前回の14章において、使徒パウロが信仰者を信仰の弱い人と強い人に分けていることを学んだ。この信仰の強さ弱さは、神に対する信頼の強さ弱さのことではなくて、信仰の良心の問題であることを学んだ。信仰の弱い人は、旧約の儀式律法に対するこだわりが強かった。食物規定などがそうである。それを守らないと良心がうずき、良心が汚れた。キリストを信じる信仰による救いは食べ物や飲み物、その他の慣習に左右されないわけだが、食べ物、飲み物といった、それ自体罪でもなんでもないことにおいて、良心を汚してしまう人、罪責感を抱いてしまう人がいた。パウロはそういう人たちを弱い人と呼んだ。多くはユダヤ教から回心したユダヤ人たちだった。この人たちは概して誠実で、厳格で、まじめな人たちだっただろう。長年、律法を守ることに努めてきたわけだから。しかし儀式律法などに縛られず、キリストにある自由を獲得していた人たちがいた。強い人たちである。多くは異邦人である。彼らは弱い人たちが口にしないものを口にした。弱い人たちにとっては、強い人たちの自由なふるまいはルーズに映ったはずである。すると、さばきたくなる。無神経だと。反対に、強い人たちは、昔の慣習に縛られている弱い人たちの神経質にも思えるこだわりを見て、いつまでこだわっているのかと、と蔑みたくなる。またさばきたくなる。結果として、信仰の弱い人たちと強い人たちの間に溝ができてしまう。実際、そういう問題が発生していたわけである。パウロはこうした、それ自体は罪でもなんでもない事柄で関係がギクシャクしてしまう現状を見て、14章でアドバイスを送った。そのことを前回は、受け入れる、さばかない、つまずきを与えない、互いに平和と霊的成長に役立つことを追い求める、以上の四つのポイントに分けて学んだ。今日はその続きである。

「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです」(1節前半)。「力のある者」とは強い人のことである。6節までは、特に強い人への勧めとなっている。パウロは「私たち力のある者は」と言っているので、パウロも強い人である。ユダヤ人であるけれども強い人である。パウロは自分が強い人であることを意識して、同じく強い人に勧めている。強い人は弱い人に対してどうすべきなのだろうか。争い事にならないために、弱い人のふるまいに対して口を出さないで黙認していればいいと、消極的アドバイスで終わってはいない。いや、それ以上のことを言っている。弱さをになうということを言っている。弱い人を助けること、サポートすること、アシストすることを教えている。それこそが、キリストにあって一つとされた教会の姿である。教会は神の家族である。家族について考えると、親は子どもの成長に対して長いプロセスにわたって犠牲を払うだろう。兄弟同士は助け合うだろう。ハンデキャップのある家族に対して、そうでない家族は手助けするだろう。病気になったら看護するだろう。こうしたことは当然なわけである。教会もまた同じである。冷たい競争社会ではない。できない人、弱い人を置き去りにして、自分さえちゃんとしていればいいという世界ではない。自分のやりたいようにやっていればいいという世界でもない。

パウロは、「力のない人たち」、すなわち、弱い人たちの「弱さをになうべきです」と語っているが、「になう」と訳されている原語<バスタゾー>は、重荷を負うことを意味し、十字架を負う意味にも使用されている。「彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を<負って>、『どくろの地』という場所に出て行かれた」(ヨハネ19章17節)。キリストは十字架をになったということ。私たちのためにそうしてくださった。それでは、弱さをになうということはどういうことだろうか。弱い人たちは強い人たちより多くの制限があり、できないこと、しないことが多い。それらをすると、すぐ良心が汚れてしまう。強い人たちにとってこうした弱い人たちは、めんどうな人たちに映るかもしれない。しかし、蔑むことなく、さばくことなく、愛し受け入れ、つまずきを与えるものを避け、自分の行動の自由を制限しつつ、歩調を合わせながら、その人に関わり、ともに交わり、ともに祈り、ともに学び合いながら、その人の霊的成長を手助けしていくということである。

「になうべきです」の「べきです」ということばにも注意を払いたい。原語<オフェイメロン>は、13章8節で「借りる」と訳されている。借りたものは負債であるわけだから、返すのが義務である。信仰の強い人が弱い人の弱さをになうのは愛の義務なのである。それは愛の負債ということである。

パウロは弱さをになうことを、表現を変えて説明していく。弱さをになうことの消極的側面は、「自分を喜ばせるべきではありません」(1節後半)である。親は子どもの興味に合わせてレジャーを選ぶとか、子どもの食べたいもの合わせてお店を選ぶとかあるだろう。弱い人に合わせるということは、それと似ている。パウロは別に、決して自分のしたいことを何一つしてはいけないと言っているわけではない。そうであるなら、人生は無味乾燥になってしまう。ここでは、自分のことしか考えない自己中心や個人主義を戒めているわけである。

弱さをになうことの積極的側面は、「私たちひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」(2節)である。説明を要するのは「その徳を高め」<オイコドメオー>である。新改訳2017は「霊的な成長のため」と訳している。「徳を高め」というと倫理道徳の精神、儒教的精神を思い浮かべてしまうが、<オイコドメオー>は14章19節では、「霊的成長に役立つ」と訳されている。<オイコドメオー>の原意は「建て上げること」ということだった。この場合、信仰の建て上げである。それが霊的成長である。パウロは相手の霊的成長のために心を砕くことを15章でも強調しているということになる。「その人の益となるように」とあるが、これは霊的成長を言い換えた表現である。そのために相手に仕えるということである。

こうした力のある者が力のない人たちの弱さをになった模範、自分を喜ばせないで相手の霊的成長に努めた模範として、パウロはなんとイエス・キリストを挙げている。「キリストでさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった』と書いてあるとおりです」(3節)。

聖なるキリストは人となられた。それだけで大変なことであったと思う。罪人の世界で生きていくわけだから。聖なるお方が罪の悪臭と汚れに満ちたこの地上世界で生きること自体、心地よいことではなかったはずである。肥溜めの中に落ちたようなものである。しかも、人として生活するには不便な古代を選択された。車も電気もない。また貧しい家庭に生まれることをよしとされた。贅沢はできない。食べ物のことでつまずきうんぬんを言うなら、だいいち、キリストは食べる必要などない神であったことを覚えておきたい。それなのに、私たちと同じく食べなければならないからだ、疲れてしまうからだ、眠らなければならないからだを持ってくださった。御使いのようなからだであったら楽であったろうに。キリストのライフスタイルだが、ユダヤ人としてお生まれになったので、ユダヤ人のライフスタイルに合わせられた。着るもの、食べるもの、生活様式、すべて合わせられた。社会生活では人につまずきを与えることを避けられた。マタイ17章24~27節を見よ。ここでは「宮の納入金」のエピソードが記されている。ユダヤ人の20歳以上の男子は、毎年半シェケル納める規定がある。だが、王は自分の子どもたちからは税や貢は取らない。子どもたちにその義務はない。では、神の子どもたちはどうなのか。同じであるはずである。だいいち、キリストの場合、キリストは神殿で敬われるべき神のメシアであって、神殿の納入金を納める立場になどない。納めなくとも良い。しかし、人々につまずきを与えないためという理由から、納入金を納めるようにペテロに命じた。

三年間寝食をともにした弟子訓練では、わがままで、知識に乏しく、トンチンカンなことばかり言う弟子たちに対して、苛立ったりせず、愛と忍耐を持って接し、彼らを教えた。度重なる失敗にも寛容であられた。群衆に対しても惜しみなく時間を使った。群衆は自分本位であったが、彼らを邪魔に思うのではなく、群衆を深くあわれみ、彼らを教え、いやし、大きな労を払った。このようにしてキリストは、王の王、主の主であられるにもかかわらず、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(マタイ8章20節)という生活を送られた。まさしく、「ご自分を喜ばせることはなさらなかったのです」(3節前半)と言われているとおりである。

キリストは、ご自身を喜ばせるどころか、そしりがふりかかったと、パウロは言っている(3節後半)。3節後半は詩編69編9節の引用だが、パウロはこの詩編を引用したとき、キリストがことばにおいて、悪口雑言、あざけり、ののしり、誹謗中傷を浴びたことと同様、肉体において非常な苦しみを受けられたことが心にあったと思う。すなわち、十字架の苦しみである。キリストはご自分を喜ばせることなく、私たちの救いのために、この苦しみを味わわれた。キリスト私たちのために、いや、この私のために、この極限の苦しみさえ忍ばれたことを覚えなければならない。そして、キリストは今もまた、霊的成長が鈍い私たちに対して限りなく忍耐深い。見捨てることなく取り扱い、教え励まし、導いてくださっている。このキリストの姿が兄弟姉妹に関わるときの私たちの模範である。

パウロはこうして、教会を構成する多様な人たちが、キリストを模範として、キリストにあって一つになることを願っている(4,5節)。ここでは、神が忍耐と励ましの神であることが言われ、それはキリストの姿そのものであるわけだが、それに倣い、「互いに同じ思いを持つように」なることが願われている。「互いに同じ思いを持つ」とはどういうことだろうか。教会はクローン人間の集まりの場ではない。信仰の強い弱いを取り払っても、性格、気質、好む食べ物、飲み物、生活パターン、相違がある。そういう意味で、同じ人間はひとりとしていない。けれどもお互いにキリストを信じているということでは同じである。互いにキリストを模範としていきたい、そして神の栄光を現していきたいという志を持つならば、キリストにあって一つ心になるはずである。それは多様性の一致である。パウロはそれを願っている。一つ心になる目的もゴールも神の栄光である。「それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです」(6節)。このビジョンのもとに、私たちは互いに教会生活を営んでいくわけである。人種、性別、性格、社会階級、職業、救われる前の背景、信仰の段階、持てる賜物、ライフスタイル、肉体年齢、こうしたものがみな違う。本当に教会はバラエティに富んでいる。けれども、バラバラになるように召されてはおらず、キリストにあって一つ心となり、神をほめたたえるように召されている。礼拝もそうしたことを体現する場である。

以前、世界最高峰のオーケストラと言われる、ベルリンフィルハーモニーの楽団員として正式に迎え入れられる資格の話を読んだ。そしてナルホドと思った。正式な楽団員になるためには、どのようなすぐれたテクニックを持っていてもだめらしい。また独奏曲を完璧に弾きこなせてもだめらしい。全体で音楽を作り上げるという理解に乏しかったり、指揮者が作り上げんとする曲想を理解しようとしなかったりすると正式には迎え入れられない。つまり、自分がうまいだけではだめだということである。こうしたことは教会にも相通じると思った。わたしは信仰が強い、わたしは知識を持っていると、それを誇っていても仕方がない。わが道を行く、わたしの流儀を通す、それではだめなのである。神を賛美するハーモニーを奏でるために、一人ひとりがキリストに向き合い、そして受け入れ合う姿勢を持つことである。

「こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」(7節)。「受け入れなさい」という命令は、すでに14章1節で言われていた。「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」。「受け入れなさい」は「暖かく歓迎する」という意味であることをお伝えした。なぜ、互いに受け入れなければならないのか。キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったからである。私たちは今一度、自分のような罪深い者がキリストに受け入れられているという事実に思いを馳せたい。また、意見を異にするあの人もキリストが受け入れてくださった人なのだということを十分にわきまえ知りたい。キリストにありて互いを見るということ。こうしたキリストにある事実に目が曇り、私たちは心が狭くなり、受け入れるのではなく、はじく恐れがある。なんでそうしないんだ、なんでそう考えないんだ、なんだあの人はと。

教会に属する人を二つに大別すると、信仰の弱い人と強い人ということであったが、さらに四つのタイプに分けることができるだろう。信仰が弱くて強い人をさばいている人(×)、信仰は弱いけれども強い人を受け入れている人(〇)、信仰が強くて弱い人を蔑んでいる人(×)、信仰は強いけれども、弱い人を受け入れている人(◎)。信仰の弱い人にも強い人にも求められていることは、受け入れるということである。そして強い人にとっては、その姿勢が弱さをになうということの基本姿勢となるのである。信仰が強いというだけで、そこにあぐらをかいているだけなら、自分の高慢を悔い改めるべきである。

パウロは、これまで、教会を構成する弱い人(主にユダヤ人)と強い人(主に異邦人)に関して語ってきたが、8節以降、教会の枠にとどまらず、ユダヤ人も異邦人も神をあがめ、ほめたたえるようにと加速して語っていく。「異邦人」という表現が目立っていることに気づかされる。来週からアドベント(待降節)だが、バッハは待降節に歌う有名なカンタータ、「今こそ 来てください 異邦人の救い主よ」を作曲した。12節では待降節に良く読まれるイザヤ11章10節のみことばが引用され、「エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける」と言われている。キリストはユダヤ人だけでなく、異邦人の救い主である。このお方に望みをかける。

最後の13節では、神を希望の神として提示して終わる。「どうか、望みの神が(新改訳2017「希望の神が」、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望み(新改訳2017「希望」)にあふれさせてくださいますように)。実は、この13節で、長いローマ人の手紙の本論は終わりである。パウロは本論を締めくくるにあたり、神を希望の神として提示している。神は私たちに希望を豊かに与えてくださるのでお方である。現在がどのような状況にあろうとも、希望の神が私たちの足取りを強くしてくださるのである。私たちはこれまで「愛の神」という表現を一番良く聞いてきたかもしれない。愛の神は忍耐と励ましの神であり、同時に、希望の神なのである。パウロは希望を印象付けて本論を閉じる。ローマ人のクリスチャンたちは大都市にあって、16章などから推論すると、100名台にすぎなかったと思われている。少数派もいいところである。時代の状況も厳しいものになっていく。このような状況にあって、彼らは打ち解け合わないで仲たがいしている場合ではなかった。それを14章から語ってきた。そしてこの少数派に対して、本論の最後に、私たちの神は希望の神なのだと、励ましを与えようとしている。私たちにとっても神は希望の神である。信仰は無駄になることはなく、御国は訪れる。だからこそ、ともに希望の神を仰ぎ、一つとなり、歩んでいきたいと思う。