された者のように、のびのびと、喜びをもって新しい主人である主に仕えていくことができる。もはや暗闇の牢獄に戻ることはない。恐ろしい主人におびえて生きることはない。

第二の区分は76~79節である。バプテスマのヨハネの活動とそれに続くメシアの預言である。ヨハネは「いと高き方の預言者」(76節前半)と呼ばれている。これまでユダヤには300年間、預言者は起きなかったが、彼は旧約時代最後の預言者となる。その働きは、「主の御前に先立って行き、その道を備え」(76節後半)とあるように、罪人が主を迎えるために必要な、心の道路工事の仕事である。王様を迎え入れる町は、まっすぐな道路を造ったり、道路を平らに均したり、王様のための住まいを整えたりと準備したわけである。ヨハネは人々の心にメシアを迎え入れさせるための備えとして、悔い改めを語った。それによって人々の心は砕かれ、平らに均されたまっすぐな道ができたわけである。

続いて、「神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」(77節)とあるが、救いをもたらす罪の赦しというのは、罪を赦す権威があるメシアから「あなたの罪は赦された」という宣言を受けて実現するわけだが、人間の側では、罪の赦しを受けるために、罪を自覚し、悔い改めが必要だと知らなければどうしようもない。それは、病気の治療のためには、まず患者が悪いところを自覚し、それを治さなければならないと納得しなければならないのと同じである。ヨハネは罪を指摘し、それを取り除かなければならないと教えたわけである。もう一つ、誰がたましいの医者として治療してくださるのかを教えた。あなたの罪の病をいやす医者はイエス・キリストですよと教えた。ここまでがヨハネに託された務めである。ヨハネがレントゲン技師で、レントゲン結果を伝え、主治医のキリストに引き渡す務めを担ったと言えるだろう。

ヨハネの主な活動の場所は荒野となる(80節)。「荒野」とは、死海西方に広がるユダの荒野である。彼は殺伐とした寂しい荒野で神さまからの特別な訓練を受けるだけではなく、自分のいる荒野に人々を招いて悔い改めを訴えることになる。荒野に人が押し寄せていくことになる。私たちも喧騒と目移りするような虚飾に満ちた世界にあって、荒野という時間帯が人生に必要かもしれない。また神さまは、私たちがどこにいようとも、心に荒野性を持つように導かれるのかもしれない。世の欲に囚われた心の風景は欲望のジャングルであったり、ネオン街であったり、宮殿であったり。それらが蜃気楼のように消え去る時が来る。そこは砂漠の衰え果てた地となる。私たちはそこで、自分の罪と向き合い、たましいの闇、不自由さを認め、心は打ち伏し、救いの光を慕い求めることになるのである。

78節後半から79節がキリスト預言である。最後にこの預言を味わおう。78節の「日の出がいと高き所からわれらを訪れ」の「日の出」がキリストである。皆さんも夜明け前、暗がりの中を起き出して、日の出を見に行かれたことがあるだろう。暗闇の中から光を求める自分がそこにいたわけである。光を見たいということとともに、光に照らされたいという自分がいたはずである。冬の晴れない雪空が長く続いていた時はなおさら、光を全身に浴びたいという願いをもったはずである。「日の出」を協会共同訳は「曙の光」と訳している。それは「救いの光」である。この光は私たちをどうするのだろうか。「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし」(79節前半)とある。「暗黒と死の陰にすわる者」とは、霊的には私たち罪人のことである。これに関連して、旧約聖書のみことばを二か所引用しよう。一つ目はイザヤ9章2節。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」。これより700年後にキリストによって成就するメシア預言の箇所である。メシアは大きな光であるが、人々は大きな闇に包まれている。それは霊的闇である。キリストは闇に打ち勝つ光として来られた。二つ目は詩篇107編10,14節。「やみと死の陰に座す者、悩みと鉄のかせに縛られている者。…主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた」。これは、暗い牢獄に捕らわれている者が解放されるというイメージである。「かせ」とあるが、鉄でできた足かせ、もしくは鉄でできた手かせでつなぐことがあった。つながれている。自由がない。救い、解放が必要である。これは罪の奴隷とされた人間の現実でもある。

私は大学一年の夏、東京のアパートで伝道メッセージをカセットテープで聞いていた。また三浦綾子さんの聖書のお話を読んでいた。どちらもテーマは、罪からの解放、自由ということであった。罪が私たちを奴隷にしているということが前提として語られていた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。悪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)。私に聖霊の働きがあり、「私のたましいはどこにいるのか?居るべきところに居るのか?」と自問自答することになり、自分のたましいが暗い地下牢に閉じ込められているイメージが来た。単純に「出してやりたい」と思った。私はキリストによってほんとうの自由を得たいと思い、アパートのベランダでキリストを信じる決心の祈りをひとりでささげた。

主は救いの光を照らし、暗い牢獄から解放し、どうされるのだろうか。「われらの足を平和の道に導く」(79節後半)とある。「平和」とは74節にある「恐れ」(恐怖)との対象と言ってよいだろう。霊的捕虜の生活、霊的奴隷の生活、霊的牢獄での生活、霊的暗闇の生活、そこに真の平和はない。牢獄にいる者は窓格子から見える外の世界にあこがれるだろう。そこにはかせから解かれた者が歩く、平和の一本道が見える。空は晴れ渡る青空が広がり、陽光が射しているイメージである。主は私たちを贖い、新しい旅のスタートを切らせてくださった。それは自由への旅立ちである。それは主とともに生きる人生である。途中、暗雲が立ち込めてきたとしても大丈夫である。人生のリーダーは主なのである。主は最高、最強のお方で、光の君、平和の君なのである。自分の前に主を置いて歩むことこそ、勝利の人生である。