前回は26節以降から受胎告知をご一緒に見た。ナザレに住む処女マリヤに、御使いガブリエルから救い主を宿すとの告知があった。マリヤは38節にあるとおり、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言って、御使いのことばを単純に信じ、潔い献身の姿勢を示した。

マリヤはその後、時間を置かずして親戚エリサベツのところに出かけた(39,40節)。なぜ、この行動をとったのだろうか?マリヤはエリサベツが懐妊した知らせを御使いから受けていた(36節)。そして自分にも御使いから受胎告知があった。そこに、ともにこの恵みを分かち合いたい、ともに主のご計画に思いを潜めたい、そのような思いが働いたであろう。神の恵みをともに分かち合える親戚がいるというのは幸いである。

「山地のあるユダの町」とは伝説ではアイン・カリムという町で、エルサレムの西側数キロの場所にあり、ナザレからは南に約100キロの地点にある。「急いだ」とあるが、女の足で行けば3日はかかる。エリサベツおばさんに早く会いたいという一心で向かっただろう。手土産は何を持っていったのだろうか。

マリヤが到着してのエリサベツへのあいさつは、エリサベツを元気づける以上の効果があったようである(41節)。「子が胎内でおどり」とある。「おどり」は「飛び跳ねた」と訳してもいい。現代医学で、胎児が外の音楽や人のことばに反応することがわかっている。最高の反応があった。「胎内でおどり」は一種の喜びの反応である。そして「エリサベツは聖霊に満たされた」のである。

エリサベツは聖霊に満たされて、あいさつに返答した。「そして大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています』」(42節)。「大声をあげて」とあるが、「叫んで」と訳してもいいことばである。気持ちがハイになっている様子。「あなたは女の中の祝福された方」という表現は、へブル人の表現では、「女の中で最も祝福されている方です」と、最上級を意味する表現である。そして「あなたの胎の実も祝福されています」と、最高の祝福のことばを述べた。

続いて敬意を表すことばが続く。「私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう」(43節)。エリサベツはマリヤを「私の主の母」と呼んでいるが、ここに、すばらしい信仰告白が隠されていて、つまり、胎の実を「私の主」と告白しているのである。エリサベツはマリヤが宿している胎児を神の救い主であると認めているということである。イエスさまが誕生した後に、この男の子は救い主であると信じた人たちは様々にいた。だがエリサベツは、イエスさまがまだ胎児の時点で信仰告白をしている。ちょっとした驚きである。

エリサベツは自分の胎内で起こったことも率直に告げる。「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました」(44節)。胎児がマリヤのことばを理解できたということではなかっただろう。聖霊による感動といったものがそこにあったのだろう。

そしてエリサベツは賛辞を述べる。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(45節)。これを直訳しよう。「そして、幸いなるかな。主から自分に語られたことは必ず実現すると信じる人は」。幸いが宣言されていて、続いて、どのような人が幸いであるかの説明がされている。どういう人が幸いなのだろうか。あらためて自分に問いかけよう。私たちは主のことばに対して、今の自分に何の意味があろうか、ばかばかしい、信じられない、そんな受け留めでいたら、つまらない人生になってしまうだろう。

46~55節がマリヤの讃歌であるが、一般に「マグニフィカト」として知られ、アドベントのシーズンになると、マグニフィカトが教会や演奏会場で演奏される。マグニフィカトのことばの由来は、46節の「わがたましいは主をあがめ」である。ラテン語訳にすると、「マグニフィカト アニマ メア ドミヌス」となる。冒頭の「マグニフィカト」が「あがめる」の意で、これが題名となった。マリヤの讃歌「マグニフィカト」は、預言者サムエルの母親であるハンナの祈りを思い起させる内容となっている(第一サムエル2章1~10節)。

マリヤの讃歌「マグニフィカト」は喜びの讃歌と言えるだろう。「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(47節)。「喜びたたえます」<アガリアオー>の原意は、「非常に喜ぶ」「小躍りして喜ぶ」という大いなる喜びの表現である。神を喜ぶこと、神にあって喜ぶこと、これが喜びの中の喜びである。マリヤはどうしてこんなに喜んでいるのか。その理由が次節に記されている。

「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」(48節)。これが彼女の正直な気持ちである。マリヤは「はしため」ということばを、38節で御使いの前でも使っている。「私は主のはしためです」と。「はしため」は女奴隷という意味であった。ここでは「卑しいはしため」と言っているが、救い主の母親となるために、こんなペーペーの者に目を留めてくださって、こんな者を顧みてくださって、と喜びにあふれている。イスラエルには、王侯貴族の娘、富豪の娘、大祭司の娘、議員の娘、ユダヤ教の教師の娘、そうした名士の娘たちがいただろう。しかし神が目を留めたのは、ガリラヤ地方という片田舎の、卑しい町の、田舎娘である。無に等しい存在である。村落の、特別に人々に顧みられることもない、貧しい普通の娘である。畑で仕事をし、家畜の世話をし、台所に立ち家事をこなす、一般庶民の卑しい娘にすぎない。にもかかわらず、神に目を留めていただいた。それが喜びの賛美の動機となる。私たちも同じではないだろうか。自分のことを振り返ってみよう。私たちはひとかどの者だろうか。特別に秀でた存在だろうか。やっぱり、卑しい者にすぎないのではないだろうか。ただの罪人にすぎないのではないだろうか。けれども目を留めていただいた。救っていただいた。私たちも主を喜ぶ賛美の思いを新たにしよう。

マリヤは、「わがたましい・・・わが霊」と言っている。たましいと霊という、二つの別々の存在があるというのではなくて、この二つのことばで、人間の内面にあるもの、人間の本質を言い表している。それは人間存在の深い中心的なものであり、その人の内なる存在のすべてであり、その人の本体と言っていいもの。マリヤは、私の内なるすべてが、私の知性・意志・感性のすべてが、私の全生命力が、私の全存在が、あなたをあがめ、喜びたたえます、という感覚になっている。これぞ賛美の精神というところである。

マリヤは神のご性質をほめ歌う。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」(49,50節)。マリヤは「力ある方が」と、神の力をほめ歌う。そして「その御名は聖く」と、神の聖さを、聖さが意味する、神の超越性、純粋性をほめ歌う。また「そのあわれみは」と、神のあわれみをほめ歌う。

賛美を生み出す神の具体的なみわざが51~54節で語られる。それは、神の力、聖さ、あわれみというご性質がなせるみわざであり、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです」という告白と連動する、逆転のみわざである。逆転のみわざというのは、心の思い高ぶっている者、権力ある者、富む者が低くされ、そうでない者たちが高められるという逆転のみわざである。ここで、権力ある地位そのものが悪いとか富んでいることそのものが悪いということではなくて、51節で「心の思いの高ぶっている者」とあるが、権力をもつと、また富むと、そうなってしまいやすく、ようするに、ここでは、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みをお授けになる」という真理をついている。自分を主のはしため、卑しいはしためと呼ぶマリヤは、へりくだる者の側についている。

かつて、ここで言われているような高ぶる者へのさばきは歴史において繰り返されてきた。エジプト、アッシリヤ、バビロンなどの大国は、その権力で圧政を敷き、自らを神のようにみなし、イスラエルその他の諸国を攻め取り、支配した。しかし、旧約聖書の預言どおり、神の御手によって滅ぼされた。では、ここでは、そうした過去の事実だけが歌われているのだろうか。それは違うのである。マリヤは未来を向いて、未来にも継続され、実現されるみわざとして見ているのである。そのことをお話しよう。

51~53節の訳文を観察する。新改訳2017の訳が原文に近く、すぐれている。「主はその御腕で力強いわざを行い(ました)、心の思い高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし(ました)、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ちたらせ(ました)、富む者を何も持たせずに追い返されました」(新改訳2017 括弧は補足)。

新改訳第三版は52節で「引き降ろされます」という訳文になっているが、原文の動詞はすべて「不定過去」なので、すべて「過去形」に統一して訳すほうが混乱を招かない。さて、この箇所での過去形なのだが、「預言の不定過去」としてとらえるべきものである。つまり、未来に起こることは確実なので、それが起こったこととして過去形で表現するという手法である。確実な未来を示す過去形の表現である。今晩、あきたこまちを食べることは確実なので、まだ数時間先のことなのだけれども、「あきたこまちを食べました」と表現してしまう。今日中に、誕生日プレゼントをもらえることは確実なので、「誕生日プレゼントをもらいました」と告白してしまう。これは、先取りした確信に満ちた表現であるわけである。ここでも、そうであるわけである。それは必ずそうなるということである。

マリヤはこの後に出産するが、ヘロデ王という権力者の圧政によって、産んだ子どもが殺されるとわかって、家族でエジプトに避難するという逃亡生活を強いられる(マタイ2章)。また、それだけで終わらず、我が子が権力者の手によって捕らえられ、目の前で十字架刑によって殺される姿を目にしなければならなくなる。大変な試練が待っている。その後も権力者の横暴は世界中で続く。今も続いている。マリヤの讃歌は紙くず同然のものとなってしまうのだろうか。だが、そうではない。それを言い表すかのように、キリストは公生涯において、「貧しい者は幸いです。いま飢えている者は幸いです。いま泣く者は幸いです。あなたがた富む者はあわれです。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです」と説教することになる(ルカ6章20節以降)。神の逆転のみわざが今に起きるということである。やがての時、完成する御国において、マリヤの讃歌は完全に成就を見るということである。「このような状況がいつまで続くのですか」と問いかけたくなる日常にあって、主に従うへりくだる者は喜び踊ることになるのである。時が来れば、みことばは成就する。マリヤはみことばを信じる信仰をもって、この讃歌を口にしている。

マリヤはエリサベツの家には三か月間滞在したようである(56節)。ともに賛美し、ともにお腹の子たちのことを語らい、主にある良き交わりの時をもったことであろう。

さて、今日のマリヤのエピソードから、私たちは何を教えられるだろうか。四つに分けて整理してみよう。

第一は、みことばを信ずる信仰である。「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(45節)。主によって語られたことを単純に、固く信じる。自分の経験や知恵を過信する大人や学者たちは、屁理屈を並べてみことばに背を向けてしまうが、素直にハイと信じる幼子のような信仰である。マリヤは、男女の関係なしの出産という世界初の御告げであるにもかかわらず、主によって語られたことばは必ず実現すると信じた。

第二は、あふれるような賛美の精神である。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(46,47節)。たましい、霊、内なるものが総動員で神を喜びたたえている。私のすべてが賛美しています、という喜びの賛美である。詩篇103編1節には、「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ」とあるが、まさしくマリヤのうちにあるすべてのものが主をたたえている。これぞ賛美である。

第三は、主のはしために徹する姿勢である。ルターはマリヤについて次のように述べている。「見よ。彼女がいかにすべてのものをまったく神に帰し、一つのわざも、一つの栄光も、一つのほまれも、まったく彼女に帰することがないことを。しかも彼女は何一つもたなかった以前と同じように働き、また前よりも多くの栄光を求めることもしないのである。彼女は誇らず、高ぶらず、神の母となったことを吹聴せず、何の栄光も求めず、以前のように家にいて働き、ミルクをしぼり、料理をし、食器を洗い、掃除をし、女中や主婦がするような、低い、とるに足らぬことを、あたかもかくのごとく、おどろくべき賜物も恵みも、少しも意にしないかのようになすのである。彼女は他の女たちや隣人の中で、以前よりも尊敬されることもなく、彼女はまたそれを求めず、卑しい民の中の、貧しいひとりの女としてとどまった。おお、それはなんという素朴にして純な心であろうか。なんというおどろくべきたましいであろうか」。マリヤを主キリストと同等の地位に引き上げ、マリヤ崇拝をする者たちがいるが、マリヤはそのようなことは一つも望まないだろう。マリヤは、一つのわざも、一つの誉れも、一つの栄光も自分に帰することはしない。「はしため」ということばは「女奴隷」ということばである。彼女は芝居がかってこうした低い姿勢を取っているというのではなくて、全くのナチュラルな姿勢として低いのである。そして、「主のはしため」ということは、奴隷は主人の所有なわけだから、「あなたのみこころのままに私をお使いください」、「我が身にあなたのみこころがなりますように。我が身をあなたにお献げします」と我が身を差し出す姿勢があるということである。前回、38節のマリヤのことばの言い換えとして、次のことばを紹介した。「神さま。私に何をしてほしいのか、すべてはわかりません。でも、私が好むと好まざるにかかわらず、聖書を通してあなたが語っていることなら何でもします。そして、あなたが私の人生に起こすことすべてを、私が理解できるかどうかにかかわらず、忍耐をもって受け止めます」。まさしく、主のはしためとは、このような姿勢である。私たちは、自分のわがままや、自分のおくびょうさを思うたびに、自分が「主のはしため」であることを思い出したい。

第四は、神の国を待ち望む姿勢である。51節以降の「主は御腕をもって」というみわざは、神の国の完成によって実現を見る。大国の圧政に苦しめられてきたユダヤ人たちは、当時、諸外国の上に君臨するユダヤ人の王国を求めてきた。メシアが出現し、メシアが強者から弱者を守り、反撃に出て復讐し、剣によって帝国を築いてくれるのだと。それは戦争と征服の帝国である。だがまことの神の国は、武器や戦争によってもたらされるものではなく、十字架と復活とによって、そして御霊によってもたらされるものなのである。それは貧しい者、飢えたる者、泣く者たちが慰めを受ける国である。私たちも、「御国が来ますように」と、この神の国の訪れを期待をもって待ち望もう。そこでキリストは王の王、主の主として全き平和をもたらしてくださるだろう。