今日で主の祈りの講解メッセージの最後となる。主の祈りには祈らなければならない要素のすべてが入っている。今日は最後の区分であるが、ここでの祈りは「守り」である。この守りとは、悪の誘惑からの守りである。その前の12節は、罪の赦しであった。この祈りを祈り、悪の誘惑からの守りを祈る。納得する順番である。

私たち人間は神に対して守りを願うことは多いだろう。日本人は良く「お守り袋」をぶら下げる。何からの守りを願っているのだろうか。健康の守り、交通安全といったことが多いかもしれない。それは誰しもが願うところである。だが、それだけの意味で、「今日一日も守られますように」と祈るだけなら、すなわち、悪の誘惑を意識しないで「守り」ということばを使うだけなら、主の祈りの精神からは逸れていく。私たち人間は肉体をもつ存在というだけではなく、霊、たましいをもつ存在である。これらが人間の本体と言って良い。霊、たましいが無防備であれば、武具を身に着けていない兵士のように、容易に傷を受け、大きなダメージを受けてしまう。主の祈りはこうした守りが強く意識されている。

「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」(13節前半)。では、この祈りを丁寧に味わっていこう。まず「試み」ということばに注目してください。この祈りは、「わたしを一切の試練から遠ざけてください」という祈りなのだろうか?確かに、「試み」とは「試練」と訳すことができることばである。けれども、このことばは「誘惑」とも訳すことができる。この主の祈りの文脈では「誘惑」を意味する。それは、続く「悪からお救いください」からも判断できる。ただ、試練と誘惑は関係のないものではないことを知っておきたいと思う。

参考として、ヤコブ1章2,12,13節をご覧ください。「試練」と「誘惑」ということばが登場している。原語は全く同じ<ペイラスモス>で、マタイ6章13節では「試み」と訳されていた。ヤコブは試練には価値を与えている。天の父なる神は、子どもたちを愛している。父は子どもを教育し、訓練する責任がある。昨年、作物の生長に関するドキュメントを幾つか見る機会があった。一つは稲の生長である。暴風雨で刈り取り前の稲が倒れてしまった。ある人が稲を起こして、束にまとめて、縛って立てて上げようとした。それを見ていた稲作りのベテランの男性が、そのままにして、稲自らの起き上がる力にまかせたほうがいいというアドバイスを送った。それは正解であった。手をかけすぎてはいけないという教訓となった。また里芋を紹介する番組では、生産者の方が、土地が砂地だからこそ、里芋は養分をため込もうとして美味しい里芋になることを説明していた。ある程度のストレスは、作物にも人間にも必要なのである。ただ、こうした試練の場は誘惑の場ともなりえる。試練と誘惑は表裏一体である。試練によって鍛えられるというのも本当であるし、試練の時が神にそむく機会となるというのも本当である。つらさから、やけになったり、安易な解決に走ったり、自分の欲望を満たそうとしたり。

アラン・レッドパスという牧師は、試練と誘惑の関係を踏まえ、マタイ6章13節を次のような言い換えをしている。「主よ。私は弱い者です。できることなら、すべての悪の誘惑を避けたいのです。私は、試練が私の気に入らないからといって、それらから免れるようにと求めません。しかし、主よ。今日私の行く手に罪へと誘うものがあるならば、主よ。その間中、私を導いてください。私の手を取ってください。あなたのみそば近くにおらせてください。主イエスよ!私は試練の炉から逃れることを求めません。しかし、オー!神よ。火が燃えている間、あなたの御臨在がとても必要です」。以上のように、主の祈りは、試練がなくなることを求める祈りではなくて、試練の真っただ中にあっても誘惑から守られることを求めることが意図されている。

では誘惑する存在を明らかにしておこう。それは神なのだろうか。ヤコブは否と言っている。「ご自分でだれも誘惑なさることもありません」(13節)。神は私たちの天の父で、良きお方である。悪に誘惑なさることはない。

次に、参考として、ヤコブ3章14,15節を開こう。ここで、苦いねたみや敵対心(新改訳2017「苦々しいねたみや利己的な思い」は悪霊に属することが言われている(新改訳2017「悪魔的なものです」)。誘惑というと、色欲とか物欲が思い浮かぶ。それは大きなものとしてある。ただ、誘惑に負けた人が犯す罪は、そうしたむさぼりの欲にからんだものばかりではなく、苦々しい感情が入る。この苦々しい感情も罪である。ヤコブは、苦々しい感情は、それは究極的には悪しき霊に起源があると言っている。苦々しい感情を持つときに、悪霊と精神を一つにしてしまっている。嫌なことである。けれども、多くの方がこの現実を見落として、心理学レベルの話で片づけてしまっている。

続いて、エペソ6章11,12節を見よう。ここでは、悪魔からの誘惑が、「悪魔の策略」という表現が取られている。悪魔の策略は誰に対してもある。悪魔はアダムとエバを誘惑して罪を犯させようとした。また荒野の誘惑においては、キリストをも誘惑して罪を犯させようとした。悪魔は罪の創始者である。悪魔の策略は数限りなくなる。私たちの弱さに付け込んで、様々な罪を犯させる。悪魔は私たちの弱さを知っている。金に弱い、性的なことに弱い、食い物に弱い、しっとしやすい、怒りやすい、感情や感覚で動いてしまいやすいなど。私たちは弱い存在である。それは神の力で覆っていただかなければならない。自分は大丈夫だなどと過信してはいけない。立っていると思う者は倒れないように注意しなければならない。また悪魔はヨハネ8章44節で「偽りの父」とキリストに呼ばれているが、私たちが真理のみことばから逸れてしまうようにも働きかけるだろう。そして偽りを信じ込ませる。だが本人はそれが偽りであるとは気づかない。悪魔は霊的詐欺師である。

こうした誘惑は教会レベルでも考えなければならない。教会の一番の攻撃の的は牧師だと良く言われる。教会に対する一般的な策略は、偽りの教えの混入。また、教会に不一致、争いをもたらして教会のエネルギーを奪おうとすること。私たちの敵は人ではない。霊的な敵が黒幕としていることを意識するのである。

整理しておこう。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」とは誘惑からの守りの祈りである。そして、誘惑する者は悪魔である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」の「悪」は、欄外注の別訳が「悪い者」となっていることをご確認ください。「悪い者」とは悪魔である。

悪魔の狙いは一言で述べると、私たち人間が神に対して不従順になることである。そのためであれば、迫害も用いるだろうし、逆に快楽も用いる。無神論を用いれば、有神論も用いる。キリストの荒野での誘惑からもわかるように、聖書さえ用いる(誤った引用)。そして親しい人の一言二言も用いる。私たちは心の目を開いて、冷静に状況分析をして、背後にいる誘惑する存在に気づかなければならない。

ヘンゼルとグレーテルのお話をご存じだろう。二人は森の中で、屋根がケーキ、壁がパン、窓が砂糖で作られた小さな家を見つけた。ふたりが夢中でその家を食べていると、中から老婆が現れた。老婆は驚くふたりの手を取って家の中に誘い、食事やお菓子、ベッドを提供した。しかし、この老婆の正体は子どもをおびき寄せ、殺して食べる悪い魔女だった。私たちは、こうしたお話をおとぎ話のこととして片づけてはいけない現実の世界を生きていることに気づきたい。私たちは自分の敵をはっきりと認識しておきたい。欲望を刺激され、心地よい気持ちになっても、目の前の甘いものにだけ目を落としてしまわないようにしたい。背後には悪い者がいるのである。

では次に、祈りという文脈の中で、誘惑から守られることを考えよう。誘惑に打ち勝つために祈りにおいて大切なことは、第一に、罪を告白し、捨て去ること。13節の守りの祈りの前に、12節で罪の告白が求められている。この祈りの順番は無意味なことではない。罪を罪として認識せず、これくらいはいいだろうと言って、ほおっておくと、霊の敵に足場を与えることになり、ますます誘惑から逃れることができなくなる。そのために、自分が誘惑に負けて犯してしまった罪は、主の御目が見られるごとく罪として告白することである。むさぼりの罪、苦々しい感情など。この罪を告白することを拒んで「悪から守ってください」と祈っても、空回りするだけである。霊の敵に足場を与えてしまう罪は告白し、キリストの血潮できよめていただくのである。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から、私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1章9節)。「自分の罪を言い表す」の「言い表す」の別訳が「告白する」となる。原語<ホモロゲオー>の原意は「同じことを言う」「同意する」である。誰と同じことを言うのか?誰に同意するのか?もちろん、神さまである。神さまに「まぎれもない罪だ」と言われて、「いや、まあ、そう厳しいことをおっしゃらずに」ではなく、「あなたがおっしゃるとおりの罪です」と同じことを言うことである。「そのとおりでございます」と同意することである。これが罪の告白ということである。黙秘権などというのは、もちろん神の前にはない。だが黙秘することがある。ダビデは罪を黙秘していた時について、こう述べている。「私が黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです」(詩篇32編3、4節)。ダビデは心の中で格闘していた。そむきの罪を素直に告白できないことにおいて、心は苦しみ、疲れ果て、体調までくずしてしまった。その後にダビデは罪を告白する。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(詩篇32編5節)。またやってしまったと、同じ失敗を繰り返したとしても、腐らず告白することも大事である。

第二は、キリストの御名に信頼を置いて、守りを祈ること。キリストは、罪に、そして悪魔に打ち勝った勝利者である。祈りによってキリストの権威が働く。オズワルド・スミスが語った逸話がある。彼は一人の少女に対して、悪魔が心のドアをノックしてきたとき、どうするか?と尋ねた。少女は瞬間、考えたけれども、笑顔をもって答えた。「私はその時、イエスさまにドアのところに出ていただくわ」。この少女は悪魔に打ち勝つ方法を知っていた。

こうして、祈りによって罪から守られることになる。また祈りによって主は環境や状況に変化をもたらすことによって誘惑を遠ざけることもされる。また、誘惑に打ち勝つための具体的な知恵を授けてくださることもある。繰り返し失敗する場合は、そうしたことも祈りのうちに求めるである。

祈らないで罪を犯し失敗した事例は、ペテロの体験を挙げることができるだろう。マタイ26章36節以降に、ゲッセマネの園の記事がある。キリストはペテロたちとともに、そこに祈りに出かけた。最大の試練を前にして、父なる神の御旨に服従できるようにと。だが、ペテロたちはそこで眠りこけてしまう。そしてキリストに叱責される。「それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです』」(マタイ26章40,41節)。だが、ペテロたちはまた眠りこけてしまった。こうして、「主を知らないなどと決して言わない」と豪語していたペテロであったが、このあと間もなくして、キリストの審問が行われていた会場で、「あの男なんて知らない」と背きの発言をしてしまう。この事件は意義深いと思う。ペテロを口先だけのお調子者扱いにすることがよくあるが、ペテロをばかにしてはいけない。ペテロは十二弟子のひとりというだけではなく、キリストが選ばれた十二弟子のリーダー。いわば信仰者のトップと言える人物である。そのペテロでも誘惑に負けたということは、誰でも誘惑に負ける可能性があるということ。ペテロは自分は忠誠心が篤いという過信があった。誰にも負けないという自負があった。でも、それはもろくも崩れ去った。自分を過信して祈らなかったからである。ならば、私たちも祈りなくしては、同じように不服従になってしまうということである。

ある人は、霊の敵が私たちを祈らせないようにするために使いを送り込むという。その使いの名は「習慣」であるといった。これはつまり、日々のタイムスケジュールで、優先順位として祈りがおろそかにされているということ。自分の楽しみ、その他、他のことに習慣的に時間をたくさん使うが、祈りが生活のアクセサリー程度になっていて、主に心を向けることも、自分の心を見張ることも、敵を意識することもおろそかにされ、この世の人と同じように日々を過ごしてしまう。

先ほど読んだ、ヤコブの手紙の執筆者のヤコブは、ひざまずいて良く祈る人で、そのためにひざは固くなり、感覚がなくなって、らくだのひざのようになったと言われている。ひざは英語で「kneeニー」と言うが、ある人はそこから、テクノロジーではなく、ニーオロジーを提唱する。祈りの姿勢は別として、祈りを尊ぶという、すなわち、いのちそのものである神と心がつながった時間を確保することは、悪からの守りにおいて大切なのである。そうでなければ、信仰のいのちは弱まり、死に瀕することになる。悪に対して打ち勝つ生命力はなくなる。茎を折られた草花のようなものである。命を失い、枯れて、腐っていく。

ある伝道者が、ある教会で説教した。人々はキリストにエキサイトした。ところが、その伝道者が、一年後に再び、その教会を訪れてみると、教会は霊的に沈滞してしまっていた。なぜそんなことになってしまったのか、皆でわからないでいた。そこで、その伝道者は、どれくらいの者が毎日、規則的に祈りの時をもっているのかと聞いた。すると、たった一組の者たちしか、まともに祈っていないことがわかった。原因を知った伝道者は、みことばと祈りに忠実に時間を充てるように指導した。一年後、その教会は生き生きとしたグループに変革したという。主の祈りは、日々の祈りの骨格になるものである。この13節「守り」を含めて、9節の「賛美」、10節の「神の国、みこころ」、11節の「備え」、12節の「赦し」をすべて祈っていこう。

今日の「守り」で一言付け加えると、「私を試みに会わせないで」ではなく、「私たちを試みに会わせないで」と言われていることも意識しよう。自分のためにだけ悪の誘惑からの守りを祈るのではなく、家族や、他の兄弟姉妹や、教会全体のためにも祈るということである。皆で助け合いながら、弱さをカバーし合いながら、霊的敵から守られていくということである。

最後に、13節後半に目を落とそう。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」という頌栄であるが、新改訳第三版では括弧内に入れられている。新改訳2017では、欄外注に出されている。本文にはない。有力と思われる写本には記されていないという理由からである。ただし、1世紀末頃に執筆されたとする「十二使徒を通じて諸国の民に伝えられた主の教え」(通称ディダケー)などには、この最後の大賛美が記されている。つまり、古代教会から、この13節後半を含めて主の祈りを祈る習慣があったということである。賛美で始まり賛美で終わる。祈りの流れとしては自然である。あえて、この習慣をやめる理由はないと思う。

ぜひ、この主の祈りを、信仰の生命線として、意味を考えながら、心を込めて祈っていこう。また祈りの骨格として用いていこう。今日学んだ悪からの守りも、忘れずに祈っていこう。