新年、最初の礼拝のテーマは、時、時間とさせていただいた。ベンジャミン・フランクリンは言った。「あなたは人生を愛していますか?それなら時を無駄にしてはならない。なぜなら、時は人生を形造る素材だからです」。時間を無駄にしてはならないということは確かである。一日の時間も24時間と限られている。だから大切に使わなければならない。ただ、時は私たちの手の中にはない。つまり、私たちの願うように事は運んでくれない。トントン拍子などというのは、人生のわずかな場面でしかないはずである。詩編の作者が言っていることは、「私の時は、御手の中にあります」。それは主の御手の中にということである。私たちも、このような告白をもって新しい年を踏み出したい。

この詩編を見ると、作者は苦悩の中にあることがわかる。黒雲が垂れ込めている様子である。その中でも9~13節は嘆きが多く、冬の冷え込みを感じるようである。9~10節では、「苦しみ、いらだち、衰え、悲しみで尽き果て、嘆き、弱まり、」といった表現が続いているが、良く観察すると、心が萎えてしまっただけではなく、肉体も衰弱してしまったようである。9節後半では「また私のからだも」との告白があり、10節では衰弱してしまった対象として、「いのち、年、骨々」が挙げられている。それは、生命力が奪われた状態になってしまったということである。

人間関係はというと、11~12節を見ると、人々から無視され、嫌われ、孤独感を味わっている状態である。「非難され、恐れられ、避けて逃げ去り、忘れられ」という表現が続いている。12節では「死人のように」「こわれた器のように」とあるが、「こわれた器」というのは不用な人物扱いをされたということである。あんたなんか要らない、ということである。実際、不用な人などいないのだが。それどころか、13節後半を見ると、「私のいのちを取ろうと図りました」とあり、命さえ狙われている状況であることがわかる。このような状況になると、自暴自棄になってもおかしくはない。「神も仏もあったもんじゃない」「神も我を見捨てたのか」と。しかし幸い、作者は神に対する信頼を失わなかった。ここが大切なポイントである。

「主よ。私はあなたに身を避けています」(1節a)。これは信頼の告白である。「私が決して恥を見ないようにしてください」(1節b)。これはどのような思いなのかというと、敵の思い通りになってしまえば自分の信仰は疑われてしまうと、信仰とのかかわりの中で今の苦境を見ていたことがわかる。そして、主に助けを求める祈りが続くわけだが、その合間に、信頼を表し続ける。

「私の霊を御手にゆだねます」(5節前半)。これは、自分のすべてを、意識的に全く、神のお取り扱いにまかせてしまうことである。手術の時に、医者に自分のいのちを預け、信頼してまかせてしまうのと同じである。トラブルに巻き込まれている時、これをすると、神がすべてをご存じだという思いになるので、自己弁護に心をかき回されないで済む。また、自分はどうなってしまうのかと、不必要に思い煩わないで済む。神が一番いいようにしてくださるだろうと。実は「私の霊を御手にゆだねます」は、キリストの十字架上の最後のことばである。「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた」(ルカ23章46節)。キリストこそがこの詩編の作者の苦しみを味わった方である。

そのような視点で、先ほどの9~13節を見ることができる。ある方は、汗を血のしずくのように流されたキリストのゲッセマネの祈りに言及して、「私をあわれんでください。主よ」で始まる9,10節から、次のように述べる。「いわば、9,10節にあるような、重病人と高齢者の悩み、苦しみを先取りして、あわれんでくださいという祈りをご自分のものとして祈られたのです」。13節後半の「彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました」は、まさしく、そのまま、キリストにあてはまる。イスラエルの国の指導者たちは、キリストを処刑するために協議していた。そして民衆を扇動して十字架につけた。キリストは、私たちが体験しうるすべての苦悩を先取りして体験してくださったお方であった。そして、よみがえってくださったことも忘れてはならない。このキリストご自身が私たちの信頼の的となるのである。それは慰めである。

5~8節を見ると、詩編の作者の主に対する信頼は、過去の救いの体験が関係していることがわかる。それが良くわかるのは5節後半の「真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました」である。作者は、過去において主によって敵から救われた体験があった。それを思い起こすことは現在と未来につながる。ただここで付け加えたいことは、「贖い出す」という表現は、私たちにとって人間の敵からの救い以上の意味を持つということである。「贖い出す」とは、囚われている人を代価を払って買い戻す、というニュアンスがある。キリストは私たちを罪と死と悪魔の支配から買い戻すために、救い出すために、ご自分のいのちを代価として差し出して、私たちを救い出してくださった。私たちはこの救いの恵みを日々回顧し、また教会においては主日ごとに、また聖餐式を通して回顧するわけである。過去の十字架を仰ぐことは、信頼という信仰を形造る。信頼が揺らぐときは、十字架を仰ぎ見るのである。

7節前半の「あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます」というのは、「過去の救いの恵みを私は楽しみ、喜びます」ということである。過去に、悩み、苦しみから救い出された体験があったということである。私たちにとって、それは十字架体験を含むことであるが、それ以外の様々な体験も入るだろう。各自、過去を振り返る時を持つことは必要である。大いなる恵みをそこに発見するだろう。その恵みを楽しみ、喜ぶということは、確固たる主への信頼につながるだろう。皆さんは昨年受けた恵みを改めて振り返ってみられただろうか。

「主に信頼しています」(6節後半)。この太文字の「主」ということばは、「永遠にある」という意味が込められている。すべてのものが崩れ去っても、すべてのものが過ぎ去っても、超然としてある、厳然としてある、まさしく神はそのようなお方である。詩編の作者は、そのような神を、2,3節をご覧いただくと、「力の岩、強いとりで、私の巌、私のとりで」と表現している。E.H.ピーターソンという方は、「信仰とは、永遠性の岩盤にしっかりつながった土台の上に立つものです」と表現している。「永遠性の岩盤」、それが主である。主はゆるぎないお方である。まさしく、信頼するに値するお方である。永遠にあるお方であうr。

「主に信頼しています」と同じような告白は、14節にもある。「しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ、わたしの神です。』」。詩編の作者は崖っぷちに立たされている。「しかし、主よ。私はあなたに信頼しています」と告白できた。そして、主に対する信頼が「あなたこそ、私の神です」という告白を生み出した。ある女性が十代の時に、自分の人生の焦点と目当てが全く変えられる体験をしたという。1月の嵐の夜のことであった。彼女は昏睡状態の中にあった。死の影は忍びよせてきた。冬の黒雲に覆われたような状態であった。病院のベッドの上にいた彼女はその時、「わたしの神は、あなたです」と叫んだ。その時、彼女の心に光が差し込んできた。私たちがやってしまうことは、この叫びが心の底から湧き上がらずに、もんもんとした日々を過ごし、心に様々なことを去来させ、偶像を心に抱き、神を心の片隅に、ほこりをかぶらせたまま置いてしまうことである。6節にはまさに「むなしい偶像」とあるが、「むなしい偶像」の直訳は「空虚の息」で、それは頼りになるものではない。それは信頼のおけるものではない。ただ主なる神だけが信頼できるのである。このお方に、「あなたこそ、私の神です」と心の底から叫ぶのである。崖っぷちにいるなら、なおさらこのように叫びたい。

さて、この作者は、過去において常に主に対して信頼を置いていたかというと、そうではなかったことを正直に告白している。「私はあわてて言いました。『私はあなたの目の前から断たれたのだ』と。しかし、あなたは私の願いの声を聞かれました。私があなたに叫び求めたときに」(22節)。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」というのは、神に見捨てられたという叫びである。その前の「私はあわてて言いました」の「あわてて」とは、「戦慄、恐怖、心の動揺」を意味し、作者がパニックに陥っていたことがわかる。パニックは私たちが真実を見ることを妨げてしまう。そして孤独を覚え、こう言ってしまう。「私はあなたの目の前から断たれたのだ」と。「断つ」ということばは、斧を使って切ってしまうような「切る」を意味する。それはちょっと怖いことばである。切断である。免職させる場合に「首を切る」と言うが、それもイメージする。このようなことばを使うということは、作者の恐怖がいかに強かったかを物語っている。ひどい恐れ、大きな不安が、真実を見ることを妨げてしまう。そうなると、真実から目を反らし、否定的に物事を見てしまう。「誰もわたしを助けてくれない」「みんなわたしを嫌っている」「神にも見捨てられた」「もうおしまいだ」。物事を悪いほうに悪いほうに解釈し、そう口に出してしまう。神に愛されていること、神は助けを備えておられること、そうした真実に目をつむってしまう。

ある女性の告白だが、彼女は自分の醜さに悩んでいた。学生の時、クラスで「壁の花」(相手にされない女性)であることは明らかだった。身長は167センチと高かった。しかし病気で体重はたったの38キロで、ひどく血色が悪かった。彼女は鏡を見るのを嫌った。やせこけて、骨と皮ばかりの棒のようだった。少しも人間らしく見えない。彼女が自分に対して作り出した真実は、醜い、そして不必要な存在、だった。彼女は自分に対する見方、現実認識が混乱してしまっていたことによって、感情がより不安定になってしまい、結果として寂しさに耐えられなくなってしまった。彼女は表面的には孤独ではなく、自分と同じような容姿に自信がない女友達が十分にいた。だが彼女は自分に関する真実を見誤ってしまったがために、学問によって他者を見返してやろうということを除いては、他者より自分を低くしかみなすことができずにいた。結果として、自分はのけものだという思い、疎外感に苦しむことになった。この女性は後にクリスチャンになるのだが、彼女は、自分が学生時代、神が私を愛しているという真実に耳を傾けていたならば、自分の外見が自分に関する真実のすべてではないことを認めていたでしょうに、と語っている。いずれにしろ、神は、「わたしはあなたを愛している」「あなたを見捨てない」という真実を私たちに汲み取らせたい。

15節の信頼の告白を見よう。「私の時は、御手の中にあります」。今日の中心聖句である。作者は、これまで見たように、力が尽き果てたような状態になっていた。精神的にも肉体的にも追い詰められている。だが、神への深い信頼のもとに、「私の時は、御手の中にあります」と告白できた。「時」ということばは、「季節、状況、ライフステージ」等、様々な訳が可能である。原文では複数形となっている。「時々」である。つまり、「時」とは「人生のあらゆる局面、あらゆる段階」を指している。それを御手にゆだねる信仰をもっているわけである。その上で、主の助けを願っている。主の御手は、愛の御手、摂理の御手、力ある御手である。この御手が私たちを左右するのであって、人の思惑のそれではない。

私たちは時を刻む人生の中で、様々な経験をさせられる。暇になろうと思っているわけではないのに仕事がなくなる。反対に、自分で望んでいるわけではないのに、めちゃくちゃ忙しい日々になってしまう。時のコントロールが効かないように思える。また病気になったり、予想外の出来事に巻き込まれて、スケジュールが狂ってしまうことが起きる。そして、あせりが生まれる。思い煩いが増す。また、人との関係がやっかいで、怒りや悲しみで眠れない夜を過ごす。そして様々なことが二重三重にからみ合って未来が混乱してしまい、どうしたらいいかわからなくなり、足取りが重くなる。このような状況の時、私たちは繰り返し繰り返し、人生の主権を神に明け渡す信仰が必要になってくるだろう。

この新しい年、「私の時は、御手の中にあります」という信仰で踏み出そう。最後に、この事に関連して、24節を見よう。「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ」。黒雲が立ち込めたような暗雲とした日々を経験してきた作者。一時は、絶望めいたことを告白した彼。しかし、そうした中で、主は確かに信頼できる方であることを学び、その確信は揺るがないものとなった。その作者は、主への信頼から、主を待ち望むという姿勢を口にする。「雄々しくあれ。心を強くせよ」というのは、作者自身がこれまで体験してきた、すすりなく悲しみ、神経衰弱、弱音を吐くこととは反対の姿勢である。主への信頼のゆえに、心を奮い立たせることができるのである。これから体験しようとしている新しい時はすべて安楽とは限らない。だが、人生のあらゆる局面、あらゆる段階は主の御手の中にあり、主は信頼できるお方なのである。私たちは心を強くして、このお方を待ち望むことができる。そして、主がご真実なお方であると知り、栄光を拝することができるのである。