いよいよイエスさまの誕生の物語に入る。今日の記事は、御使いガブリエルの御告げの場面である。一般に受胎告知として知られている。これより半年前のこと、ガブリエルは祭司ザカリヤの前に現れ、やはり誕生の告知をしている。バプテスマのヨハネの誕生の告知である。前回はその記事をご一緒に見た。

今度、ガブリエルが訪れたのは、ナザレという町に住むひとりの処女のところであった(26節)。「ナザレ」(原音表記ナザレト)という町はガリラヤ地方に属する町であるが、旧約聖書にも外典にも出て来ない。紀元一世紀の著名なユダヤ人歴史家にヨセフスがいるが、彼の書物にも出て来ないし、ミシュナ、タルムードといったユダヤ教のラビの文献にも出て来ない。それくらい名もない町だった。民家は数十軒で、人口は多く見積もって500人ぐらいではないかと思われている。ヨハネ1章46節では、「ナザレから何の良いものがでるだろう」と言われてしまっている、卑しめられていた集落であった。「処女」ということばは若い結婚適齢期の女性を指すことばで、男性を知らない女性に適用されていた。

ナザレの処女について、もう少し詳しい説明がある(27節)。「ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけ」とある。ヨセフに関してはマタイ1章で説明があるが、同じくナザレ在住の男性で大工であった。「いいなずけ」というのは婚約を意味するが、これには説明がいる。当時の男女の婚約であるが、二人はまず、ぶどう酒の杯を口にし、神と両家の前で婚約した。この婚約は現代の婚約と違って拘束力はものすごく強い。現代で言えば、役所に提出する婚姻届に匹敵する。結婚に匹敵するということである。だから婚約解消というのは離縁するという表現がとられていた。婚約から結婚までは約一年の期間があるが、この婚約期間にどちらかが貞節を破るようなことがあれば重罪に処せられる。この婚約期間にマリヤはみごもってしまうことになる。マタイ1章ではヨセフの苦悩をうかがい知れる。ヨセフは、マリヤの胎にいる子の父親は自分ではないと知っていた。この場合、通常、考えられるケースは次の二つである。一つは、マリヤが他の男性と合意の上で関係をもってしまった。この場合、律法のさばきによれば、マリヤとその男性は死罪(申命記22章23,24節 石打ちの刑)。もう一つのケースは、マリヤが他の男性に強姦された。この場合、男性だけが死罪(申命記22章25節)。マリヤは死刑にはならないが恥をさらすことになる。そして当時、処女でなくなった女性と結婚してはならないという規定もあった。マタイ1章19節では、「夫のヨセフは正しい人であったので、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」とあるが、ヨセフは後で御使いを通して事情を呑み込むようになる。

処女の名前の「マリヤ」(新改訳2017「マリア」)はありふれた女性の名前であった。原音表記は「マリアム」で、これはモーセの姉のミリヤムのギリシャ語読みである。名前の意味はよくわからないが「高められた人」といったところであろうか。当時、日本名で言えば花子さんみたいな平凡な名前にすぎない。

二人の結婚年齢はよくわからないが、当時のガリラヤ男子は25歳ぐらいから結婚したと言われる。女性の場合は14~15歳で結婚したのでないかと言われているが、皆一様にこの頃に結婚したと判断する必要もなく、マリヤの場合、もうちょっと年齢が進んでいた可能性もある。

マリヤはこの婚約期間に驚くべき御告げを受ける(28節)。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」。「おめでとう」<カイレ>の直訳は「喜びなさい」であるが、これは挨拶のことばで、当時の挨拶の慣用句である。「ユダヤ人の王、万歳」(マルコ15章18節)の「万歳」がカイレ。「先生、お元気で」(マタイ26章49節)の「お元気で」がカイレ。カイレは特別な祝福のことばというのではなく、ギリシャ語の挨拶の一般的な表現。「こんにちは」と訳してもいい。特別なのは続く表現である。「恵まれた方」。福音書ではここにしかないことばで、丁寧に訳すと、「大いなる恩恵を施された方」となるだろうか。私たちがちょっと口にする「今日は恵まれた」程度ではない。それはナザレの小娘に対する神のみわざがどのようにすばらしいものであるかを想像すればわかる。そして「主があなたとともにおられます」。これは祝福のしるしであるが、このことばは、一番最初にモーセに対して使われており、ホレブの山でモーセを召し出すときに神が言われたことばである。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」(出エジプト3章12節)。こうしてモーセは召し出され、特別な使命を受けた。マリヤもモーセのように、神からの特別な使命を担わされる予感がする。

マリヤはいったい何のあいさつなのだろうと戸惑う(29節)。「ひどくとまどって」とは、少々の不安を指すことばではない。「大いに当惑させられる」「大いに困惑させられる」「大いに心騒ぎ」といった意味である。マリヤは、よその男が急に来て挨拶をしてきたから大いに心騒いだということだろうか。テレビ局の人がアポなしにカメラを持って訪ねてきたら驚くだろうが、それ以上のことである。当時の文化では、男が見知らぬ女性にあいさつをするのはタブーであった。それだけでも、えっ?となる。マリヤは、相手の姿も普通ではないと直感しただろう。正体は御使いだった。しかし、それだけではなく、「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」とあるように、マリヤをひどく戸惑わせたのは、挨拶の内容も関係していたことはまちがいない。「『大いなる恩恵を施された方、主があなたとともにおられる』なんて、いったい何なの?」と。全く、期待も予期もしていなかった挨拶のことばであった。ひどく混乱しただろう。

御使いは、マリヤに「こわがることはない」と安心のことばを投げかけて、「あなたは神からの恵みを受けたのです」と語る(30節)。御使いは、「恵まれた方」と言った後、また恵みを強調している。恵みとは、それを受けるに値しない者に与えられる神からの恩恵である。マリヤは卑しい町の名もない小娘である。田舎に生まれて田舎で育った田舎の小娘にすぎない。だが彼女は選ばれて、予期せぬかたちで圧倒的な恵みを受ける。それはありえない恵みである。それは一言で述べると、田舎娘がメシアである神の子を出産するということであった。

「御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名前をイエスとつけなさい」(31節)。「イエス」は原音表記では「イエースース」。ヨシュアのギリシャ語読み。「主は救い」「主は救い給う」という意味である。名付け親が御使いになっている点では、13節のヨハネと同じであるが、この名前の意味に、生まれて来る男の子の性格が言い表されている。この男の子は、いわば「御救い」君である。

御使いによる受胎告知というのは、エリサベツとマリヤが初めてではない。旧約でも事例があった。アブラハムの妻サラ(創世記18章)、アブラハムのそばめハガル(創世記16章)、サムソンの母親マノア(士師13章)。マノアの場合、それが御使いであると気づくのにはかなり時間を要した。マリヤの場合、どの時点で相手が御使いであると気づいたのかはわからないが、挨拶に続くことばを御使いからのものとして受けとめていると言って良いだろう。

御使いは男の子がどのような者になるのかを告げる。それはメシアの性格を表すもので、ユダヤ人が聞けば、メシアであるとわかる表現である。「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」(32,33節)。幾つかの表現を説明すると、「いと高き方」とあるが、ヘブル語の「いと高き神<エル エルヨーン>」に対応していて、意味するところは唯一神、超越神である。そのお方の子であるということである。「ダビデの王位・・・その国は終わることはありません」とあるが、ダビデに与えられたメシア預言をユダヤ人たちは知っていた(第二サムエル7章12~16節)。その他、詩篇、イザヤ書等の各預言書に類似の表現がある。ユダヤ人たちはダビデの末からメシアなる王が出現することを待ち望んでいた。マリヤも待ち望んでいたひとりである。

マリヤの反応はどうだっただろうか。「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに』(34節)。マリヤはまた戸惑いを見せる。メシアという男の子を宿すことでさえ驚きなのに、その男の子を処女である自分が宿すということに戸惑いを見せる。「どうしてそのようなことになりましょう」というのは、「ありえない、信じないわ」という否定的反応とはちょっと違う。「どういうふうにしてそのようなことが起こるのでしょう。私にはわからない。だから知りたい」という反応である。「普通、処女には起こりえないことだけれども、どうしてそのようなことが起こるのでしょう」という質問である。「わたしは、まだ夫ヨセフと同居生活に入っていないのに、どういうふうにしてそれはあるのでしょうか」という質問である。処女と出産の間が、頭の中でつながらないわけである。

御使いは答える。「御使いは答えて言った。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます』」(35節)。「聖霊があなたの上に臨み」と「いと高き方の力があなたをおおい」は、平行文で同じことの言い換えである。「いと高き方の力」とは聖霊のことである。聖霊がマリヤの上に降り、臨在し、おおう、ということである。それで出産ということである。こうして、処女マリヤの出産は、人の欲求によらない、人手によらない、完全なる神のみわざであることが証されるのである。

これを受けとめることはマリヤ本人にとって大きなチャレンジとなるので、御使いはマリヤに励ましのことばを送る。「ご覧なさい。あなたの親類エリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、もう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません」(36,37節)。

マリヤの信仰を物語るのは、これを受けてのマリヤの反応である。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(38節)。これまで不妊の女が出産した事例はあった。イサクを産んだサラ、サムソンを産んだマノア、サムエルを産んだハンナ(第一サムエル1章)、直近でエリサベツ。そして、サラ、エリサベツは重ねて超高齢出産であった。だが、ここでは全く前例のない処女の出産である。男女の関係はないのである。不妊であるとか、高齢であるとか、そういう医学的問題以前である。しかも前例はないのである。しかしながら、マリヤは、「神にとって不可能なことは一つもありません」のことばを受けとめ、処女出産をすぐに信じた。サラでも信じるには時間がかかった。老いぼれの私に何の楽しみがあるのかと。エリサベツの夫ザカリヤは出産を御使いガブリエルから告げられたとき、すぐには信じることができず、しるしを求めたりして、ものが言えなくなってしまうという期間限定のさばきを受けた。だがマリヤは、男女の営みなしの出産という世界初の御告げにもかかわらず、信じるまで何日も費やしたというのでもなく、しるしを求めたというのでもなく、すぐに素直に信じた。ハイ分かりましたと潔く良く信じた。ガリラヤの片田舎に驚くべき信仰の人あり、である。「おことばどおりこの身になりますように」と、神のことば、神の約束を、迷わず、疑わず、即、信じた。単純に信じた。これは神のことばを信じる信仰でもあった。先の37節の御使いのことば、「神にとって不可能なことは一つもありません」は、「神のことばには不可能は何一つありません」とも訳せるが、マリヤは「おことばどおり」と信仰の受け止めをした。このあっけない受けとめには驚かされる。

そして、これは、神にとって不可能はないと、ただ信じたというだけではない。神に我が身を差し出す謙遜な献身の姿勢が伴っていたということである。「ほんとうに、私は主のはしためです」。「はしため」は「女奴隷」の意味である。身を低くして、徹底して主に仕える姿勢の表れである。それは、「あなたのみこころのままに私をお使いください」という姿勢があるということである。「あなたのおことばどおりこの身になりますように」、「我が身にあなたのみこころがなりますように。我が身をあなたにお献げします。みこころのままにお使いください」という献身の姿勢である。実に潔い。清々しい献身の姿勢である。単純に信じて、潔く我が身を差し出した。

旧約聖書を見ると、そうではなかった物語が様々記されている。モーセは献身の勧めに対して、何度もたじろいだ。「ああ主よ。どうぞ、ほかの人を遣わしてください」と言って、主の怒りが燃えあがったとまである(出エジプト4章13,14節)。士師として召されたギデオンは、やはり、「ああ主よ。弱い、若い」と言ってしりごみし、何度もしるしを求めた(士師記6章)。ヨナはニネベに遣わされたが、行きたくなくて反対方向のタルシュシュへ逃げた。そして、あとでようやくニネベへ向かった(ヨナ書)。「我が身にあなたのみこころがなりますように」と即、応答した信仰者は案外少ない。現代の献身の証を読むと、私では無理です、だめです、そう言って、最初ためらっていた証が多い。ヨナのように逃げていて、交通事故に遭ってから、ああわかりました、お従いします、といったものまである。

マリヤには不信仰もへりくつも迷いも何もない。謙遜であるがおくびょうで引っ込み思案ということではない。みこころのままに献げる意志が固まっている。ひるんではいない。潔く献げた。真のしもべの姿勢があった。なぜ私ですか?なぜこの時ですか?なぜ私がこんな重大な役目を担わされるのですか?ちょっとお待ちください、いったいこれからどうなるんですか?と御託は並べない。とにかく潔い献身である。ある方は、マリヤのことばを次のように言い直している。「神さま。私に何をしてほしいのか、すべてはわかりません。でも、私が好むと好まざるにかかわらず、聖書を通してあなたが語っていることなら何でもします。そして、あなたが私の人生に起こすことすべてを、私が理解できるかどうかにかかわらず、忍耐をもって受け止めます」。私たちもマリヤと同じ、主のはしため、主の奴隷であることを覚えて、マリヤと同じ姿勢を保ちたい。

最後に、第一コリント6章20節を開こう。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」。私たちは、キリストの十字架の犠牲によって、代価を払って買い取られた主の奴隷である。自分の力を超えていることを命じられるかもしれない。思いがけないことをするように導かれるかもしれない。自分は何もできない者だと思う私たちがそこにいる。どうしてこうなるんですかと、つぶやきたくもなる。先のこともどうなるかよくわからない。ですがマリヤとともに、「私のからだを通してあなたの栄光を現せてください。私をお使いください。あなたのみこころがなりますように」という姿勢を表していきたい。