今年度3月までのテーマは「御霊に導かれて」(ローマ8章14節)である。今日は歴史的な視野に立ち、聖霊が世界の始まりから終わりまで、私たち人間にどのようにかかわってくださるのかを学び、総括としたいと思う。

聖霊は創世の時より、すなわち、世界の始まりの時より働いている。創世記1章1節には「初めに、神が天と地を創造した」とあるが、続く2節で、「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」と記されており、地球誕生も聖霊の働きであることを示唆している。もちろん、この創造の働きは御子キリストにも帰せられる。「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。・・・万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子によって成り立っています」(コロサイ1章16,17節)。2世紀に活躍したエイレナイオスは、御子と聖霊を「神の両手」と呼んだ。神の三位一体をからだでたとえた表現である。確かに、御子と聖霊という神の両手が世界を創造したのである。

当然のごとく、聖霊は人間の創造にもかかわった。「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、血をはうすべてのものを支配するように』」(創世記1章26節)。人間のもつ人格、それが神のかたちであり、神に似せて造られたしるしである。ここで唯一の神が「われわれ」と複数でご自身を表現しているが、三位一体の暗示であると良く言われる。エイレナイオスは人間の創造について言う。「人は初めに、神の両手によって、すなわち、御子と聖霊によって造られ、神のかたちと類似性に従って造られた。」

ご存じのように、人間は神の意志を機械的に行うロボットとして造られたのではない。自立性、自由意志をもつ存在として造られた。善と悪を自分の意志をもって選び取り、自分の意志で神に従い行く者として造られた。自由な判断で自発的に神のみこころを行う存在として。だが、人間は失敗を犯した。人間の祖先であるアダムとエバは自分の意志で神の命令に背いて罪を犯した。善とは神への従順であり、罪とは神への不従順である。この神への不従順と善の喪失が引き起こした代償は大きかった。神のかたち、神の似姿が損なわれ、腐敗が人のうちに起こった。いわゆる「霊、たましい」と呼ばれる、神のかたちに神に似るようにされた人間の本質的なものが損なわれた。罪が入った。そして人は神から断たれ、死ぬ者となった。この堕落の性質を全人類が引き継ぐことになった。罪を犯さない人間はいなくなってしまい、人間は容易に、不従順、背信ということに傾斜していくことになる。

ご存じのように、神はこのような状態をあわれみ、御子キリストを通して人間に救いの道を備えられた。それはただ人間を罪の刑罰から救い出すということだけではなく、ポンコツ車を全く新しい車に再生してしまうように、罪ある人間を完全なあるべき姿に回復させることである。では神の救いとは、私たち人間を罪を犯す前のアダムに姿に戻すということなのだろうか。そうではない。人間の先祖であるアダムとエバは造られた時点で完全な成熟した姿であったわけではない。アダムは造られた時点で霊的にはまだ幼子だった。エイレナイオスはアダムについて次のように言う。「ちょうど母親が幼児に完全な食物を与えることができても、〔幼児は〕まだ堅い食物を受け取ることができず、同様に、神ご自身も初めから人に完全さを与えることはできたが、人がそれを受け取ることができなかったのである。つまり幼児であった」。造られた当初のアダムが私たちの最終目標ではない。私たちの最終目標は「最後のアダム」(第一コリント15章45節)と言われるキリストである。このキリストに似るために働かれるのが、キリストの御霊と呼ばれる聖霊である。

聖霊は、アダムとエバの堕落の後、旧約時代において、人間に対して教育的な働きをされることになる。それは新約時代も変わらないわけだが、旧約時代は、特に、預言者を通してその働きがあった。「あなたの預言者たちを通して、あなたの霊によって彼らを戒められました」(ネヘミヤ9章30節)。預言者は神の霊によって、すなわち聖霊によって神のことばを語り、教えた。あのモーセも預言者と呼ばれている。預言者は神の道を教え、また救い主の到来も語った。これらのことばは、やがて聖書に書き記されることになる。

新約の時代は、約束された救い主イエス・キリストの来臨によって始まる。キリストは神を現わす神、目に見えない神が目に見える神となってくださったお方である。ヨハネの福音書はそのことを啓示している。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1章1,14節)。キリストは神を見せて欲しいという弟子に対して、「わたしを見た者は父を見たのです」、すなわち、「わたしを見た者は神を見たのです」と断言された(ヨハネ14章9節)。神とはどのようなお方なのか、それを見誤ってしまい、ゆがんだ見方しかできないのが私たち人間である。特に、神の愛、恵み、あわれみという側面において。だが、人々は、キリストを見、キリストに触れ、キリストに聞き、三次元レベルで神を知ることになる。ただ、それがキリストのすべてではない。キリストは神を現わした神というだけではない。もう一つある。すなわち、完全な人間の姿はこれであると現してくださったまことの人であるということである。神のかたちに造られた人間の成長したゴールの姿はここにあるとお示しになった。キリストはまことの神がまことの人となられたお方である。完成した人間の姿である。地上生涯で罪をひとつも犯すことなく、神への従順を全うしてくださった。「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従う者に対して、とこしえの救いを与える者となり」(へブル5章8,9節)。アダムは善悪の知識の木のことで失敗を犯し、不従順となったが、最後のアダムであるキリストは十字架という苦難の木において従順を全うされた。この地上に完全な人間などひとりもいないと言われるが、キリストは唯一完全な人間である。人間の中の人間、完全な人である。最後のアダムであるキリストは、最初のアダムをしのぐ、人間の完成形である。人間の、そして神の子たちの最高のモデルである。聖書で言う救いとは、ただ罪の赦し、滅びからの救いというだけではなく、救いの完成として、このキリストの似姿に変えることである。このキリストの似姿に変えてくださるのが、新約時代における聖霊の働きである。

では、新約時代における信仰者に対する聖霊の働きを見ていこう。聖霊による信仰者に対する教育的な働きは旧約時代同様に続く。特徴的なことは、聖霊は、悔い改めと信仰をもってキリストを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けた者のうちに住んでくださるということである。聖霊の内住、内在である。旧約時代は臨在といった働きが目立っていたが、キリストが昇天された後の新約時代は、内在、内住という特徴が顕著である。私たちのからだに、たましいに、聖霊が住まわれるということである。

ヨルダン川でキリストがバプテスマのヨハネを通してバプテスマを受けた場面を思い起こしていただきたい。四福音書のすべてに記されている。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(マルコ1章9~11節)。このキリストの体験は私たち神の子どもたちのモデルである。キリストは私たち信仰者の長子と呼ばれるお方でもあるが、キリストに御霊が下った可視的な現象は、キリストに従う者たちにも御霊が下り、愛する神の子とされることを物語っている。そして神の子とされた私たちには聖霊が内住している。内在している。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラテヤ4章6節)。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものでないことを、知らないのですか」(第一コリント6章19節)。

聖霊が私たちのうちに内在、内住してどうしてくださるのだろうか。聖霊は私たちの救いの保証としてとどまっているというだけではない。私たちを霊的に成長させ、キリストの似姿に変えることがその目的である。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きです」(第二コリント3章18節)。ここで聖霊は「御霊なる主」と言われているが、聖霊は三位一体の神であることが証されており、その聖霊が「主と同じかたちに姿を変える」という働きをしてくださることが明言されている。先に見たように、「神のかたち」は罪によって損なわれ、歪められてしまった。しかし、「主と同じかたちに姿を変えられて行きます」という恵みに与る。聖霊を悲しませないで神への服従を選び取ることは私たちの責任であるが、キリストの似姿に変えてくださること自体は聖霊の働きである。成熟した完全な神のかたち、キリストの似姿に変えてくださるのが聖霊の働きである。

このキリストの似姿とは神の性質を身に帯びた姿である。「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(エペソ3章19節)。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」(コロサイ2章9節)。聖霊は神の性質を私たちに与え、私たちは、このキリストの似姿に姿を変えられて行く。だが、私たちはこの地上で完全な姿になるのではない。パウロは地上での完全を主張する者たちを念頭に置いて、こう語っている。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(ピリピ3章12節)。私たちの最終的完成はキリストの再臨によってもたらされる。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3章21節)。この時、土地のちりと同じ成分できたからだは、朽ちない栄光のからだとされる。ただたましいだけが完全にいやされ成熟するということだけではない。からだあっての人間である。このように救いの完成とは、からだ全体にまで及ぶことであると知る。聖書が言う救いは全人的な救いである。この朽ちない「栄光のからだ」を言い換えると、「御霊のからだ」となる。「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(第一コリント15章44節)。この御霊のからだを私たちに先がけてもたれたのがキリストである。「聖書に『最初にアダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生きた御霊となりました」(第一コリント15章45節)。最初のアダムは血肉のからだであるが、最後のアダムであるキリストは、復活の後、御霊のからだをもたれたということである。そして、やがて私たちもこの御霊のからだをもつということが第一コリント15章で論じられている。

神さまは、この姿にするまで、私たちをこの罪の世界に置く。それが神の思し召しである。いつまでこの世界にとどまっていなければならないのかと嘆息することもあると思うが、神のご計画に身を任せなければならない。私たちはこの罪の世界で揺さぶられ、自分の弱さや肉の性質にもがき、神に助けを求めることになる。キリストは私たちの弱さをご存じであられ、聖霊をもうひとりの助け主と呼んで、この聖霊を遣わすことを約束されたわけである。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためでにです。その方は真理の御霊です」(ヨハネ14章16,17節前半)。私たちは聖霊の助けによって神の子どもとして歩み、神の性質を身に帯び、成熟した大人へと成長のステップを踏んで行く。かつて神への不服従しかなかった私たちだが、神への服従、従順が喜びとなっていき、そこに安息を見出す。それまで親しんでいた罪は忌み嫌うものとなっていく。御霊の実を結んでいく。だが人間として未完成なので、諸々のことが誘惑に感じる。地上にいる間、罪との戦いは続く。試練もある。失敗も犯す。こうして、七転び八起きといったことを経験させられながらも、神との関係を築き上げ、成長して行く。聖霊の助けがそこにはある。

では、聖霊は具体的にどのようにして私たちを助けるために働いてくださるのだろうか。三つ挙げてみよう。明らかに一つは、聖書を通してである。聖書の真の著者は聖霊である。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(第二テモテ3章16節)。私たちの時代は、聖霊は聖書という神のことばを通して私たちに語りかけ、教え、導いてくださる。だから、聖書を閉じるなら聖霊の働きを拒むことになってしまう。またパウロは、霊的戦いに勝利を与えるという意味で、神のことばを「御霊の与える剣」と呼んでいる。「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」(エペソ6章17節)。受け取ったこの剣を捨てるならどうなるだろうか?敵にバッサリと切られ、敗北である。時代劇の話では済まない。

二つ目は祈りを通してである。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8章26節)。聖霊はとりなしの霊であり、祈りを通して私たちを助け、私たちのうちに、また周囲に、みわざを行ってくださるお方である。私たちはスラスラと祈れない時がよくある。あ~、う~。だが、内住の御霊がとりなしてくださるというのである。私たちは、そのようなことを気に留めないで祈ることが多いわけだけれど。

三つ目は、生活訓練を通してである。私たちの弱いところ、足りないところを矯正しようとして、ある出来事を用いたり、人を用いたり、書物を用いたり、悩みの炉で練ったり、様々な手段で私たちを訓練し、整える働きをされる。私たちのほうでは、素直に、謙虚に、聖霊の導きに従う信仰が大切になってくる。キリストのヨルダン川でのバプテスマの後の記事を見ると、「聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり」(ルカ4章1節)とあり、キリストでさえ荒野での訓練に導かれた事実が記されている。生活訓練というものは彫刻刀のような働きをする。望ましい姿に削り、形造るために。私たちの側は必然的に主と向き合うことになり、みことばと祈りを通して教えられ、神への服従を選び取ることを学んでいくわけである。

以上のようにして、私たちは霊的大人へと内側から成長させられていく。聖霊はそのために遣わされている。聖霊はキリストの御霊であるわけだが、覚えておきたいことは、キリストは人として私たちと同じ試みに会い、死に至るまでの従順を全うし、罪と死と悪魔に勝利してくださったキリストであるということ。そのキリストの御霊ということで、何にも増して助けになるのである。キリストの御霊は私たちのうちに内住し、内在し、助け、導き、キリストの似姿に形造ろうとしてくださっている。私たちはこうした聖霊の働きにあずかるのである。これは霊の現実である。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(第二コリント4章16節)。このみことばの前後では、地上にいる間は患難というものがあるけれども、私たちはやがてキリストの復活のからだ、栄光のからだにあずかることが言われている。だがここで、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」というのは、この地上での私たちの姿である。「内なる人は日々新たにされています」と、日に日に絶えず進歩する日進月歩のようなことが言われているが、自分の現状を見て、「旧態依然」という表現のほうが当てはまっていると思うかもしれない。信仰年数ばかり経ってと。だが、聖霊のみわざは、日々新たにすることなのである。それが聖霊の意志なのである。よどむ流れのように前に進めないでいる自分の弱さを思うときに、希望が生まれて来ないだろうか。自分の弱さだけに目を奪われてしまいがちな私たちだが、内住してくださっている力強い聖霊の意志と働きにあずかれることを心から感謝し、日々、主と真っ向から向き合い、日々、新たにされていこう。