「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。悪すぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。」(伝道者の書7章16~17節)

「正しすぎてもならない、悪すぎてもならない」ということは、どういうことでしょうか?「中庸」ということばがあります。それは東洋の徳として良く知られています。意味は「片寄らず常に変わらぬこと」「中正の道」ということですが、聖書の説く中庸とはどういうことでしょうか?人並みの正しさと悪さを身に着けるということでしょうか?そうではないようです。

「正しすぎる」とは、おごり高ぶって、自分は正しいと決めつけてしまうことです。この人は滅びます。新約聖書に登場するパリサイ人などがそうです。彼らは自分を義人だとみなしました。

では「悪すぎる」とはどういうことでしょうか?これは端的に悪に走る姿です。この人も滅びます。しかし、神を畏れ、神の前に謙遜な人は、自分は善人ではなく罪人であることを認めますが、だからといって悪に走ることもありません。悪に走らないからといって、自分は罪無しともしません。この本物の中庸の模範は使徒パウロです。「私にはやましいことは少しもありませんが、だからと言って、それで無罪とされるのではありません。私をさばくお方は主です」(Ⅰコリント4章4節)。

この中庸を身に着けるキーワード、謙遜について、マタイの福音書5章3節から学んでみましょう。イエスさまは「心の貧しい者は幸いです」と言われました。「貧しい者」の原語は<プトーコス>です。古代においてこの語は、物乞いをするために街角でしゃがみこんでいた極貧状態に身を落としていた人物に適用されました。この原語の意味を理解するために、貧しさを意味する一般的なことばも紹介しましょう。それは<ペニクロス>です。このことばは、神殿で全財産の銅貨二枚を献金した貧しいやもめに適用されています(ルカ21章2節)。彼女は本当に貧しかったのです。全財産が銅貨たった二枚ですから。でも、物乞いするほどの貧しさではありませんでした。まだ銅貨二枚あったのです。物乞いする貧しさのほうは、生計を維持するために完全に他人に依存するしかないという貧しさです。一文無しの貧しさです。ある人は言いました。「ペニクロスの貧しさは余分なものが何もないという貧しさで、プトーコスは全く何もないという貧しさです」。ですが、イエスさまが言われたのは物質面のことではありません。「心」の貧しさです。私たちはお金はあっても、教育があっても、社会的地位があっても、自分の心は神に物乞いをしなければいけないほど貧しいと気づかなければなりません。ルカの福音書では、心の貧しい人物が数人描かれています。次の箇所も見ていただければ幸いです。→ルカ18章9~14節の収税人 ルカ18章35~38節の物乞いをしていた盲人

イエスさまが私たちに求めているのは物乞いの精神です。イエスさまはその人に天の御国を約束しておられます。私たちのプライドはどう応答するのか???それは私たち一人ひとりの問題です。