ローマ人の手紙の講解メッセージは今日で終わる。ローマ人の手紙のテーマは「福音」であることを、講解メッセージの第一回でお話した。今日の最後の区分で特徴的なことばは25節の「私の福音」である。なんという表現だろうか。パウロは15章を見ていただくと、この福音を16節では「神の福音」と呼び、19節では「キリストの福音」と呼んでいる。「私の福音」なんて言ってしまって良いのだろうか。この手紙の書き出しの1章1節をご覧いただくと、パウロは「神の福音のために選び分けられ、使徒として召された」という挨拶で始めている。「神の福音」がこの手紙のテーマである。福音は人間が考え出したものではない。パウロが考え出したものではない。それは世々隠されていた神の奥義の啓示であり、神が与えたものである。「神の福音」である。「福音」ということば自体は、何度かお伝えしているように、キリスト教の専売特許ではない。パウロの時代はローマ皇帝に関して使用されていた。「福音」は「グッドニュース」(良い知らせ)を意味するわけだが、「グッドニュース!新しい皇帝が王座に着かれた!」「グッドニュース!皇帝のご子息が成人年齢に達せられた!」、このように福音とは皇帝に関することであったが、神の福音はそうではない。それはキリストに関するグッドニュースである。だからパウロは神の福音を「キリストの福音」と言い換えている。福音の本体はキリストである。神の救い主として降誕したキリストが私たちに救いを与えてくださるのである。キリストを信じることにより、罪の負債の赦しがあり、義と認められ、永遠のいのちが与えられ、神の子ども、神の民とされる特権が与えられ、永遠の御国が約束される。これは罪人にとって福音でしかない。多額の負債の全額免除以上のグッドニュースである。捕虜からの解放以上のグッドニュースである。病のいやし以上のグッドニュースである。永遠の滅びから永遠の救いである。キリストを信じることにより、このすばらしい救いが与えられというのが最大の福音である。これ以上の福音はない。キリストを信じるというのは、具体的には、キリストは神が人となれたお方であり、まことの王であり、私の罪のために十字架についてくださったお方であり、そしてよみがえって今も生きておられるお方であると信じることであるが、信じるとは信頼することであるから、それは当然、キリストの全人格に、また全生涯に信頼することである。キリストは絶対的に信頼できる。それだけの価値がキリストにはある。そして、すべての良きものがキリストにつまっている。福音とはキリストそのものと言って良い事実である。それだからパウロは16章25で、福音を伝えることを「イエス・キリストの宣教」と呼んでいる。

では、なぜパウロが「神の福音」また「キリストの福音」を、16章25節で「私の福音」と呼んでいるだろうか?それは、パウロがこの福音を自分のものにしてしまったからである。目の前に美味しいステーキがあるとして、そのステーキがいかに美味しいかの説明を受けて納得しただけでは、他人事である。いただきますと食べて、味わい、美味しさを実感し、それが血となり肉となって、私のステーキとして消化したことになる。パウロはガラテヤ2章20節では「キリストが私のうちに生きておられるのです」とまで言っている。パウロは完全にキリストを信仰で食した。そしてその価値を知り、満足している。消化不良はないようである。そこに何かを混ぜてもいない。

パウロはローマに住むクリスチャンたちに対して、福音のすばらしさを知っている者として、福音とはどのようなものであるのかを教えてきて、最後に、福音への熱い思いから神に栄光を帰して手紙を閉じているわけだが、今日の箇所を良く見ると、自分が信じて味わった福音へのこだわりのゆえに、偽りの教えに注意を払うように喚起していることがわかる。17~20節がその区分である。パウロはニセモノの福音を説かれることを望んでいない。それにだまされてしまうことも望んでいない。偽りの教えは17節にあるように、「分裂とつまずき」を引き起こす。

やっかいなことは、はじめ真理を説いていた人たちが真理から逸れていくケースである。それがけっこう多い。この人たちの話を聞いているほうは、気づいたら偽りに引き込まれていたということになる。牧師があるとき異端になり、教会がそれに習ってしまうケースも聞く。だが17節後半にあるように、その人が真正な教えを語っていないなら、「彼らから遠ざかりなさい」である。

偽りの教えを語る人たちは弁舌巧みなことが多い。見た目もカリスマ性があり魅力的な人で、そこにことば巧みときたら、だまされる確率が高くなる。パウロは18節で、「そういう人たちは、私たちの主キリスト・イエスに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らはなめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです」と言っている。パウロはこれを見てきている。パウロはこの手紙をギリシヤ半島のコリント付近から書いたと思われる。コリント教会ではニセ使徒が入り込み、その弁舌巧みさにだまされ、攪乱されたことがあった。その人たちは耳障りの良い彼らのことばにだまされただけではなく、「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に遭った場合の彼は弱々しく、その話しぶりはなっていない」(第二コリント10章10節)とパウロを批判していた。パウロは見た目もいまいちという評価だけでなく、話しぶりもいまいちという評価であった。それに対してニセ使徒たちは見た目も話しぶりもパウロに勝っていた。パウロは「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装しても、格別なことはありません」(第二コリント11章13~15節)と目を覚ますように諭している。パウロは彼らが「異なった霊」を与えていると言い、彼らの伝える福音を「異なった福音」と呼んでいる(第二コリント11章4節)。そして自分に関しては、「たとい話は巧みではないとしても、知識についてはそうではありません」(同11章6節)と述べており、パウロは自分の教えに耳を傾けてくれることを願っている。だから、何が真理で何がそうでないのかを見分けるポイントは、その人の見た目や話ぶりではなく、パウロが体系的に教えている福音にかなっているかどうか、ということである。その教えは、ローマ人への手紙等に、しっかりと記されているわけである。

偽りの教えはバラエティに富んでいる。私の信徒時代はキリストを神と認めないのは異端だから気をつけるようにと言われ、異端を見抜くのは比較的容易だった(統一教会、エホバの証人、モルモン教など)。しかし、その後、キリストを神と認めていても、それだけで信用してはならないことを知るようになった。キリストを信じても信じなくても、他宗教の神々を信じても救われるといった宗教多元主義が広まっていることを知った。さらに1980年代からは、しるし、不思議といった奇跡や、預言を前面に押し出すキリスト教が増えていった。それが聖霊によるものなのかどうなのか余り検証されまま、神のわざとして受けとめられるようになっていった。多くの人々はそれに飛びついた。キリストは山上の説教の最後で、終末の時代に警戒すべきこととしてこう言われた。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(マタイ7章22,23節)。私は様々な霊的な現象や体験を頭から否定する者ではない。私自身、様々な体験を持っている。また、霊能者との対峙、悪霊追い出しにも携わった。ただ、私は、神からの幻を受けた、悪霊どもを次から次へと追い出した、天使の群れを見た、病を癒した、死者をよみがえらせた、天国と地獄を見てきた等、それらを自慢げに語られても、それ自体に心惹かれることは全くない。それらすべてが神から来たものだとは限らないからである。大切なことは彼らが教えている中身である。新興宗教の方々も同じようなことを体験しているし、異端やニューエイジ・ムーブメントの方々の神秘体験も、うそかどうかは別として半端ない。

数年前も、幼い時から神秘体験を数限りなく繰り返してきた女性が、北海道からわざわざ私に会いに来たことがある。ニューエイジ・ムーブメントの神秘主義の危険を書いた私の文章が目に留まったということであった。彼女はニューエイジ・ムーブメントに浸かっていたが、その過ちに気づき始め、奇跡の数々も悪魔から来ることを認め始めていた。彼女は、ニューエイジから脱し、聖書の考え方に立ちたいということであった。聖書も良く読んでいるということであった。話を聞いていて、まだ偽りの霊にだまされていることがわかったので、聖書を開いて、「あなたはそう信じているけれども、ここにはそう書いていないよ、ほらっ」と教えると、目を見開いて驚きの表情をしたのが印象的だった。彼女はまだ、ニューエイジの主張に引きずられていたのである。やはり、聖書に何と書いてあるか、パウロはどう語っているか、それが大事なのである。だが、それができず、偽りの霊にだまされているクリスチャンの方々も大勢いる。

以前にもお話したが、神から〇年〇月〇日にキリストが再臨するという預言があったので備えてください、と文書を送ってきたプロテスタント教会があった。預言が信頼に値するしるしとして、神の霊が会堂に降りてきたという心霊写真までつけて。その教会も偽りの霊にだまされていたようで、再臨は起こらなかったので、あとで謝罪文を送ってきた。聖書は再臨の具体的な日を告げていないし、イエスさま自身、「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。ただ父だけが知っておられます」(マタイ24章36節)と言っておられる。にもかかわらず、こうしたことは歴史の中で繰り返し行われてきた。再臨の幻を受けたうんぬん。不思議なことを体験すると、すぐにそれを神からのものだと信じ込む傾向がクリスチャンにもある。幻、不思議な夢、耳に聞こえてきた声、霊現象など。見分けが必要である。もう一度言う。見分けが必要である。また、一度こうした神秘体験をすると、そういう体験を求めることが病みつきになる傾向にある。瞑想して神の声が直接聞こえてくるのを待つ。幻を求め続ける。結果、健全な信仰から離れてしまう。求めるのはみことばという神の御声である。

奇跡等を強調する人たちはご利益主義的傾向が強いことも知っておきたい。ある人たちの神学によると、神は、そしてキリストは、決して、苦しみ、病気、窮乏などは与えないということになっていて、それに反することはすべて、「サタンのしわざだ」ということになる。何かそこに神の目的があるとか、神の主権の中で起きたという考えには立たない。それらは拒絶しなければならないサタンのしわざとして単純に片づけられる。祈りにおいては、苦しみをもたらす悪霊に対する命令はあっても、悔い改めの祈りは捧げられない傾向にある。聖書を見ると、神の懲らしめがあることが数多く記されている。しかし、それらはすべてサタンのしわざになってしまうので、悔い改めの余地はなくなる。神は良いものだけくださるという神学は、明らかに、ご利益主義である。また、信仰者の病が癒されない場合は、それは信仰が足りないからだと片付けられがちである。

こうした人たちは預言も強調する。2020年3月に、アメリカで現代の預言者と呼ばれる方が、新型コロナウイルスを死滅させるための大集会を開いた。この方は、「わたしはあなたに新型コロナウイルスに打ち勝つ権威をすでに与えたではないか」という神の声が聞こえてきたそうである。この方は会場で、「新型コロナウイルスが世界中で死滅するように、イエス・キリストの御名によって宣言する」と勝利宣言した。だが一週間もして、世界保健機構は全世界の流行を示すパンデミックを宣言した。ある預言者グループの預言の的中率は20パーセントであると、彼ら自身が認めているようである。聖書の預言者の資格は的中率100パーセントではなかったのか。日本の預言活動を見ていても、外れた預言をいくつも見聞きしている。その預言はどこから来たのだろうか。預言者を標榜する人たちが支配する教会では、信徒たちが聖書をあまり読まなくなるという。預言者からの啓示があるから、聖書を読む必要性を感じなくなってくるという。こうした聖書への軽視は今に始まったことではない。

数年前から、しるし不思議を強調しない異端の教えも良く耳にするようになった。特に韓国系の異端が猛威を奮ってきている。日本ではもしかすると、こちらの問題が大きいかもしれない。韓国ではクリスチャンの数よりも異端の数が急成長していると言われている。韓国は祈りや弟子訓練が熱心だが、キリスト教教理を学ぶ姿勢が弱かったのではないかという反省が投げかけられている。異端は、聖書の教えをわかりやすくまとめた教えはこれだと、そちらのほうを熱心に学ばせる。実質、それが聖書以上の権威を持つことになる。そして18節後半にあるように、純朴な人たちの心をだましてしまうのである。

韓国発で日本で問題になっている異端を幾つか紹介しよう。「キリスト教福音宣教会」(摂理)~教祖が強姦容疑で国際指名手配をされたことがあるが、教祖を「時代の主(メシア)」と説いている。こうした異端に多いのは、正体隠し、偽装勧誘の手口で誘ってくることである。旧統一教会もそうである。こうした人たちは、人格形成やマネジメントや環境問題のセミナーに誘って、何回目かに、実は私たちは…と遅れて正体を現す。「新天地イエス教会」~韓国では統一教会以上に問題となっていて、「既成教会乗っ取り教団」と言われている。教会に一般信徒として潜入して、教会をかき回し、分裂に追い込み、教会を乗っ取る手法を繰り返している。彼らは教祖を不死身の再臨のメシアと信じている。「グッドニュース宣教会」(救援派クオンパ)~彼らの勧誘の規模、しつこさは日本最大。教義の幾つかを拾ってみると、◎悔い改めを繰り返すのは救われていない証拠であり、救いを悟った者は悔い改める必要はない◎救われた者が犯す罪は成り立たないので悔い改める必要がない◎悔い改める人は地獄の子だ、自分を罪人と思っている多くのクリスチャンは死後地獄に行く◎律法は完全に撤廃されたので、救いを悟った後は、盗み・殺人・姦淫などを犯しても罪にあたらない。

こうした異端になぜ足を踏み込んでしまうのかということだが、はじめから正体を現さないで近づいてくることが多いので、引っかかってしまうということと、実にフレンドリーに近づいてくるので、その親密圧にやられてしまう。そして両足をその組織に突っ込んでしまうと、今度は組織から出たら地獄に落ちると脅されて、抜け出られなくなってしまう。

異端の見分けとして、やはり、何を信じているかの教義を聖書と照らし合わせることが一番大切である。キリストの教え、パウロの教えに照らし合わせるのである。あと教えられるのは、御霊の実と反対のものが常時見られたら疑うことである。良くあるのは、性的不道徳、富への執着、傲慢。エデンの園の場面で、蛇はアダムに、神のようになれると誘惑したことを思い出しいただきたい。世の終わりに登場する反キリストは、自分を神のようにみなす傲慢な者とされている。またキリストがマタイ7章23節で言われたように、「不法を行う」ということが挙げられる。

さて、ローマの教会は従順な人たちという評判である(19節前半)。彼らが従順であるということは、裏を返せば純朴であるということで、だまされてしまう危険もはらんでいる。だから、「私は、あなたがたには善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます」(19節後半)と言っているのである。「善にはさとく、悪にはうとく」というのは、健全な福音の教えに立ち、偽りの霊を見抜く、偽りの教えを見抜く、そうして悪に染まらないで善を保つという賢さと純粋さを求めることばである。吉田隆氏は、ここで言われている悪について、「換言すれば、キリストの福音の喜びから引き離そうとするものが悪なのです」と説明している。奇跡を目玉にする、ご利益で惹きつける、律法主義で縛り付ける、その他様々なものが、キリストの福音の喜びから引き離す。

福音を異質なものにしてしまう偽り、悪の背後にいる存在は、20節で言われている「サタン」である。サタンは「悪魔」の別称である。キリストはサタンを「なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8章44節)と呼んでおり、サタンを詐欺師だと明言している。サタンは霊の詐欺師である。サタンは神の衣を身にまとい、そして真正な福音に立っている者たちをもたぶらかそうとする。真理の大海に一滴の毒を混ぜ込むことさえしてだます。そして、教会の破壊、衰退に努める。ホンモノに似ているというのが危ない。似ているという事実の中に無限の隔たりが隠されている。だから、聖書を読み込んで、見分けることが必要である。

「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」(20節)。ここで神が「平和の神」と呼ばれているのは、17節の「分裂とつまずき」が意識されているからだろうか。神は分裂とつまずきの神ではなく、平和の神である。そして、サタンを踏み砕くのは、なんとキリストの足という書き方はされていない。20節を読むと、私たちはアドベントに読まれることも多い最初のメシヤ預言、創世記3章15節、「彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」を思い起こす。だが、ここではあえて、人の足がサタンを踏み砕くと言われている。しかし、ここで人の足とは、キリストの福音を正しく信じ、受けとめている者たちの足である。キリストとワンボディになっている者たちの足である。

現代は偽りの福音が蔓延している時代である。似ているが否そうではない偽りの福音、異なる福音が蔓延している。だが私たちは偽りの福音にだまされることなく、まごうことなき神の福音、キリストの福音を「私の福音」として自分のものにし、この福音に生かされ、喜びをもって歩んでいきたいと思う。