「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」。神は私たちの供給者であることが証されている。今日は経済生活の原則について学ぼう。巡回伝道者に召された外国のある先生のお話である。伝道者の召しに応じたが収入源は全くない。その先生はジョージ・ミューラーの伝記を読んだ。ジョージ・ミューラーは19世紀の聖徒で、イギリスのブリストルで孤児院を建てて、数千人の孤児を養った人物で、伝道者としても豊かに用いられた。彼が有名な理由は、どこにも訴えることなしに、ただ祈りによって経費を満たしていったということにある。彼は供給の源として神だけを見上げた。ただ祈りによって建設資金とか食費とか、必要経費のすべてが与えられていった。建設資金が不足、明日子どもたちを養うお金がない、次の食事の食費がない・・・。毎日、毎時、毎分、神に祈り、直前には必要経費が満たされていった。そこでその伝道者の方も必要のために人に頼るのではなく、祈りによって神にのみ信頼することに決めた。数か月たったある日の朝、自分たちが経済的危機に立たせられているのを知った。家賃の支払い日が来たのに、支払うお金がない。それだけでなく、車に入れるガソリン代も十分にない。戸棚を見たら食料はない。そして冷蔵庫の中も空っぽ。その方は奥様とともにひざまずいて祈った。「神さま。私たちはこの仕事に召され、あなたに従ってまいりました。あなたのみこころ、それが大切です。もし私たちがあなたのみこころから外れているならば、私たちはあなたのみこころに従うために必要なことは何でもします。しかし、私たちがあなたのみこころにかなっているのなら、あなたが私たちのすべての必要を満たしてくださると信じ、信頼します」。その日、その先生は郵便局に出かけた。すると自分たち宛の小切手が届いていた。その額は家賃を支払うのに、また車の燃料代に、十分で余りあるものであった。お二人は神の恵み深い供給に感謝をささげた。

それから数か月後のある朝、財は再び底をついた。お二人は再び急いで祈って、「あなたに信頼します」と告げた。そしてその先生は急いで郵便局に行き、小切手を捜した。しかし、何もなかった。その先生はガックリ肩を落とし、家に帰っていった。奥さんはご主人の暗い顔から察した。それから二人は数時間、今回の出来事について話し合った。そして、二つの結論のうちどちらかだということになった。神への信頼が足りなかったか、もしくは生活の中でまちがっていたところがあったかのどちらか。二人は、神に対して、私たちの心と生活を探ってくださいと祈り、そして一つの過ちが示された。それは、必要が備えられるということにおいて、本当の意味で神に信頼を置いていなかったということ。どういうことかと言うと、神にではなく、「神の方法」に信頼を置こうとしていたということ。神は最初、郵便を通して必要を満たした。それでその先生は、今回の危機の時に、神ご自身よりも郵便のほうに信頼を寄せてしまった。その先生はその罪を告白して悔い改めた。それから後のこと、神は思いも寄らない方法で必要を満たしてくださった。これは信仰の一つのレッスンであった。

私たちは神よりも神の方法に目を注ぐのはやさしい。こんな方法で、あんな方法でと。様々な可能性を思いめぐらすのは良いかもしれない。けれども、私たちの信頼は、純粋に神にのみ置かなければならないのである。人にでも方法にでもなく、ただ神に。

「私たちの日ごとの糧、きょうもお与えください」。この祈りは、神の愛と力と備えに対する信者の応答である。父なる神は私たち神の子どもの個人的な必要を心配し、世話をしてくださるお方である。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐられたものではありませんか」(マタイ6章26節)。天の父の子どもである私たちは、神は私たちの必要を満たしてくださると信ずるべきである。

現代のクリスチャンの陥りやすい誤りは、神よりも人の方法に頼るということにある。大衆市場のテクニックと操作に頼る。様々な財テクの手段に頼る。もちろん、そうした世のシステム自体がどうのということではない。私たちは銀行その他、お世話になっているので。問題は神を忘れてしまい、それらの方法に頼ってしまうということである。まず神を見上げるべきである。神は私たちの天の父である。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める人たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7章7~11節)。神は私たち子どもにパンの代わりに石を、また魚の代わりに蛇を与えたりされない。神は善なるお方、良いお方、いつくしみ深いお方、愛の父。「求めなさい。そうすれば与えられます」と、祈りのうちに神に信頼し、求めるのである。ジョージ・ミューラーは「求めなさい。そうすれば与えられます」というこの原則に従って、一切の経済的必要を満たされた。彼は祈りによって必要を得るという原則について、晩年こう語っている。「私たちは主イエスの御腕に頼った。この方法で始めて25年たつが、自分たちがとった方法について、少しも後悔していない」。ところがある人たちはこう言うかもしれない。「今はもう時代が違う。昔と一緒にするな。経済システムは複雑化し、一つの文化になってきている。社会は変わってきている。ジョージ・ミューラーの時代とは違う」。しかし抗議すべきことがある。私たちの神は変わらない。文化は変わっても、社会は変わっても、時代は変わっても、神は変わらない。もし私たちが人間的な詮索に走るだけなら、イエスの力強い御腕を拒絶することであり、神への不信仰である。

また、ある人たちは次のように言うかもしれない。「必要のために祈った。けれども神は働かなかった。結局は人間が動くしかないんだ」。祈っても必要が満たされないということがある。これは信仰者のジレンマである。このことについて主の祈りの文脈から二つのことをお話しよう。

第一に、私たちは、「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈らずして、「日ごとの糧を与えてください」と祈ることはできないということ。神は、私たちがみこころから外れていることのためには与えてくださらないだろう。神の供給に信頼を置く以前に、みこころを求めているのかどうかということ。みこころとは生活全般にかかわってくる。信仰の父と言われるアブラハムはどうか。彼は神の命によってカルデヤの地ウルを旅立った。すると神は、それこそ日々の糧の祝福を約束してくださった。もし、彼が自分勝手に外国の地に旅立ったらどうだろうか。破産、荒野で野垂れ死に・・・。十分あり得た。みこころに服従したからこそ、彼の必要は満たされた。この必要に関連して、私たちは、社会人として仕事をどうするかということがある。職業選択も神にお聞きしなければならないだろう。職を持った後のライフスタイルもそうである。宣教団体OMFの創立者、ハドソン・テーラーがいる。ハドソン・テーラーはみこころと供給の原則を証明した人だった。彼は17歳で回心し、中国に出かけ、宣教の必要を祈りによってだけ満たしていった。彼の哲学は、「(みこころにかなう)神の方法で為す働きは、神の供給に欠けることがない」である。これは、それがみこころであるならば供給に欠けることはない、ということである。彼はまた、必要を満たしてくださる神に信頼することを勧めた上で、安易な借金を戒めている。

第二に、「御国が来ますように」と、神の国に自分自身を献げるという優先順位を守るということ。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)。この世での自己満足の生活を第一に求めておきながら、神に対して「与えたまえ」はずいぶん虫が良すぎる。私たちはまず、「必要なもの」と「欲しいもの」との違いを見分けたい。神は「私たちの必要を満たす」と言っているのであって、「あなたの欲しいものを満たす」と言っていない。父なる神はご利益宗教の神ではない。もちろん、神は、私たちの好みや志向に配慮してくださるお方であるが、何でも願いをかなえようとする御利益宗教の神ではない。

神の国とその義とをまず第一に求めるという生活設計で生きるときに、金銭の使い方も、みこころに合わせるようになっていく。「このお金は全部自分の自由に使える」とは決して思わず、神の国とその義とをまず第一にという姿勢で、まず神に献げるお金を取り分ける。旧約聖書のハガイ書では、神の宮が廃墟となっているのに、自分の生活と自分の家のことに走り回っていて、神をなおざりにしていた民たちに対して、あなたがたが貧しいのは当然だと釘をさしている。私たちは、神に献げて手元に残ったお金についても、「私たちに与えられているものすべては神から来ているのだ」という信仰があるので、勝手に使おうとせず、「このことに使っていいでしょうか?これ買っていいでしょうか?」と求めるだろう。

ある人たちは、「神の国とその義とをまず第一に求めなくても、けっこううまくやっているよ」と言うかもしれない。経済的に余裕がある人たちは、それが実感かもしれない。社会が豊かになってくると、神に頼ることも忘れられていくと言われる。今、自分は満たされていると。しかし、11節を良く見ると、「<私の>日ごとの糧を」ではなく、「<私たちの>日ごとの糧を」となっている。隣人の貧しさや、他の教会のメンバーの貧しさや、他国の人の貧しさに思いを向けるべきだろう。

最後に、神の国とその義とをまず第一に求めながらも貧しいことを実感しているたちへの慰めのみことばを読もう。「イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話し出された。『貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから』(ルカ6章20節)。これはキリストの平地の説教の「四つの幸い」の第一の幸いである。「幸いです<マカリオス>」ということばは、当時にあって、食べるに困らない人たち、金持ちたちに適用されたことばである。確かに富は神の祝福であることが旧約聖書に書いてある。だが、当時の人たちは、金持ちイコール神に祝福された人、貧しい人イコール祝福されていない人、と単純に二元化する傾向にあった。それだから「金持ちたちはマカリオス」と言っていた。ところがキリストは、「貧しい人たちはマカリオス」と、とんでもないことを口にされた。もちろん、怠けている貧しい人はマカリオスということを言いたいのではない。では、ここでマカリオスと言われている人は、なぜ貧しいのだろうか。信仰が足りなかったからだろうか。みこころから逸れてしまったのだろうか。そうではなくて、平地の説教の文脈を見ればわかるが、キリスト信仰を貫こうとするゆえに、世間から、社会から追い込まれてなった貧しさである。初代教会のクリスチャンたちは、実際、こうした貧しさを体験していった。現代でもこのような状況に追い込まれることがある。迫害とか国外追放とか単純にそういうことだけではなく、信仰を貫く故に昇進できなかったとか、また主のためにお金にならない仕事を選択しただとか、そういうことが挙げられるだろう。だが、このような状況にあっても、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(へブル13章5節)ということは真実なのである。それだから、「私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください」と祈りつつ歩むのである。この信仰ゆえの貧しい者たちに対する幸いは、「神の国はあなたがたのものだから」(ルカ6章20節後半)と言われている。未来において神の国に住めるというのは本当のことなのだが、「神の国はあなたがたのものだから」は現在形の動詞が使用されていて、貧しいけれども、神の国はすでにその人のところに来ているということになる。キリストがおられるところ、キリストが住む心、そこがもう神の国である。それは幸いなことである。これは外側の物質的繁栄とは違う。パウロは「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです」(ローマ14章17節)と言ったが、本当の意味での生活の質ということを考えたい。一般には、外側の生活の質しか考えない。共産主義の人々は資本主義の国について、彼らの貧しさは、犯罪の多さ、麻薬の弊害、家庭崩壊にある、と言ったりする。かたや資本主義の国の人は、共産主義の国民について、その貧しさは消費が乏しいから、知的抑圧があるから、アルコールの害があるから、といろんなことを言う。けれども、共産主義、資本主義関係なく、主イエスを知らず、たましいが神の国と無縁であることが、一番悲しいことなのである。それで豊かな生活をしていても、生活の質がいいとは全く言えない。キリストはルカの福音書6章で「四つの幸い」に続いて、「あなたがた富む者は哀れ」「いま食べ飽きているあなたがたは哀れ」と続けている。「結局、最後は金だ。世の中金だ」というセリフを良く聞く。「いえ、神への信仰が」と話し出すと「きれいごとを言うな」と言われる。けれども私たちは、キリストのことばに耳を傾けたい。私たちは主イエスを知り、神の国の民とされていることを喜び、誇りとしよう。神の国とその義とを、まず第一に求めよう。その上で、必要なものをお与えくださいと、日ごとの糧を神に求めていこう。私たちの父は必要を備えてくださる真実な慈愛の神である。