本日から5回に分けて行いたいと思う。主の祈りは、平行箇所のルカ11章1節を見ると、「主よ。ヨハネが弟子たちに祈りを教えたように、私たちにも祈りを教えてください」という要望に対する教えである。主の祈りは古代教会から重んじられていて、一世紀後半から二世紀前半に執筆されたとする「十二使徒を通じて諸国の民に伝えられた主の教え」(通称「ディダケー」)では、主の祈りを書き記した後に、「日に三度このように祈りなさい」とある。いかにこの祈りを重んじていたかである。また教会の礼拝でも祈られ続けてきた。それには理由がある。祈りの中で「私たち」と四回も言われている。「天にいます私たちの父よ」(9節前半)、「私たちの日ごとの糧を」(11節)、「私たちの負い目を」「私たちに負い目のある人たちを」(12節)、「私たちを試みに会わせないで」(13節)。このように「私たち」、すなわちキリストを信じる共同体が意識されている。主の祈りは個人的な祈りというよりも、共同体の祈りという要素が強くある。だから、共同体の集会である礼拝の場で祈るのにふさわしく、二千年にわたって、礼拝の場で祈られてきた。

祈りの先頭に来るのは賛美である。賛美は簡単に述べると、神を神とする行為である。祈りとの関連では、祈りの焦点をしっかりと神に定めるための役割を担う。焦点がしっかりと神に定まっていない祈りは、チューナーの焦点が合っていなくて、雑音ばかり入るラジオのようなものである。それは交信状態が悪い証拠である。天に心を向ける、神を仰ぐ、そして神を賛美する、このことを通して神に焦点を合わせる。この賛美によって神の栄光が現わされる願いが強められ、神のために生きる願いが強められ、天の御座がその祈りに対して開かれる。神の霊が注がれ、賛美に続く祈りはみこころにかなう祈りとして調整されていく。賛美は祈りの先頭というだけでなく、祈りの支柱である。賛美によって祈りのドアが開かれ、賛美の精神で祈り求め、賛美によって祈りのドアは閉じられる。これが祈りである。

私たちの心、精神は、わらじ虫か何かのように、地を這いつくばりやすい。心が地にへばりつき、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に取りつかれる。わらじ虫のように光を嫌い、闇に逃げ込む。また暗い現実しか見ることができなくなり、落胆の泥沼に心が落ちる。しかし、賛美はそうした私たちの心を天の敷居に連れていってくれる。そして心に聖さと元気を取り戻させる。信仰を強めてくれる。

9節の賛美のことばは、新改訳第三版では「御名があがめられますように」となっているが、新改訳2017では「御名が聖なるものとされますように」と改定された。この訳語の違いについては後で述べるが、賛美の精神がとっても大切で、賛美の祈りを欠かしてはならないことをまず抑えておいていただきたい。

ある76歳のおばあちゃんの話が印象に残っている。その方は自転車で教会に通っていた。途中、気を失って転倒して、顔面を打って病院に運ばれた。牧師が見舞いに行った時、そのおばあちゃんはこう祈ったという。「神さま、どうぞこの事を通して御名が汚されませんように」。「どうぞ、いやしてください」と額面通りの祈りはささげなかった。怪我をしても賛美の精神だった。

以前、ある方が、孤独感、不安感に襲われてどうしたらいいかと相談に来たことがある。こういう心持ちの時、不安定な自分の心をまさぐるように見つめてしまうことがある。けれども、それだけでは解決にはならない。私たち罪人の心は基本、闇である。しかし神は光である。私はその方に、「神に向かって意識的に賛美してみてください」とアドバイスした。そうすると、天の窓が開かれ、光が差し込んで来ると。そうしたアドバイスをした後日、その人から、「賛美することを心がけたら、心が平安に包まれた」という話をいただいた。ダビデはこう言っている。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」(詩編34篇1節)。私たちもこうでありたい。

祈りの呼びかけのことばは、「天にいます私たちの父よ」(9節前半)。イエスさまは、「神は父のようなお方」という理解をもって神の前に出るように教えている。おそらくイエスさまは、この時、当時の日常用語のアラム語で、「アバ」ということばを使用しただろうと言われている。実際、マルコ14章36節では、ゲッセマネの祈りで「アバ、父よ」と祈られたことが記されている。「アバ」は親しみを表す家族的な用語である。神は奴隷を懲らしめるために、いつも鞭をもってこちらをにらみつけている主人のような方ではない。マルチン・ルターは信仰の覚醒を経験する前は、神は怒りの神、恐ろしい神、厳しい神、鞭を振り上げる神というイメージしかなく、そんな神に対して敵意を感じ、憎しみさえ感じていたと言う。このイメージが変わるのにかなりの格闘の期間を要した。

日本の家族の精神分析に関する本を読んで、考えさせら、反省させられるいくつかの点があった。日本の親はまじめ(仕事熱心、教育熱心)だが、感情表現に乏しいと言う。そして子どもの気持ちや考えを理解する習慣に乏しいと言う。子どもの訴えに対して、そんなことはたいしたことはないと言わんばかりの反応を見せる。良い子にしていなさい、勉強しなさい、我慢しなさい、だけ。つまり、喜びや悲しみの感情を受けとめてくれない、分かち合ってくれないということである。すると子どもは親とまともなコミュニケーションを築くのをあきらめ、親とのしっかりした絆をもてないまま、感情をオモテに出せない人間として育つとともに、人間不信になり、親しい人間関係を避ける人格になってしまうというのである。子どもの感情無視を「感情的ネグレクト」とも呼ぶらしいが、これが日本では極端に高いのだと言う。こうした親との関係が神へのイメージにつながる。神を親しみをもって受け止めるのがむつかしくなる。神が遠い存在に感じる。中には親に虐待されて育った方もいるだろう。そうすると、神の愛、神の善、いつくしみ、恵み、あわれみといった神の道徳的属性を素直に受け止めるのがむつかしい場合がある。

ある場合は、人間関係というよりも、自分が置かれている困難な環境のゆえに、神の愛といったご性質を信じるのがむつかしいという場合もあるだろう。「次から次へと災難が降りかかる。神も仏もあるものか」。しかし、自分の人生の、しかも一ぺージで安易に神さまはこうだと判断するものでもない。私たちが何よりもすべきことは、神のご性質について多角的に描かれている聖書をじっくりと味わうということ、歴史の初めから終わりまで記されている聖書をじっくりと味わうということ。そうすると、神の愛を発見し、神の愛のご計画というものを知るに至る。どこにポイントを置いて読むのかということであるが、聖書の中心主題はイエス・キリストである。キリストは目に見える神となって神を現わしてくださった。何の罪もないお方にもかかわらず、私たちの罪のために極刑にまで服してくださった。そして、聖書中の聖書と言われるみことばにはこうある。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3章16節)。「アバ、父よ」という呼びかけは、「愛」という神のご性質が強く意識されている。神は愛である。

そしてこの愛は、威厳、尊厳と同居していることを覚えておきたい。父なる神は「天にいます」と言われている。「私たちの父」という表現は、神の近さ、親密さに焦点が合わされているが、「天にいます」は、神は人間よりも隔絶した存在、超越した存在であることに焦点が合わせられている。神だけが天の至高の御座に着いておられる。神に対して、自然と威厳、尊厳のイメージを私たちは抱く。神は偉大なるお方なのだと。このように、「天にいます」は、神の住み家の場所的な遠さを表しているというよりも、神は人間よりもかけ離れた偉大な存在であることを表している。

神の偉大さは四つの属性とも関係がある。第一は「偏在」。これは神の存在の無限さを表している。人が容易に登頂できない高い山にも神はおられる。人が潜れない深い海にも神はおられる。人が到達できない宇宙の果てにも神はおられる。この果てしない宇宙も、神という存在の中に、容易に入ってしまう。神は存在において限りがない。もちろん、天の天にもおられる。

第二に「永遠」。神は時間においても無限である。神はどこにでもおられるというだけでなく、あらゆる時間のうちにおられる。いや、永遠という概念は時間も超越している。神はすべての時間の中におられると同時に、すべての時間の外にもおられる。神は、過去も現在も未来も同時に見渡せるようなお方である。神は天地創造の風景から世の終わりの終末時代の風景まで同時に見渡す。神はすべての時を知り尽くしておられる時の支配者。無限に生きる存在。始まりもなく終わりもない。永遠に神である。

第三に「全知」。神はすべてのことを知っておられる。あらゆる領域のあらゆること、あらゆる分野のあらゆること、あらゆる時間のあらゆることを知っておられる。単に知っているというだけでなく、なぜそうなのかも知っておられる。どうすればそうなるのかも知っておられる。神は天才科学者である。また私たちの人間の心の中まで知っておられる。神はすべての思いを読み取られる。神は天才心理学者である。悪魔の思いも読み解いておられるだろう。神が知らないことは何もない。

第四に「全能」。神はすべてのことがおできになる。神はその全能の力をもって万物を創造した。もちろん、そこには、すべてを知るすぐれた知性とのマッチングがあった。そして今、全能の力をもって万物を保っておられる。もちろん、そこには、すべてを知る神の管理システムが働いている。

ただいま見てきた神の四つの属性は、神の偉大さを特徴づけるものである。私たちの祈りが聞かれるというのも、愛や善といった神の属性のほかに、今見てきたような、偏在、永遠、全知、全能といった神の属性があるからこそである。

私たちは、この神がどうされることを願うのだろうか。「御名があがめられますように」(9節後半)。これは祈りの究極的な目的である。「御名」すなわち「名前」は古代へブル人においては特別な意味があった。名前はその人の人格を表すものであった。では神の場合、「そのお名前があがめられますように」というのは何を意味するだろうか。「あがめる」ということはどういうことだろうか?原語では、「尊敬する」とか「敬う」以上の強い意味がある。新改訳2017では直訳的に訳している。「御名が聖なるものとされますように」。「あがめる」「聖なるものとする」の原語は<ハギアゾー>。このことばの文字通りの意味は「聖なるものとする」である。<ハギアゾー>は広い意味を持つが、基本的な意味は、「他のものから区別すること、取り分けること、分離すること」である。つまり、神を、神でないもの、神にふさわしくないものから区別して、他のいかなるものとも違うお方として認め、このお方だけを神として敬うことである。これが賛美である。

世界には神々と呼ばれる存在は数十億ある。だが、神は唯一なはずである。今、世界で流行している思想は東洋神秘主義であり、それは創造主と被造物の境を取り払うこと、すなわち、神と被造物の区別を設けず、存在するすべてのものを神としてしまうのである。日本はもともとこの思想に立っている。目に見えるもの、見えないもの、何でも神としてあがめる習慣がある。実に、神道、ヒンズー教、仏教、ニューエイジムーブメントといった教えは、動物、人間、石、木、山、月星太陽といった目に見えるものから、霊的なものすべて、あらゆるものを神として認定してしまう。世界を創造した唯一の神は、他のものから区別されず、万物と一体とされてしまい、あがめられることはない。また、無神論、ヒューマニズム、そして進化論者の多くは神の存在を否定し、結局、人間をあがめる。また怪しい新興宗教、異端、そして先ほど述べたニューエージムーブメントなどは、人間や天使を救い主の位置まで引き上げ、あがめようとする。

実は、「聖」自体が、神の大切な属性である。神はすべてのものから分離し、隔絶し、独立し、超越しているお方である。もちろん、悪からも罪からも離れている。そのような意味においては、神は純粋で汚れのないお方である。神は聖なるお方であるというとき、神の超越性、また純粋性という二つの特質を思い浮かべると良い。このお方だけがそのような意味で聖とされなければならない。詩編99篇4節にはこうある。「国々の民よ。大いなる、おそれおおい御名をほめたたえよ。主は聖である」。ヘブル語の「聖」<カドーシュ>も、「区別された、分離された」といった意味を持つ。聖なるお方を聖なるお方とする、それが賛美である。

今、日本で、世界で、神がほんとうの意味であがめられているか、聖なるものとされているかと言えば、そうではない。日本では未だに、クリスチャン人口は1パーセント以下で、未伝部族に位置付けられている(クリスチャン人口2パーセント以下が未伝部族に位置づけられる)。私たちは聖書に啓示されている神こそが、まこと唯一の神であり、このお方だけが高められ、他のものから区別され、聖なるものとされ、賛美がささげられることを願っていこう。祈りにおいては、まず自らがこの賛美の祈りを欠かさないように心がけよう。求めの祈りももちろんしていいのである。ただ、賛美の祈り、賛美の精神がおろそかになり、日常の願い事がすべてとなっていくなら、ご利益宗教の祈りと変わらなくなっていくだろう。

最後に、共同体として行う主日の礼拝について触れて終わりたいと思う。参考として、出エジプト記31章12~14節前半を開こう。「主はモーセに告げて仰せられた。『あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、世々にわたり、わたしとあなたがたの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。これは、あなたがたにとって聖なるものであるから、あなたがたはこの安息を守らなければならない』」。現代の安息日はキリストがよみがえられた日曜日であるわけだが、私たちが日曜日に礼拝をささげるというのは、クリスチャンのしるしである。契約の民のしるしである。この日礼拝をささげるというのは、この世に対しての証としても大切な行為である。安息日が、「これは、あなたがたにとって聖なるものであるから」と言われているが、日曜日は聖日とも言われる。私たちは日曜日を、他の日から区別する、取り分ける、そして礼拝の日として守るということ。そのことにより、神を聖なるものとし、神を神としてあがめていることをこの世に示すわけである。この行為自体は私たちを神の民として聖別することである。神の民は当然のことながら神を礼拝する。神をすべてのものに優って第一としている姿勢を礼拝を通して表すのである。御名があがめられますように、御名が聖なるものとされますようにという姿勢を礼拝を通して表すのである。