伝道者の書7章21節では、噂、陰口のたぐいの対処法について教えている。「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ」。私たちが一歩外に出れば、世間話の世界がある。それに注意を奪われるとひどいことになる。いつも自分と一緒に暮らしている人ですら、いつも自分をほめているばかりとは限らない。それらにいちいち神経過敏になって耳を傾けていたらどうなるだろうか?また犬のように抜群の聴力をもっていたらどうなるのか?あの人の身に着けているものはどうだとか、ヘアスタイルはどうだとか、いろいろ耳に入ってくる。常に非難にさらされていたダビデ王のことばに耳を傾けてみよう。「しかし私には聞こえません。私は耳の聞こえない者のよう。口を開かず、話せない者のよう。まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです」(詩編38:13~15)

噂の対処法の第一番目は、聞こえない耳、話せない口をもつことである。まず聞こえない耳をもつことについて考えよう。ある人は自分をののしった人に対して、「あなたはご自分の舌の支配者ですが、私も自分の耳の支配者です」と言ったそうである。良くない噂話とか、人の蔑みのことばとかに、耳を閉ざすことである。もしどうしても聞かなければならないのなら、それらを心にとどめないで忘れることである。「あの時、こう言われた、ああ言われた」と、そのようにして心に留め、探求して、分析していたら、解決するものも解決しなくなる。自分の心の健康にも悪い。ある人は、噂話というかたちで皆さんを助けようとするかもしれない。「Aさんはあなたの隠れた敵ですよ」「あなたはBさんとCさんを良く思っているようですが、それはまちがいです」「たまたま耳に挟んだのですがDさんとその奥さんは仲が良くないそうです」「E夫人が言っていたのですが、彼女とF夫人はこんな話を立ち聞きしたそうです。それはI夫人の言ったことで、J氏とK夫人がL氏にあなたの奥さんのことで失礼なことを言ったそうですよ。そもそもその話は、M老人が若いN青年に話したことが原因で、それをO夫人が小耳にはさんで・・・」うんぬんと、それらにいちいち耳を貸していたら、不健康な精神と事態に向かっていく。こんな詩があるそうである。「彼ら言っている 彼らは何を言っているのか 彼らに言わせておきなさい」。神経過敏な人はこのモットーを心に留めるべきである。神経過敏的な関心を抱いてはならない。噂話の、そこにしばし示される悪意や無情を嘆き悲しむ以外は、決して関心をもってはならない。聞こえない耳をもつことである。

併せて必要なことは、話せない口をもつことである。沈黙に徹することである。沈黙によって自らの無実を守り、評判は神にまかせることである。ある男性は女性との仲を誤解され、不倫しているといううわさをばらまかれた。もっと悪いのは、その男性が名誉挽回のために、その問題を徹底して追求したということである。中傷した噂に関与した人たちを集め、責め、法的手段に訴えるとまで言っておどした。こうしてトラブルは広がり、彼の評判は前よりも落ちてしまった。彼が聞こえない耳をもち、話せない口をもっていたなら、事の被害は最少で済んだ。「人の噂も七十五日」ということわざは一理ある。噂というのは大体虚偽を多く含んでいる。そういうものはやがて消滅する。ある人は、「うそはほうっておけば、水からあがった大きな魚のようなもので、あちこちをのたうちまわって、短時間のうちに死んでしまう。だから、虚言に答えると、水を供給して、魚が長く生きるのを助ける結果となる」と言っている。その通りである。それにまた、私たちは聞こえない耳、話せない口に徹することができるのは、すべてをご覧になり、すべてを聞いておられ、真実を知っていてくださる裁き主である神にゆだねることができるからである。それはダビデの、「それは主よ、私があなたを待ち望んでいるからです」という姿勢に見ることができる。ダビデは主を待ち望んでいたがゆえに、真っ逆さまに突き落とされはしなかった。敵から守られた。

噂の対処法の第二番目は、相手が私たちに敵意や不親切な思いを向けてきても、私たちは同じマイナスエネルギーを相手に向けてはいけないということである。ある人の次の体験は参考になる。「私自身へのほんの少しの敵意があると気づいた時、私はやむを得ない場合を除き、できるだけ、その敵意の存在を認めないようにした。一方、敵対するその人には、ことさら好意的、友好的にふるまおうとした。すると、その問題については、決してそれ以上のことを聞くようにはならなかった。かりに私が、その人を敵視したりしていたなら、相手も全力をあげて私に敵対してきたことであろう」。この人は相手に対してマイナスエネルギーを向けなかった。そして好意的、友好的にふるまった。また、この人は、相手がかつて自分に対して耳障りなことを言ったことを、その相手に思い出させてはならないとまで言っている。この方がこれを実践できているのは、キリストの十字架の愛を知ったからである。

「あなたの敵を愛しなさい」と言われたキリストは、人として33歳の時に裁判にかけられる。それは当時の権力者や宗教家からのねたみによった。聖書を見ると、キリストを死刑にするために多くの者が偽証したことが記されている。それに対してキリストは口を開かなかった。裁判の席についていた者が「何も答えないのですか。この人たちがあなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか」と尋ねたが、キリストは沈黙したままであった。ただキリストは、ご自分が救い主であり、神と等しい者であることを証するにとどまった。さらに、聖書を見ると、キリストは「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Ⅰペテロ2:23)とあり、詩編38編のみことばを地で行ったことがわかる。私たちもキリストに倣おう。