1章5節からルカの福音書の本文に入る。今日は一組の老夫妻が主人公である。福音書を読むと、キリストの生涯を描くにあたり、バプテスマのヨハネの活動から描くことが通例であったことがわかる。四福音書すべてがバプテスマのヨハネの活動の記事を先行させて描いている。その中で、ルカの福音書の特徴は、バプテスマのヨハネの出産のエピソードまで描いているということである。

バプテスマのヨハネは預言者であるが、実は、ユダヤには300年間、預言者は現れなかった。旧約聖書には神に召された預言者が数々登場するが、この300年の間、預言者は現れなかった。しかし、救い主の来臨を前に、神はひとりの預言者を起こす。

時は、「ユダヤの王ヘロデの時」(1節前半)であった。ヘロデがローマ帝国の承認を得てユダヤの王に着任したのは紀元前37年。今日の記事は神殿での出来事から始まっているが、彼は紀元前20年から神殿建築に着手している。彼が亡くなったのが紀元前4年。その時までユダヤの王であった。その間の出来事ということになる。他の箇所との整合性で、紀元前4年前の一桁台の出来事ということになるだろう。

この頃、「ザカリヤ」という祭司がいた(5節前半)。意味は「主が覚えていてくださる」。彼は「アビヤの組の者」とあるが、ヤクザではない。第一歴代誌24章7~20節を見ると、祭司は全部で24組あったことがわかる。アビヤの組はそのうちの一つである。祭司やレビ人たちは神のさばきであるバビロン捕囚の苦難を経て、イスラエルに帰還した。彼らは過去の堕落を繰り返してはならないと、職務に励んだだろう。ただ、この頃、祭司の任命権は悪王であるヘロデ王にあり、祭司たちの中には、ヘロデのご機嫌を伺いながら職を務めていた者たちもあり、皆が敬虔な者というわけではなかった。その中で、ザカリヤは違っていた。

妻は「エリサベツ」である(5節後半)。彼は「アロンの子孫」と言われているが、アロンはモーセの兄である。エリサベツのへブル名は、アロンの妻のエリシェバである(出エジプト6章23節)。意味は「主は誓い」。エリサベツは祭司かレビ人の娘といったところであろう。

ザカリヤとエリサベツ、このふたりはどのような人物であったのだろうか。6,7節で「ふたりとも」という表現が二回登場している。まず、ふたりとも、「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた」。ふたりとも、敬虔な生活を送っていたカップルであった。次に、ふたりとも「もう年をとっていた」。かつ、エリサベツは「不妊の女だった」。なんとなく、ふたりの姿に、信仰の父祖と呼ばれるアブラハムとサラのカップルを思い起こす。サラも不妊の女で、アブラハムが100歳でサラが90歳の時にイサクが誕生した。では、ザカリヤとエリサベツは何歳くらいだったのだろうか。祭司職というものに定年はないので、かなりの老齢になっても務めることはできるが、それでも、アブラハムとサラの年齢までは達していなかったと推測される。60代、70代、年齢がいっても80代までがいいところかもしれない。そんなふたりの悩みは「彼らには子がなく」が端的に物語っている。エリサベツが不妊というだけではなく、どのみち老齢に達していて、医学的に身ごもることは不可能。彼らが子どもを授からないというのは、神のさばきということではない。6節で見たように、ふたりは非の打ちどころのない生活をしていた。だから、子どもを授からない理由は、神の主権による神秘としか言いようがない。彼らは子どもがいないという悩みを共有して、この年まで生きてきた。

ある日のこと、ザカリヤに神殿で香をたくという仕事が回ってきた(8,9節)。「くじを引いたところ」とあるが、この仕事はくじ引きで決めることが慣例だった。くじ引きに参加する祭司はどのくらいいたのだろうか。ヨセフスという歴史家は当時のユダヤ教のことを「それぞれ五千人以上の人員を要する四つの祭司族がある」と言っている。これを信頼すれば、祭司の人数は5千×4で、2万人の祭司がいたことになる。もう少し正確にわからないかということで、1万8千人という記録もある。仮に祭司の人数が1万8千人であった場合、祭司一組は平均して750人もいるということになる。一組の祭司の中で香をたけるのは、一年間で14人と決まっていたとも言われる。しかも、毎回毎回、だれが香をたくかはくじ引き。750人で一年間で14回くじを引いて当たった人だけが香をたく。ただ組によって人数の多い少ないはあったわけで、アビヤの組は500人であったのか、600人であったのか、700人以上いたのか、実際のところはわからない。いずれにしろ、くじ運なので、一生の間、一回も香をたけない祭司も出て来る。香をたけるというのは、この世的な言い方をすると、ほんとうに運がいいということである。ザカリヤが香をたくという務めは、これが最初で最後であった可能性が高い。ザカリヤがくじを引いて当てたということは、運が良かったというよりも、聖書的には、主の御手が働いたということである。

これは聖なる務めなので、緊張しただろう。香壇は神殿の垂れ幕の手前にあったと言われているが、50センチ四方のサイズで高さは1メートル。金で覆われていたと言う。香をたくというのは礼拝や祈りのシンボルであった。「彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた」(10節)。

ここまでは普通の光景だが、とんでもないことが神殿内で起きた。主の使いの降臨である(11節)。ザカリヤがどんなリアクションをとるかは目に見えている(12節)。おそらく生まれて初めて見る御使いの姿。その神々しさに心臓が止まりそうになっただろう。失神はまぬがれた。この御使いはザカリヤに語りかける。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい」(13節)。「あなたの願いが聞かれた」とあるが、ザカリヤの願いとは何だろうか。子どもが与えられること…である。ふたりは神に仕える子孫を夢見ていたはずであるが、与えられることはなかった。

生まれてくる子どもの名付け親は御使いだった。だから、特別な存在であることがわかる。名は「ヨハネ」。その意味は「主はあわれみ深い」または「主は恵んでくださった」。ザカリヤたちは、ヨハネの名前の意味に、文字通りアーメンで、主が授けてくださったいのちということをくみ取り、主の御用にかなう人になるようにと育てただろう。この後、御使い自身が、この子は特別な御用のために召されていることを告げる。

御使いの語りかけは続く。生まれて来る男の子は誕生するとどうなるのだろうか(14~17節)。まずその子の誕生を親も周囲も喜ぶことが告げられた(14節)。そして驚くべきことは、直截的には告げられていないが、マラキ書で告げられている預言者となるということである。17節に「エリヤの霊と力で主の前ぶれをし」とある。マラキ書を二か所読もう。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」(マラキ4章5,6節)。「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える」(同3章1節前半)。イスラエル人はこの預言を信じており、預言者エリヤが再び出現すると信じていた。キリストはやがて言われる。「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」(マタイ11章14節)。ヨハネは旧約時代最後の預言者となるが、彼の務めは人々が救い主を迎え入れるために、彼らの心の道を整える働きをするということである。心の道路工事、具体的には悔い改めさせるという働きである。それは「立ち返らせ」(16節)、「立ち戻らせ」(17節)ということばからもわかる。もう一つ心に留まる特徴的なことば、「父たちの心を子どもたちに向けさせ」(17節)である。これも先ほどのマラキ書の引用であることがわかるが、これは家族の関係が回復し、信仰継承が正しく行われることを暗示している。特に両親は心に留めておきたいみことばである。ヨハネはやがて、歯に物を着せない言い方で、位、身分関係なく、人々に悔い改めを迫ることになる。

御使いはヨハネの働きを口にする前に、ヨハネが特別な神の人であることを示す特徴について、15節で語っているので、そのことも触れておこう。「ぶどう酒も強い酒も飲まず、また母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」。旧約聖書を見ると、大祭司であるアロンとその子孫に対して「ぶどう酒や強い酒を飲んではならない」(レビ10章9節)と命じられている。また神のために献身し、特別な請願を立てる人をナジル人と呼ぶが、条件の一つとして、「ぶどう酒や強い酒を断たなければならない」(民数記6章3節)と命じられている。ヨハネはこういった人たちに匹敵する神のために聖別された人物であった。また、使徒パウロは酒に言及して、「酒に酔ってはいけません。・・・聖霊に満たされなさい」(エペソ5章18節)で命じているが、ヨハネは母の胎内にいる時から聖霊に満たされることが言われている。聖霊が与えられるというのは預言者のしるしの一つである(第二列王2章9~16節)。預言者は聖霊によって神のことばを語る。

さて、ザカリヤは御使いのお告げを受けてどう反応しただろうか。願いがかなえられると大喜びしただろうか。反応は前向きではなかった。「そこで、ザカリヤは御使いに言った。『わたしは何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。』」(18節)。ザカリヤの願いは子どもが与えられることではなかったのか。子どもがほしいという年来の祈りがあったことは事実だろう。だがこの頃はあきらめに支配されていたわけである。御使いのことばを素直に信じることができなかった(20節参照「わたしのことばを信じなかったからです」)。ザカリヤは、「あなた様の言ったことは信じられない。年寄りの両親が子どもを生むなんて」ということである。だが、過去、アブラハム夫婦の事例があったわけである。

18節の「わたしは何によってそれを知ることができましょうか」という表現に改めて注目してください。これは、しるしを求めているということである。旧約聖書を読めば、神の約束が成就するためのしるしを求める物語が幾つか記されている。ユダヤ人はしるしを求める民族である。この場合、ザカリヤは不信仰からしるしを求めたということになる。では、しるしは与えられただろうか。与えられはしない。その必要はない。なぜなら、「御使いは答えて言った。『私は神の御前に立つガブリエルです』。」(19節前半)。聖書の中で名前を与えられている御使いは「ガブリエル」と「ミカエル」のみである。「ガブリエル」はダニエルに神のことばを伝えた御使いである(ダニエル8,9章)。天使群のトップの存在である。この名前を祭司のザカリヤが知らないわけはない。19節の冒頭の原文は、<エゴー エイミ ガブリエル>であり、これは通常の自己紹介の表現ではなく、「わたしはカブリエルである」と、威厳をもって自分の存在を明かした表現である。これでもしるしは必要かと言わんばかりに。

御使いが語ったことばは権威ある神のことばであり、信じるに値するものであった。それは19節後半で言われているように「喜びのおとずれ」であった。だが、すぐさま信じることができなかったザカリヤにはさばきが宣告される。「ですから、見なさい。これらのことが起こるまでは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは時が来れば実現します」(20節)。期限付きの一定期間のさばきと言えども、このさばきは厳しすぎるさばきのようにも思えてしまう。年老いた存在にとって出産が信じられないというのは当たり前ではないかと。しかし、ザカリヤだからこそ信じることを期待されたと言えるだろうし、また誕生するのは歴史の転換点となる救い主の先駆者となる存在。その誕生の告知なのでさばきの基準は厳しくなった。と言っても、確かに信じるのは難しいことであったので、そのさばきは期限付きである。誕生して間もなくしてザカリヤは口が利けるようになる(1章64節)。口が利けない間、彼は厳粛な思いにさせられ、主の前に心低くされただろう。ただそれだけではなく、男の子の誕生を待ち望む信仰が養われ、賛美の心がエリサベツとともに湧き上がっていっただろう。

神殿の外の人々は、神殿内でザカリヤが御使いと会見していたことなど知る由もない。けれども、異常に気がつく。ザカリヤが神殿から出て来るのが余りにも遅い(21節)。ようやく出てきたが、口が利けないままであった(22節)。当時は神殿から出ると、祝祷をささげるのがならわしだった。けれども、祝祷のことばも出せない。後のことも身振り手振りでやるだけだった。人々はザカリヤが神殿で幻を見たのだと理解したようである。

くじ引きで選ばれた祭司の務めの期間は一週間だった。彼は口が利けないまま務めを為し終え、自分の家に帰った(23節)。ザカリヤは事の次第を妻のエリサベツに伝えたわけだが、書いたり、身振り手振りで、意思の疎通を図っただろう。本人には申し訳ないが、想像すると楽しい。本人はもどかしく大変であったと思うが。エリサベツは事の次第をすぐに飲み込めたのだろうか。またすぐに信じることができたのだろうか。

その後、エリサベツは身ごもり、五か月の間、老いた身ということもあってか安静にしていたようである(24,25節)。その時の彼女のことばが記されている。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました」。子どもがいないことは恥というのがユダヤの文化であった。彼女は想像以上の恥意識を負って生きてきたことが伺える。「人中で」とあるので、それは人目を気にした恥意識である。けれども彼女は今、神の目を意識している。「心にかけられ」を新改訳2017も協会共同訳も、「目を留め」と訳しているが、このことばは「目を留める」という意味のことばである。これと同じ意味のことばが、実はマリヤにも使われている。「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです」(ルカ1章48節)。老女と田舎娘が「主は私に目を留めてくださった」と告白しているのである。この世の人たちは、人目を意識して悩みに陥り、不安、恐れといった感情に捕らわれるだけである。まだ誰も目を留めてくれないと絶望の淵に追いやられるだけである。だが信仰者は「神が目を留めてくださる」と、神の目を意識して安らぐことができる。取るに足らない者、弱い者、貧しい者、小さき者、しいたげられている者、無に等しい者、そうであっても、神が目を留めてくださるという幸いにあずかれるのである。「だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し、身を低くして天と地をご覧になる。主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、彼らを君主たちとともに、御民の君主たちとともに、王座に着かせられる。主は子を産まない女を、子をもって喜ぶ母として家に住まわせられる。ハレルヤ」(詩編113篇5~9節)。神は私たちにも目を留めてくださるお方である。そして、あわれんでくださる。それぞれの人生の営みは異なる。けれども、神が目を留めてくださったという証を必ずいただける。神はこれからも私たちに目を留めてくださるお方である。そして、ご自身の素晴らしさを現わしてくださる。そのことをしっかりと信じて、主なる神の前に心低くし、あらゆる時に主なる神をほめたたえていこう。