前回、祈りにおいて優先されるべきことは「賛美」であることをご一緒に見た。私たちの慈愛の父であり聖であられる神に賛美をもって祈りのドアを開く。そして、この賛美が祈り全体の精神となる。賛美に次いで具体的にすることは「神の国」を求めることである。

「御国が来ますように」(6章10節前半)。「御国」とは「神の国」の言い換えである。キリストは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6章33節)と言った。さて、そもそも「神の国」とは何だろうか。少し前の4章17節をご覧ください。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」。ひと昔前の口語訳は、「天の御国」を「天国」と訳した。そしてこの表現が日本全体に根づいて、死んだ人が安らぐ場所として「天国」を口にするようになった。天国は極楽浄土の現代的な表現となった。死んだあの人は天国で安らいでいるというようなことを、仏教の葬式でも口にするようになった。しかし、ここでキリストは、死んだ人が行く世界に限定して、「天の御国」と言ってはいないようである。それは「天の御国が近づいた」という表現からわかる。

「天の御国」とは何だろうか。「御国」は直訳すると「王国」である。「王国」は「王による支配」という意味を持つことばである。この「王による支配」というイメージを持つことが大切である。もっと言うと、「王なる神の支配」というイメージを持つことが大切である。それが御国である。ここでは「天の御国」と言われているので、直訳は「天の王国」である。この天の王国を支配する王がいるわけである。では、天の王国の王とは誰か?神であられる主キリストである。だから、キリストを抜きにして天の御国を論じることは空しい。「キリストを信じたくありません。でも天の御国には入りたいです」。天の御国とは、キリストが王として支配する世界なのだから、先のような主張は矛盾でしかない。

では、「天の御国は近づいた」とは、どういうことだろうか。天においては王なる神の支配は完全である。だが地上ではそうではない。しかし今、「王なる神の支配」はキリストによって地上で始まろうとしている。それが「天の御国が近づいた」ということである。天からこの地上に、王なる神の支配がキリストを通して突入してきた。この地上は神に敵対する力が働いている。けれども、キリストの公生涯のスタートによって、王なる神の支配はこの地上に始まりつつある。それが「天の御国は近づいた」ということである。山口希生(のりお)氏は、「近づいた」という動詞が完了形であることを示した上で、「このことは神の王国が近づきつつあるというだけではなく、既にそれが来ていることも示唆しています」と述べている。キリストは宣教活動の中で、神の国はすでに来たものとして描写している。「しかし、私が神の指で悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのです」(ルカ11章20節)。「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。『神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。「そら、ここにある」とか、あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17章20,21節)。当時のユダヤ人たちは、「神の国はいつ来るのか」と待望していた。そして、それは間近いと予想していた。しかし、彼らの考える神の国とは、王なるメシアが支配する政治的な領土的な王国であった。この時、聖書の舞台であるイスラエルはローマ帝国に支配されて属国になっていたわけだが、メシアが出現して、イスラエルをローマから解放して独立を勝ち取り、王制を敷き、神の国を築いてくれることを願っていた。それが彼らにとっての神の国である。これは日本的な極楽浄土とも違う神の国観である。だがキリストは、この神の国観も肯定してはいない。神の国はあなたがたが想像するように領土的なものではないし、政治的王国ではないと。つまり、神の国とは人々がキリストの支配に与るところに実現しているというわけである。それは、当時のユダヤ人たちには思いつかない神の国観であった。もちろん、日本人の極楽浄土とも違う。

神の国には、三つの時制がある。第一は、過去である。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(マタイ21章31節)。キリストは、死んだ取税人や遊女たちはあなたがより先に天国に入ったのだと言っているのではない。まだ生きている取税人や遊女たちのことを言っている。彼らは悔い改めと信仰のゆえに、あなたがたより先に、この地上の人生ですでに神の国に入っている、と言っている。しかし、その神の国とは、どこかの土地にあるというわけではない。罪を悔い改めて、キリストを罪からの救い主と信じるときに、その人の心と生活に神の支配が始まる。キリストの統治が始まる。もうそこが神の国である。このように、神の国はキリストの宣教活動を通して始まり、天からこの地上に突入してきた。天の御国は到来した。すでに!

神の国の時制の第二は、現在である。キリストは現在も同様に、人々の心と生活を支配し、神の国を拡大しておられる。使徒ヨハネは言っている。「全世界は悪い者の支配下にある」(第一ヨハネ5章19節 「世全体は悪い者の支配下にある」新改訳2017)。世の人々は神の支配の外側にいる現状が述べられている。神の国の外側にいるということである。この事態は打破されなければならない。使徒パウロは信者に対して次のように言う。「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の御支配の中に移してくださいました」(コロサイ1章13節)。悪魔の支配から救い出されること、愛する御子の御支配に移されること、これが救いである。「御国が来ますように」という神の支配を求める祈りは、神の支配が人々に及ぶこと、人々がキリストを信じて救われることを抜きに考えることはできない。この御国の拡大は、教会の働きによって現実のものとなる。教会は御国そのものではないが、御国を具現化するものである。教会は神の国の王であられるキリストを宣べ伝える。このお方の救いに与りなさいと。こうして人々は救われ、神の支配は広まり、御国は現在進行形で拡大し、成長していく。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」(マタイ13章31,32節)。キリストと十二弟子で始まった神の国は、最初はからし種にたとえられるほど小さなものであった。だが教会の働きを通して成長していくのである。今も、その途上である。

神の国の時制の第三は、未来である。「御国が来ますように」という祈りが完全なかたちで答えられるのは未来である。神の国はよく、「すでに、いまだ」の世界であると表現される。最初に見たように、聖書では神の国はすでに訪れたかのように描かれている。そうかと思えば、やがて訪れるものとしても描かれている。やがて神の国がはっきりと形をとって現れる時が来る。御国の完成の時である。それは未来のことである。天では神の支配は完全であるが、この地上ではいまだそうではない。罪、呪い、死、分裂、不和、争い、破壊、そうしたものが見られる。多くの人が神に背いているというだけでなくて、罪の呪いが全被造物に及んでいる。環境破壊などもその一つである。今のこの地上世界はパラダイスではない。悩み苦しみの世界である。では厭世的になって、この地上とは関係のない天上にある彼岸的な世界をイメージして、「天国に入れますように」と祈るしかないのだろうか。希望はそこだけだろうか。キリストが言われたのは「御国が来ますように」である。それは、イスラエルにとっては国の再興かもしれないが、それを超えて、新しい世界の到来である。新しいエルサレムが天から地に下ってきて、天と地が一つになり、完全に贖われた世界が出現する。呪われるべきものは何もない。それが御国の完成であるが、聖書はそれを「新天新地」とも呼んでいる。「また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都エルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである』(黙示録21章1~4節)。「しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(第二ペテロ3章13節)。この新天新地はキリストの再臨によって訪れる。だから、初代教会時代より、「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください」(黙示録22章20節)とあるように、信者たちは再臨を待望して祈ってきたのである。御国はキリストの再臨によって完成を見、出現する。「見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、庶民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(ダニエル7章13,14節)。「国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する」(同27節)。

この永遠の御国が訪れるまで教会の務めは祈りであり、全世界に福音を宣べ伝えることである。キリストご自身がそう命じられた。だが、この世はそう考えない。古代から、人々は政治の力で理想郷をもたらそうとやっきになってきた。現代はそれに加えて、科学の力に頼る。しかし、神を抜きにした、人の力による外側の物質的繁栄を目指しているだけなら、それはただのバベルの塔にすぎない。世界を不幸にしている根本原因が神に対する罪であることを知らなければならない。そして十字架につけられたキリストこそが真の王、王の王、主の主であることを知らなければならない。こうしたことを無視しているのがこの世である。すでにキリストを信じている私たちは、「御国が来ますように」と祈りつつ、この御国に一人でも多くの人が入ることができるように、キリストの福音を伝えなければならない。今、御国は建設途上と言えるのであり、私たちは御国建設のために召されているわけである。

「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(10節後半)。この祈りは先の祈りの言い換えと言ってもよいだろう。「天において神の支配が完全であるように、地でも神の支配が現わされますように」。この地上は、神と悪魔、光と闇という異なる霊性の戦いの場である。私たち人間は、こうした二つの異なる霊性がぶつかり合う世界に存在している。神の意志と悪い意志がぶつかりあっている。せめぎ合っている。悪魔は神の意志が成るのを嫌っている。「みこころ」とは、原語では単純に「意志」である。「意志」とは、成し遂げようとする心である。では、この地上における神のご意志、みこころとは何だろうか。一つ明白なことは、先に見たように、人々の救いである。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3章9節)。

ある一人の伝道者がルーマニアを訪れた時のことである。ブカレストで礼拝を終え、数人の友人とレストランに食事に出かけた。レストランの窓からは大勢の群衆を見ることができた。その時、その人の心に、エルサレムの町のために心を痛められたイエスさまの心が迫ってきた。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしはめんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたは好まなかった」(マタイ23章27節)。その人は、この節が胸に迫り、イエスさまは世界中の町々に対しても、同様のことを感じておられると知った。その人は、ある夜、一人の友人ととりなしの祈りをささげた。「神よ。私たちの国をキリストの支配のもとに導くために、殉教者たちの血を要するならば、私は喜んで私の血をささげます。願わくは、ルーマニアの人々の心の中に、あなたの御国が来ますように。そして、ルーマニアの人々の心の中で、あなたのみこころが行われますように」。イエスさまは秋田県に対しても、「ああ、秋田、秋田」と痛み、その心は泣いておられるだろう。私たちはキリストと同じまなざしを持つために、次のような祈りが必要かもしれない。「主よ。あなたが彼らを見ておられるのと同じように、私にも見させてください。あなたが彼らに対して感じておられるのと同じように、わたしにも感じさせてください」。そのようにして、私たちは、人々の救いのためにとりなしの祈りに励むのである。

神のみこころは人々の救いの他にもある。明らかに、神のみこころに反する不義や悪が世界中で行われている。みこころにそぐわないことは私たちの周囲でも行われており、それらを見聞きする。状況の変化を願わないではいられない。また精神的にも肉体的にも助けを必要としている人たちと遭遇することになる。私たちは、「あの人、この人にみこころがなりますように」「あの事、この事にみこころがなりますように」と、神の支配を求めて祈ることになる。

そして、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」という祈りは、自分がこの地上でみこころを行うことができますようにと、自分のことが含まれていなければならない。皆さん、なんと私たちは、毎日、3万5千にも上る選択を無意識のうちにもしていると言われる。それらの選択の多くは私たちの裁量にゆだねられている。ただ、悪を選択してはならないことはもちろんのこと、自分はどのように生きるように召されているのか、今日一日のスケジュールはどうしたいのか、仕事はどうしたらいいのか、奉仕はどうしたらいいのか、家族にはどう仕えたらいいのか、あの人にはどう接したらいいの、など、みこころを尋ね求めなければならない。

よく、神のみこころを知るには、みことば、人の助言、環境の導きという三つの要素が挙げられる。ただ、もしその人と神さまとの関係が希薄であるなら、受けとめ違いはよく起こる。「このみことばが与えられました」と言って、自分勝手にみことばを受けとめる話はよくある。自分の願いにかなうみことばは、こじつければどれか一つは必ずある。人の助言もはずれることがある。イギリスのバプテスト派の宣教師にウイリアム・ケアリがいる。海外宣教の父と言われる人物である。彼はインドに宣教師となって行きたい話を周囲にすると、行くもんじゃない、と皆に反対された。年上の牧師たちにも反対されたが、彼の心にはそれはみこころであるとの揺るがない確信と平安があった。環境が開かれたもうそくさい。タイミングよく開かれた門、歩きやすい道など、案外みこころでない場合が多い。目の前に二つの道があれば、困難な道のほうがみこころにかなう場合が多いとも言われる。損する道がみこころの場合も多い。神のみこころと反対方向に行って、タイミング良く道が開かれることもある。それを神の導きと表現してしまうことがある。神さまは、成長しているクリスチャンに、わざと導きをわかりにくくされることが多い。判断が難しくなる。みこころを知る方程式が複雑になってくる。確かに神さまは、みことば、人の助言、環境の導きを用いられる。しかし、それら、あくまで、みこころを知るための手段にすぎない。判断するのはあくまでも本人である。大切なポイントは、その人と神さまの関係である。普段の日常生活において親密に神と交わり、日々、主の御声に聴き従おうとする姿勢を持っている人は、人生の大きな節目の時に、神のみこころをまちがいなく受けとめることができるだろう。誰にでも当てはまる常識的なみこころも受け止めそこなうことはないだろう。それに対して、普段神との交わりが希薄であり、神のみこころを受けとめる訓練をしてこなかった人が、さあいざという時になって、いきなり主の御声と雑音を聞き分ける敏感さを発揮することはできない。みことばを受けとめそこない、自分の願っていることを言ってくれる人の意見にだけ耳を傾け、ヨナが主の御顔を避け、タルシュシュ行きの船を見つけ、それに乗り込んでしまったように、みこころとは反対の開かれた環境に足を向けてしまう。

神との関係を築くために、心がけたいことを二つだけ述べよう。一つ目はデボーションである。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4章4節)。みことばを日々、注意深く味わうことによって、神のみこころを体系的に知っていくことになる。ある場合は、みことばを通してその日の指針をいただくことができる。またみことばとともに祈りという神との交わりを通して、神の心に近づくことができる。「御名があがめられますように」。御名をあがめる精神は、みこころに焦点が合っていくようになるだろう。「御国が来ますように」と、神の国とその義とを第一に求める精神は、みこころを優先することになるだろう。そして「みこころを行えますように」と祈る。そのように祈って一日をスタートすると、むだのない一日を過ごせることが多い。こうした祈りが習慣化すると、たとい道を脱線することがあっても、そう大きく脱線することはなくなるだろう。脱線しても、もと来た道に引き返すのも早くなるだろう。

もう一つは、普段の生活において、常に神さまに向けて心のアンテナを張っておくこと。心のアンテナを神さまに向けて生活しているなら、神さまのみこころ、神さまの導きをキャッチしやすいだろう。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3章5,6節)。「主を認める」の「認める」ということばは、頭で認知することではなくて、「人格的交わり」を意味する。行くところどこにおいても神と交わる祈りの姿勢でいる。それは、24時間、心のアンテナを神に向けている姿勢である。食事を作っている時も、外で仕事をしている時も、車を運転している時も、人と話をしている時も、どんな時でも。そうすると、細き御声を聞き分けることができるようになるだろう。ちょうど、うるさい中にあっても携帯電話の着信音に敏感に反応できるように。神さまに向けてアンテナを張っていると、多忙な日常生活にあってもみこころをキャッチすることが可能になってくるだろう。神のみこころでないことには平安を失い、みこころであることには確信と平安が与えられることになるだろう。

今日は、神の国というテーマで見た。神の国、すなわち天の御国は地上に突入してきた。王なるキリストの支配が始まった。今、御国は建設途上である。御国の民とされている人もまだ満ちていない。御国が完成するためには神のみこころが成就していくことである。だから、天で完全に行われているみこころは、この地上でも行われるように願っていかなければならない。私たちは自分が救われたことだけで満足し、厭世的になって、この地上を天国に入るための待合室であるかのような過ごし方はすべきではない。「御国が来ますように」「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」、この祈りと精神でみこころが成ることを求め、やがての御国の完成を待ち望みたいと思う。