ローマ14章はクリスチャン間の対人関係について教えている。教会に集まってくる人たちは本当に多様である。育った文化は様々。そこから来る習慣の違いがあり、常識に感じるものが違ってくる。社会的境遇も様々。裕福な人、そうでない人。社会的階級も様々。権力のある人、そうでない人。また、年配者と若者という年代の差がある。その時代時代で受けた影響が異なるので、感性が違ってくる。また男性と女性という性別の違いがある。それだけで大きな違いが生まれる。気質も様々で、おっとりした人、熱くなりやすい人、細やかな人、大雑把な人とバラエティに富んでいる。こういった多様さは素晴らしいところではあるが、一つとなる難しさがある。互いに生活スタイルや、ものの見方、考え方、好みに違いがあるので、ぶつかり合ったり、場合によっては、さばき合うということが起きてしまう。

パウロは14章にきて、ようやく、ローマの教会の実際的問題を扱っている。ローマの教会を構成するメンバーは、ユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、といった分け方ができるわけだが、ここではそうした名称は表に出ては来ない。パウロは14章では、信仰の弱い人、信仰の強い人という分け方をしている。この両者で歯車がうまくかみ合わないという問題が起きていた。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」(1節)。さて、「信仰の弱い人」とはどういう人のことだろうか。気が弱い人ということではない。心が弱い人ということでもない。ストレスにすぐにやられてしまうとか、そういうことではない。気が強くても、心が強くても、信仰は弱いという人はいただろう。また信仰の弱い人とは、神への信仰が弱い人ということでもない。つまり、自分は神を信ずる力が弱い、神を信頼する力が弱いということでもない。さらには、信仰不熱心ということでもなさそうである。信仰熱心かつ信仰の弱い人はいたようである。ではいったい、「信仰の弱い人」とはどのような人のことを指すのだろうか。まずこれを抑えておきたい。信仰の弱い人とは、当時の文脈で具体的に述べると、旧約の律法規定に基づいて、食べ物、飲み物、日の守り方等にこだわりを持っていて、そうした自分の判断と違ったことをしてしまうと、良心が汚れてしまう人のことである。信仰の弱い人の弱さとは、信仰的良心の弱さと言ってよいだろう。具体的に誰が該当するかというと、概して、信仰の弱い人とはユダヤ教から回心したユダヤ人だった。それに対して、信仰の強い人とは異教から回心した異邦人だった。あくまでも概してということで、異邦人にも信仰の弱い人はいただろう。だが信仰の弱い人の多くはユダヤ人だった。

ローマの教会は、初期はユダヤ人を中心にメンバーが増えていった。そして以前もお伝えしたように、クラウデオ帝の時代に、ユダヤ人に対してローマ退去令が出されて、ローマの教会にユダヤ人はいなくなってしまった。異邦人だけの教会になってしまった。異邦人一色である。ところがネロ帝の時代の初期にこの退去令は解かれたので、ユダヤ人クリスチャンはローマに戻って来た。この二つのグループは仲良くやっていくことができるのだろうか。ユダヤ人のふるまいは異邦人からすれば、窮屈で無意味なものにも見えただろう。異邦人のふるまいはユダヤ人から見れば無神経にも見えただろう。回心した後も、それまでの生活習慣に対するこだわりが強かったのがユダヤ人である。彼らは神の選びの民、契約の民として生きてきた。そのしるしとして律法を守ることに忠実であろうとしてきた。特定の肉を避けるなどの食物規定、安息日を守るなどの日の規定を忠実に守ってきた。彼らはキリストを信じた後も、こうした規定の中にとどまろうとした。そうしないと良心が汚れたからである。神さまに申し訳ないと感じたからである。これらが信仰の弱い人たちで、主にユダヤ人がそうであった。彼らは、旧約聖書で預言されていたメシアはイエスさまのことであると信じたのだけれども、生活スタイルは古いままを選ぶ傾向にあった。そうなるのはわかる気がする。簡単に古いものから脱却できないのが私たちである。

「何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかは食べません」(2節)。「何でも食べてよいと信じている人」は強い人である。信仰に基づく自由を生きている人である。食べられないのが弱い人である。ユダヤ人は律法の規定により、豚肉その他、避けて食べない肉があった。だが新約聖書の各書から教えられることは、神はすべての食べ物をきよいものとしてくださったということである(14節前半参照)。このことを信じ、すべての規定から解放されて自由となっている人は、何でも食べた。それが信仰の強い人たちである。当時、偶像にささげた肉の問題もあった。偶像にささげた肉が市場で売られていることは普通だった。パウロは「市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい」(第一コリント10章25節)。しかし良心の弱さから菜食主義者として生きるユダヤ人もいただろう。異邦人の中にも菜食主義者がいたことが分かっている。さて、食物に関して受け止め方が違う信仰の弱い人と信仰の強い人が一緒に食事をしたら、どうなるだろうか。どうなるかは、3節が暗示している。

「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです」(3節)。信仰の強い人は信仰の弱い人を侮った。「知識がないなぁ。びくびくすることじゃないのに。何をいつまでもこだわっているのか」。「侮る」は「軽蔑する、さげすむ」という意味のことばである。そして、信仰の弱い人は信仰の強い人をさばいた。信仰の弱い人は厳格で神経質である。彼らの目からそうでない人たちを見ると、「あのようなものを口にして、敬虔さが足りない。不注意だ。霊的な人じゃない」。このように厳しい目で見た。両者、反目しあうような状況があったのだろう。そういう意味で、お互いにさばき合っていた(13節参照)。

日の守り方も違った。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日を同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい」(5節)。一例を挙げると、ユダヤ人は土曜の安息日を厳格に守り、それが救いのために必要だと考えていた。回心したユダヤ人の中には、安息日を守らないと罪責感を覚えてしまう者たちがいた。つまり、信仰の弱い人たちである。しかし、ユダヤ教の日の規定から自由にされ、こだわらない人たちがいた。信仰の強い人たちである。

信仰の弱い人と信仰の強い人、割合としてはどちらが少なかったかということだが、1節の「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」からも判断できるが、信仰の弱い人のほうが少なかったようである。ですが、パウロは信仰の弱い人を、ほんとうに大切にしようとしていることがわかる。パウロ自身はユダヤ人であるけれども、まちがいなく信仰の強い人である。パウロは信仰が強い。けれども、信仰の弱い人を受け入れ、さばかず、つまずきになるものを置かないように努め、お互いの平和と霊的成長を追い求めた。

では、パウロが教えるクリスチャン間の対人関係について、四つの教えを見ていこう。

第一は、受け入れる(1節)。「受け入れなさい」ということばは、単に、教会のメンバーであることを認めなさい、ということではなくて、それ以上の意味があり、「暖かく歓迎しなさい」ということである。反目しあっている場合ではない。暖かく歓迎するフレンドシップの姿勢が必要なのである。多様な存在の私たちは、キリストが私たちを受け入れてくださったように、受け入れ合うことが必要である。違いを認め合いつつ、受け入れ合うのである。

第二は、さばかない。14章の前半は、さばかないことが強調されている。「その意見をさばいてはいけません」(1節前半)。「さばいてはいけません」(3節前半)。「それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか」(10節前半)。「ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう」(13節)。パウロは、相手の信仰者の罪に目をつむりなさい、と言っているのではない。パウロは14章で、誰の目にもはっきりと罪とわかる問題を取り扱っているのではない。それ自体は善でも悪でもない領域について扱っている。これが大前提である。食べること、飲むこと、それ自体、善でも悪でもない。ただ人によってそれは善にも悪にもなってしまう(14節)。日を守ることもそうである。私たちは行動の多様性を認めなければならない。

ロイドジョーンズが示唆に富むことを言っている。「私は万人向けの出来合いの規則集に反対するものである。一部の人は日課を規定したがる。何時に起床すべきか、朝食に何を食べるべきか、その後何をすべきか、といったことを告げていく。日課に従っていない人は罪人であり、失敗者と言わんばかりである。私は常にこうした考えに反対してきた。なぜかというと、私たちはみな異なっており、この種の日課を万人向けに規定できないからである。・・・私たちは肉体の中で生きており、肉体は人それぞれ異なっている。また、私たちには異なる気質と性質がある。だから、万人向けの規則集は規定できないのである」。自分の型を安易に押し付けても意味がないことは多い。

さばいてはならない理由は三つに分けて考えることができるだろう。一つ目は、互いに主のためにやっているのだから安易にさばくことではないということ。「・・・主のために・・・主のために・・・主のために」(6節)。パウロは6~8節で、「主のために」という表現を繰り返している。食べる人も食べない人も、信仰の強い人も弱い人も、お互いに「主のために」という信仰で判断してやっているのだから、さばくことではない。これが一つ目である。二つ目は、9、10節からわかるのだが、そこでは、キリストの十字架の死と復活がさばいてはならない前提として言われている。主がその人の救い主となるために十字架で死に復活された。主がこれほどまで愛してくださっている人をさばいてはならない、ということである。三つ目は、10節後半~12節からわかるが、10節後半では「私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです」と言われている。さばくのは神の働きであって、私たちがすることではないということである。私たちはやがて神のさばきの座に立つことになる者でしかなく、不遜にも、兄弟姉妹をさばく資格などない。ある方が、冷たい知り合いのことを思って祈り始めたそうである。「ああ父よ。あなたは彼がどんなに冷たいかご存じです」。その時、一本の指が彼の唇に当てられたように感じ、それ以上ことばを発することができなくなったそうである。そして彼の耳に、「彼に触れる者はわたしのひとみに触れる者だ」という声が聞こえてきて、彼は、相手の罪を摘発する罪を悔い改めたそうである。

第三は、つまずきを与えない(13節後半)。「いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい」。ここからわかるように、つまずきを与えないというのは、さばかないこと以上に積極的な姿勢である。当時の文脈で考えると、たとえば、信仰の強い人は豚肉、偶像に供えた肉を食べても良心は痛まないかもしれないが、それを見てしまった、あるいは食べてしまった信仰の弱い人の良心は痛むことになる。「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください」(15節)。「滅ぼす」とは強い用語である。それは永遠の刑罰に至らしめることではないが、弱い人の敏感な良心が強い人の行動を見ることによって痛みを覚え、さらには自分も確信がないまま、つられてその行動をしてしまうことによって、さらに痛みは増し、深い信仰的ダメージを味わうことを意味する。23節には、「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です」とあるように、この信仰から出ていない罪を犯させることになる。途中述べたように、食べること、飲むこと、それ自体、善でも悪でもない。それらは、その人が主のためにしたかどうかで、善にも悪にもなる。この信仰から出ていない罪を相手に犯させないために、信仰の強い人は自分の自由を制限するということ、これがつまずきを与えないということである。21節では「肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです」と具体例が挙げられているが、つまずきという観点から、自分の自由を制限する責任があるということを覚えたい。これは他者に合わせるという行動になる。それは愛の配慮である。愛するために自分の自由を制限するということである。

第四は、お互いの平和と霊的成長に役立つことを追い求める(19節)。これはつまずきを与えないことよりも、もっと積極的である。19節では最初に「平和に役立つこと」とあるが、少し前の17節において、神の国の本質は飲み食いにないことが言われている。食べ物、飲み物のことで必要以上に目くじら立てて、相手のことを見下したり、さばき合ったり、神の国の本質ではないことでトラブルとなり、平和を乱し、互いの関係がぎくしゃくするのは悲しいことである。もし食べ物のことで関係がぎくしゃくするなら、話し合ってテーブルに並べるものを工夫を凝らすとか、できるはずである。その他、違いを認め合って調整が必要なことはいくらでもあるだろう。

続いて「霊的成長に役立つことを追い求める」とあるが、「霊的成長に役立つ」<オイコドメオー>の意味は、「建て上げる」である。ここの場合の意味は、信仰を建て上げることである。この用語と反対の意味のことばが、20節前半の「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません」の「破壊する」である(新改訳2017「台無しにする」)。ここで意識されている破壊してはいけない「神のみわざ」とは、クリスチャンの信仰の建て上げのことで、特に、信仰の弱いクリスチャンが意識されている。つまり、弱い人につまずきを与えるならば、そういうことが破壊につながる。弱い人の良心を汚し、喜びと平安を奪い、強い罪責感を与えることにより、その人は信仰の歩みができなくなり、倒れてしまう。そうではなく、その人を建て上げなければならない。どうするかは、子どもの養育を考えてみてもよい。子どもに対して、自分と同じ渋茶を飲みなさい、自分と同じ質と量の仕事をしなさい、今すぐ私と同じ知識を持ちなさい、と言っても無理な話である。そのように、弱い人の成長には時を要することを認め、そのプロセスにかかわり、その弱さを容認し、暖かく見守っていかなければならない。その弱さに合わせて行動するということも必要になってくる。

さて、以上が信仰の弱い人、強い人の教えだが、現代の私たちにどう適用できるだろうか。牧師をしていると、それ自体善でも悪でもない問題について、数学的な二者択一の答えを求めてくる質問がよくある。「これはしても良いですか、悪いですか?」そうして、型にはまった答えを聞いて安心したいわけである。そのような人は、今日の教えによく耳を傾ける必要があるだろう。現代の私たちは1世紀当時の教会と同じ問題を抱えているわけではないが、十分に適用できる。「仏壇に供えたごはんをお釜に戻して食べる習慣があります。これを食べてもいいでしょうか」。まずは自分の良心の声に耳を傾けなさい、である。また現代は儀式的汚れから食べる食べないを判断するというよりも、農薬、合成着色料、保存料、遺伝子組み換え、といった化学物質の問題から、食べる食べないの判断基準が分かれるだろう。また現代は宗教的理由ではなく、健康上の理由から、ベジタリアン、またビーガンを選択する人がいる(「ベジタリアン」は肉、魚を食べない。「「ビーガン」はそれに加えて、卵、乳製品も食べない」)。21節にはぶどう酒について触れられているが、アルコールに関しても判断が分かれるだろう。聖書は「酒に酔ってはいけません」(エペソ5章18節)と命じているが、あとは自己判断にゆだねている。酔わなきゃ飲んでもかまわないと、短絡的なことも言っていない。当時、禁酒しているユダヤ人がいた。また異教徒の中にもいた。ぶどう酒はお神酒として神々にささげられてもいた。肉もささげられていた。21節の「肉も食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです」はそういうことが背景としてはある。日の守り方に関しては、今は土曜日の安息日にこだわる人はほぼいないが、しかし、礼拝を終えた日曜午後の過ごし方に違いがある。ある人は洗濯もしない。買い物も避ける。遊び方に関しても判断に違いがある。クリスマスその他の祝祭日の守り方もクリスチャンによって違う。そして、食べ物、飲み物、日の守り方にとどまらず、ファッション、お金の使い方、ライフスタイル全般にわたって、クリスチャンの間で判断の相違がある。SDGsの受け止め方などもそうである。それぞれが自分の中で確信を持つことである。良心に迷いがあることをすることはよくない。14節前半でパウロは「主イエスにあって、私が知り、確信していることは、それ自体で汚れているものは何一つないということです」と言っているが、後半では、「ただ、これは汚れていると認める人にとっては汚れたものなのです」と述べている。それ自体は善でも悪でもないことでも、その人の受け止め方によって、善にも悪にもなる。23節で言われているように「信仰から出ていないことは、みな罪です」となる。しかしながら、今していることは自分としては良心も痛まないし、主のためにやっているから問題ない、罪を犯してはいない、でハッピーエンドとはならない。まだ問題は残っている。他者との関係を考えなければならないからである。

良くある過ちは、自分が良いと思うことは他者にとっても良いことなのだと決めつけ、自分と違うふるまいをする人を歓迎しないでさばいてしまうということである。パウロは相手を受け入れ、さばかないように教えた。パウロはクリスチャンの行動に関して型にはめないで多様性を認めるだろう。当時であるならば、信仰の弱い人が、「わたしは豚肉を食べません」「ああそうか、わかった」。信仰の強い人が、「わたしは偶像にささげられた豚肉を食べます」「ああそうか、わかった」。パウロはこのように他人の意見を尊重するだろう。しかしパウロは、自分が良いと思ってやっていることでも、相手につまずきを与えるならば、「ああそうか、わかった」と言わないだろう。そして互いの平和に役立つことと互いの霊的成長に役立つことを追い求めるようにと諭すだろう。私たちは互いのために存在していて、自分ひとりのために存在しているわけではない。個人主義は禁物である。愛の負債を負い合うことが私たちの領分である。

さあ、私たちはそれぞれが自己吟味が必要である。現在疑いを持たず確信をもってやっていることであっても、良心に痛みを覚えなくとも、みことばの学びの過程でそれがまちがいであると気づかされるかもしれない。また、それ自体は罪ではない行動であっても、つまずきの問題から、してはいけないことであったと気づかされ、自分の行動に制約、修正を加える必要が出てくるかもしれない。さらには、クリスチャンの兄弟姉妹だけではなく、未信者の方々を意識して、生活の変化を迫られることがあるかもしれない。私たち一人ひとりがみことばに教えられつつ、何が今の自分にとって良いふるまいなのかを判断していこう。