「赦し」で思い出す日本文学の名作に、山本周五郎の「さぶ」がある。主人公はさぶと一緒に働く江戸の表具職人の栄二。彼は得意先の両替商で窃盗の濡れ衣を着せられ、無実を主張するも信用してもらえず、半殺しの目に遭い、罪人(ざいにん)として石川島の人足寄せ場(今で言う刑務所)に送られる。世間に裏切られたと思った彼は人格が変わってしまい、完全に人間不信に陥り、自分を不当に扱った店の関係者や目明しに対して復讐心を燃やす。この寄せ場から出たら殺してやると。彼は心を閉ざしてしまっていたので、寄せ場で最初は誰とも口を利かなかった。彼はそこで様々な人間模様を観察させられることになる。入り婿として店のために自分なりに一生懸命頑張っていたのに、認められることなく、妻に人間のくず同様の扱いを受け続け、ついに逆上して刀を振り回し、お縄になった男。血のにじむような努力で開墾した田を家とともに不当に取り上げられ、逆上して放火未遂をした百姓など。罪が重いのはどっちだと、世の中の不条理に心が苦くさせられる彼だった。そして復讐心の炎はなお燃え続ける。だが、その炎も下火になっていく。寄せ場での出来事を通して彼の人の見方は変わり、自分を含めた人間の罪深さを痛感させられるだけではなく、その罪深い人間一人ひとりが同時にいつくしむべき対象なのだど知るようになる。彼の人間理解は深まる。彼の心にあった復讐心の炎は残り火となってやがて消えていく。そして娑婆に戻る。物語の最後に、「赦し」の最大の見せ場が訪れる。濡れ衣事件を犯した張本人が、わたしがしたことだと栄二に告白する。栄二は赦しを哀願する相手に対して、「俺は島へ送られて良かったと思っている。・・・寄せ場での足掛け三年は娑婆での十年よりもためになった。これが正直な俺の気持ちだ。おめぇに礼を言いたいくらいだ」と告白する。彼は変わった。この物語のタイトル「さぶ」だが、さぶは栄二と同じ表具職人で彼の友人である。自分を能無しのぐずというのが口癖の地味な男。だが栄二が立ち直るためには、どんな犠牲をもいとおうとしなかった。さぶが意識するしない問わず、さぶの友愛精神がなければ、栄二はどうなっていたかわからない。栄二は人足寄せ場の仲間たちを恩人と呼ぶのだが、最大の恩人はさぶであることはまちがいなかった。

私たちには恩人以上のイエス・キリストがいる。キリストは私たちの救いのために十字架についた。キリストの十字架のもとに行く時、自分の罪が、また他の人々の罪がどれほど邪悪であったかを知る。また同時に、自分の罪が十字架で流された血潮で赦されたことを知る。私たちはこの十字架を介して、相手の罪を見ることになる。キリストを十字架に釘付けにした罪のすさまじさに驚く者は、もはや他の人々の極悪の罪にすら恐れまどうことはない。その罪を自分とは別のものだとは考えない。そして、自分を赦してくれたキリストのまなざしをもって、その相手と相手の罪を見ることができる。そこに赦しが生まれる。相手の罪を自分と別のものとは考えない。そして自分と相手との間に十字架を置く、これができるのが私たちのはずである。

12節の祈りは、赦しを求める祈りである。何を赦していただかなければならないのかを確認しよう。「私たちの負い目を」とある。「負い目」とは借金のことであるが、同時に、ユダヤの文化では、この用語は神の前に犯した罪を意味していた。欄外注の別訳では「罪」となっている。聖なる神の似姿に造られた私たち人間は、何が善であり悪であるのか、心にある程度、刷り込まれている。人を殺めようなど悪い考えをもつなら、心はうずき、顔は青ざめ、膝ががくがく震えたりする。罪を虚飾し、自分の考えを正当化しようとしても、人のせいにしようとしても、すっきりしないものが心に重く残る。罪とは神と神の教えに対する不従順である。人間が何が罪なのかを決めるのではなく、それは神が決めることである。

私たちは神に従うように造られた者として、そして神の前に自立的に生きる者として、神の前に責任を負っている。ダビデ王は罪を犯したとき、こう告白している。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも自分の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたは宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」(詩篇51編3,4節)。詩篇51編は、ダビデがバテ・シェバとと犯した姦淫の罪の赦しを乞うている詩編なのだが、注目したいことは、赦しの前に、罪を罪として自覚しているということ。「そむきの罪」ということにおいて、神にそむいたことを自覚している。次に、「私の罪は、いつも自分の目の前にあります」と、自分の罪を直視している。これがなかなかできないのが人間である。横目でちらりとながめるのがせいいっぱいだったりする。そして言い訳を作る。「それはそうなんですけれども~、状況が~、あの人が~」。「そんなたいしたことでは~、誰でもやりそうなことですし~」。そうして、自分の罪を直視しない。なかなかできない。それが怖いという心理が働くし、罪を罪と認めたくないと、おかしなプライドも働く。何よりも心に留めたいことは、ダビデは誰に対する罪なのかをはっきりと自覚しているということである。「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました」。このように、しっかりと神と向き合って、罪を告白している。聖であり、さばき主であられる神に対して、これはあなたに対して犯した罪なのだと、逃げずに告白している。そして、「それゆえ、あなたは宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます」と、神の正しいさばきを認めている。こうした姿勢が赦しに進む大前提である。旧約聖書を読んでいると、あなたがたの罪を認める姿勢、悔い改めの姿勢は表面的でごまかしだと、叱責されている場面が多々ある。ダビデが決して小さくはない罪を犯しながらも、信仰者として回復し用いられた理由は、自分の罪とどう向き合ったのかということにおいて、真っ当だったからである。

主イエスは罪を「負い目」(負債)として表現しているわけだが、どうしようもなくなって人にお金を借りた、金融機関に借りた、という体験をお持ちの方は、その負債のプレッシャーがわかるだろう。では神に対する罪という負債はどれだけ重いだろうか。えっ、神に負債を作っていたの?という自覚では困るわけである。神に対する負債は実体としてある。そして、それは、この世の負債のレベルどころではない。果てしない額であり、返済できないから死罪である。まず、ダビデのように、自分の負債をしっかり自覚することである。そして赦しを乞うことである。この順番である。

赦しということを整理しておこう。ここで言われていることは負債を返すことではなく、赦してもらうことである。虫が良すぎないかと思われるかもしれない。しかし、他に手段はない。「自分の身代金を神に払うことはできない。たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」(詩篇49編7,8節)。私たちの罪は重く、大きく、どんなにお金を積んでも救われない。どんなに善行を積んでも、罪滅ぼしをしても、引き算をすれば消えるというものではない。それは払いきれない負債なのである。他人に応援を頼んでも何にもならない。あまりにも莫大なのである。これが私たちの罪。払いきれない。返しきれない。何をやっても消えない。だから、赦していただくよりほかはない。そして、赦していただける。

神は寛大なお方だと思われるだろうか。確かに寛大である。私たちの罪に従って私たちに報いることをされない寛大なお方である。ただ私たちの罪の赦しのために大きな犠牲を払われたことを知っておかなければならない。ただの赦しではない。私たちの身代わりにいのちを捨て、血を流し、代価を払ってくださったお方がいるわけである。イエス・キリストである。それは父なる神ご自身が備えられた身代わりの代価であった。それは血の代価である。キリストはあの十字架で私たちの罪の負債をすべて負い、ご自身のいのちで返済してくださった。それはそれは大きな大きな犠牲だった。

私が二十代で牧師になり、一か月が経った頃、町でひとりの婦人に出会った。彼女は明るい顔でこう言った。「数年前に信じて洗礼を受けたけれども、信じても特に何もいいことが起きないので、教会に行くのをやめました」。「いいことが起きるとか起きないとか、自分の罪を、主の十字架をどう受け止めているの?」と正直に思った。莫大な罪の負債の赦しを、そのために払ってくださった主の犠牲の大きさを、私たちはどう受け止めているだろうか?真剣に受け止めている方は、つまずきそうになっても、転びそうになっても、何があっても、主イエスから離れようとしないだろう。そして、今日のみことばから言えるのは、他の人の罪を赦すようになるだろう。

以前、「赦しに富む王様のたとえ」を学んだ(マタイ18章21~35節)。このたとえは、ペテロの質問、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」という質問に対するキリストの応答である。王様のしもべが王様に一万タラント(約6千万日分の給料)の借金があった。王様はしもべが返しきれないことを知って全額免除してやった。そのしもべに百デナリ(百日分の給料)の借金があるしもべ仲間がいた。「もう少し待ってくれ。そうしたら返すから」と懇願されると、赦すことなく、そのしもべ仲間を、借金を返すまで牢に投げ入れてしまった。事の次第を知った王様は、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」と言って、怒って、彼を獄吏に引き渡してしまう。王様から、六千万日分の給料に相当する負債を赦されたしもべは、百人分の給料に相当する負債のあった仲間を赦すことができなかった。ひどいと思うだろうか。しかし、主の十字架に自分の大きな罪と、それを赦してくださった神の大きなあわれみを見出せない者は、このしもべと同じ過ちを犯すだろう。十字架信仰が問われる。他の人への態度で、それが試される。

さて、気になっている方もおられると思うので、ここで、新改訳第三版と新改訳2017の訳の違いについて、説明しておこう。

 

⦅新改訳第三版⦆

私たちの負い目をお赦しください。

私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦しました。

⦅新改訳2017⦆

私たちの負い目をお赦しください。

私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

 

「赦しました」が「赦します」になっている。動詞の時制(不定過去)から「赦しました」と訳すことが自然と言えば自然なのだが、この時制は用法によって、「~します」と現在形で訳すことができる可能性がある動詞である。新改訳第三版のように訳すと、「自分たちが他の人の負い目を赦したことを根拠に、自分の赦しを求めていると理解される危険性もある。そうなると赦しが恵みではなくなってしまう」(内田和彦氏)ということで、現在形を選択したようである。協会共同訳は従来どおり、過去形で訳し、欄外注に異なる訳として「赦します」を表記している。さあ、どちらの訳がふさわしいのか。個人的には、「赦します」という訳であっても、他の人を赦すことを根拠に自分の赦しを求めている、という理解をされかねず、大差はないと思う。

大切なことは、赦された者は赦すのが道理であるということである。赦しの恵みを恵みとしている者は赦すということである。神からの赦しと人への赦しは連動しているということである。そのことを14,15節でも強調されている。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪をお赦しになりません」。

私は、今日のみことばから、他の人を赦しましょう、ということを言えると思うが、やはり、その前提となるのは、自分の罪の自覚であると思うので、それを自覚して、それを神の前に告白するということを大切にしていきたいと思う。正直に自分の罪を認め、正直に自分の罪を神の前に告白する。誰にも迷惑をかけていなければそれでいいということではなく、すべての罪は究極的には神に対する罪なので、それをごまかしなく、具体的に告白することである。ダビデのこのような告白もある。やはり、バテ・シェバとの罪が関係していると言われている。「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32編5節)。「罪」<ハーター>は「的外れ」の意。「咎」<アーウォーン>は、ゆがんでいるということばに由来。「過ち」「不義」という訳もある。「そむき」<ペシャ>は「反逆する」の意。様々な罪の用語があるが、今朝、この節で強調したいことは、「知らせ」「隠さず」「告白する」というダビデの姿勢である。この「知らせ」「隠さず」「告白する」というダビデの姿勢に倣おうということである。それが汚れであっても、むさぼりであっても、苦々しい感情であっても、何かの過ちであっても。そして、「赦されました」と、十字架を仰いで、赦しをいただくということである。私たちは、罪深い自分が赦されたと、こうした体験を積み上げていくと、他の人の罪も他人事とはしなくなり、赦された者として、赦しへと進むのではないだろうか。

私たちの祈りは、正直、罪の告白は苦手であると思う。賛美も不得手であるが、罪の告白も不得手である。けれども、主イエスは、これを忘れずにするように教えている。今日の主の祈りで一つ気づかされたのは、赦しの祈りが「私の負い目をお赦しください」ではなく、「私たちの負い目をお赦しください」になっているということである。自分以外の人たちのためにも祈るということである。旧約にもこのような事例は幾つもあり、モーセなどがそうであったが、他の人の事例を二つ挙げよう。ひとりはヨブ。「彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、『私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない』と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた」(ヨブ1章5節)。もうひとりは、エルサレム神殿が廃墟になった後に、ペルシャで官僚をしていたネヘミヤである。「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました」(ネヘミヤ1章6節)。このように罪の告白、赦しの祈りにおいて、家族や自分と関係のある人たちのためにも祈るのである。そして、忘れてならないのは、キリストの十字架上の祈りである。主はご自分以外の人々のために、赦しを祈られた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23章34節)。このお姿に倣おう。

最後に、ダビデの、もう一つの赦しの祈りを紹介して終わろう。「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば全き者となり、大きな罪を免れて、きよくなるでしょう」(詩篇19編12,13節)。キリストが教えられた赦しの祈りで「負い目」ということばは、実は複数形であるが、ダビデは「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。」と言っている。内省しても、自分の罪のすべてを自覚できるとは限らない。「隠れている罪」は幾つもあるだろう。部屋をきれいに掃除した、専門のハウスクリーニングの業者に頼んで掃除してもらったといっても、後で何かを見つけるように。ダビデはそうした気づかない、隠れた罪も意識しながら赦しを乞うている。私たちも同じ姿勢でありたい。そして彼は、「傲慢の罪から守ってください」と祈っている。傲慢の罪は正しくない自分を正しいとしてしまい、自分を神のようにしてしまう罪であろう。それは他の人を赦すのではなくさばくことになる。傲慢の罪はさばく。この罪も警戒したいと思う。