ローマ人の手紙の本論は15章13節で終わった。ローマ人の手紙の主題は「福音」ということであったが、パウロは本論を閉じても、なお、福音への情熱を記す。

「福音」<ユーアンゲリオン>ということばは、キリスト教の専売特許ではない。このことばの意味は「グッドニュース」であるが、このことばは、パウロの時代、皇帝崇拝の儀礼に使用されていた、ありふれたことばであった。皇帝の多くは自分を神格化し、自分を印象づける出来事に際して、グッドニュースとしておふれを出した。町の布告官が街角に立って叫んだ。「グッドニュース!「新しい皇帝が王座に着かれた」。「グッドニュース!皇帝のお后にご子息が誕生した!」など。こうしたものはみな、「人の福音」にすぎない。けれども、パウロの伝える福音はそうではない。16節で言われているように「神の福音」である。それは人のグッドニュースではなく、人に対する神のグッドニュースである。それは皇帝に関するグッドニュースではなく、19節で言われているように、キリストに関するグッドニュースである。

パウロにとって福音を宣べ伝えるとは、キリストを宣べ伝えることであった。キリストのうちに、私たち人間の救いのために必要な、私たちを幸せにするために必要なすべてがつまっている。キリストこそ王であり、神の救い主であり、キリストを信じることにより、罪の赦しがあり、神との和解があり、救いがある。パウロはこのキリストの福音にいのちをかけてきた。

今日の区分の14節~33節を見ると、パウロはこれまでどのように福音を宣べ伝えてきたかということを回顧するとともに、今後の宣教計画を伝えている。今朝はパウロの宣教について足跡をたどり、パウロの宣教スピリットに感化されたいと思う。パウロは異邦人に福音を宣べ伝えるために召された使徒であるが、福音を宣べ伝えるということにおいて、重機にたとえると、ブルトーザーのような人物であり、併せて、車に例えるとスポーツカーのような人物であった。ブルトーザーとスポーツカーが合体したような人物であった。

では最初に、14節~22節のパウロのこれまでの宣教を振り返ろう。パウロはこの区分で、神の福音を宣べ伝える我が身を「祭司」として位置づけている(16節前半)。祭司とは神と人との間に立ち、和解の務めを果たす者のことである。祭司が行う具体的務めの一つは、神に受け入れられる供え物をすることである。パウロは、福音を信じて神に立ち返った異邦人そのものを「神に受け入れられる供え物」(16節後半)と呼んでいる。

パウロは誰よりも福音のために働いてきた人だが、しかし、パウロは、自分がしてきたことは、自分を通してキリストが働かれたみわざであったのだと強調している(18,19節)。18節では、「キリストが・・・この私を用いて」と言っている。また18節後半で「キリストは」と語りだし、驚くべきみわざも、キリストが「成し遂げてくださった」ものであることを語っている。パウロは、自分がやったという書き方をしないで、キリストのみわざなのだ、わたしを通してキリストが働いてくださったのだ、という書き方をしていることに注意を払いたい。「自分がやった、私がやった」、そういう我は見当たらない。パウロは謙遜に事実を述べている。

パウロは19節後半では、これまでの宣教活動の領域を伝えている。「その結果、私はエルサレムから初めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音を伝えました」。これは、ものすごい広範囲である。「イルリコ」と言われても、私たちにはチンプンカンプンだが、「イルリコ」とは、ギリシア半島の北西にある地域で、現在のユーゴラスビアとアルバニアがある地域である。エルサレムから直線距離にしても1500キ以上ある。イルリコの目の前にはアドリア海があり、それを西に渡れればローマがあるイタリア半島に足を踏み入れることができる。

驚くことは、エルサレムからイルリコという広大な領域の宣教活動を短期間に行ったということである。年数にして約6年間ぐらいの可能性が高い(ガラテヤ2章9節参照)。電車もバスもない時代である。ものすごいスピードである。そして「くまなく伝えました」と言われているが、原文の直訳は「満たしてきました」である(新改訳2017欄外注)。パウロの宣教ビジョンは全地に福音を満たすことである。今、見てきたように、パウロの福音を伝えるスピード、そして福音を伝えた領域は、驚異的なものがあった。

パウロの宣教ビジョンは、全地に福音を満たすことの関連で、もう一つあった。それは未伝地に福音を伝えることである。「・・・キリストの福音がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです」(20節)。まだ誰も伝道していない所に行って、そこに福音を伝えよう、というビジョンである。このビジョンがなければ、全地に福音は満ちないわけである。パウロは、全地に福音を満たす、未伝地に福音を宣べ伝えるというビジョンをこれからも遂行しようとしている。

では、22節~33節から、今後のパウロの具体的な宣教計画を見ていこう。パウロは、この手紙の執筆時、ギリシア半島の南に位置するコリント付近に滞在していたと思われるが、パウロの今後の計画は、まずエルサレムに向かい、次にローマに向かい、そしてイスパニヤ(現在のスペイン)に向かうというものであった(23,28節)。イスパニヤは、当時、世界の西の地の果てとされていた。地の果て宣教である。エルサレムもローマもすでに福音は伝播していたので、パウロはエルサレムにもローマにも立ち寄らず、まっすぐイスパニヤを目指すこともできたが、なぜか、エルサレム、ローマ、イスパニヤの経路を選択した。これには理由があった。

まずエルサレムに向かう理由は、異邦人教会の献金をエルサレムの教会に届けることにあった(25,26節)(第一コリント16章1~3節,第二コリント8~9章参照)。「マケドニヤ」も「アカヤ」もギリシア半島にある地域だが、パウロが今滞在しているのはアカヤにあるコリント付近。さて、ここで彼らから集める献金が「醵金」と呼ばれている。「醵金」とは耳慣れないことばだが「援助」とも訳すことができる(新改訳2017訳)。元来「交わり」という意味をもつことばである。住む地域は違っていても、同じキリストのからだに属する兄弟姉妹として、献金を通して愛の交わりということを表そう、キリストにあって一つであるということを表そうということである。パウロは異邦人教会の代表として、献金をエルサレムに携え上ろうとした。しかし、献金を携えるということであるだけなら、パウロでなくてもいいような気がする。パウロはエルサレムをパスして、ローマを通ってイスパニヤに向かうこともできたであろう。しかし、そうせず、エルサレムに向かったのは、ユダヤ人の教会と異邦人の教会との間が、まだギクシャクしていたという現実があったからである。エルサレムにいたユダヤ人クリスチャンたちは、パウロが14章で語った、いわゆる「信仰の弱い人たち」が多く、律法へのこだわりが強かった。彼らはこれまでのように、ユダヤ教の伝統的な儀式律法を守らないと良心が汚れた。そしてユダヤ人たちは儀式律法を遵守することに熱心であっただけではなく、異邦人との交わりをできるだけ避けるように教育されてきた人たちである。ユダヤ人と異邦人、お互いにキリストを信じクリスチャンとなったといえども、両者はうまく溶け合わないでいた。ユダヤ人クリスチャンたちは、自分たちと同じ慣習に従わない異邦人クリスチャンたちがルーズな人たちに見えて、裁きがちであった。パウロはユダヤ人と異邦人、両者の連帯と一致を強めるためにもエルサレムに向かう必要を感じていた。

パウロは、エルサレムに献金を届けて後、ローマに向かおうとしていた(28節)。ローマは幹線道路も発達していて、当時の世界の中心である。ここに教会が形成されていた。パウロがこの利点を見過ごすわけがない。パウロはローマを拠点として、さらに西へと宣教を前進させる計画を抱いた。宣教というのは支えられる側と支える側の二人三脚である。個人プレーはありえない。ローマの教会には開拓伝道の重荷を担ってもらい、支える働きをしてくれることを期待したわけである。24節では、「あなたがたに送られ、イスパニヤに行きたいと望んでいるのです」と語っている。送り出す側になって欲しいということである。

パウロはローマに向かった後、果たしてイスパニヤ(スペイン)で宣教をしたのだろうか。使徒の働きのパウロの活動の記録はローマで終わっている。その後の活動について記していない。しかしローマのクレメンスという人物が、紀元96年頃にコリント教会への手紙を書いているが、その手紙の中で、パウロがスペインに出かけたことを示唆している。「彼は全世界に義を教え、西方の果てに到達して(すなわちスペインにまで到達してということ)、彼の信仰の報いである高貴な栄誉を得た。権力者たちの前で彼の信仰の証をなし終えて、彼はこの世を去り、忍耐のすぐれた模範となって、聖なる場所に迎え入れられた」。伝承では、パウロは皇帝ネロの命令によって、ローマで斬首されたと言われている。紀元67年頃のことである。

30~33節では、パウロは今後の宣教計画のために、ローマの教会にとりなしの祈りを願っている。やはり、祈りなしには宣教は進まない。30節では、「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください」と、力を込めたとりなしの祈りを要請している。パウロは今後の宣教も前途多難であることを知っていた。

パウロは、具体的には、三つの祈りを要請している。第一は、ユダヤ教徒の迫害から守られるようにということである(31節前半)。パウロはこれからエルサレムに向かうわけだが、すでにこれまで、ユダヤ人から多くの迫害を受けてきたわけである。エルサレムに向かうということは、ユダヤ人にとっては、飛んで火にいる夏の虫である。パウロはかつてユダヤ教のリーダーであったので、裏切り者として、命を狙われることは必定だった。実際、使徒の働きを見ると、エルサレム入りして異邦人教会の献金を渡し、一週間経ったばかりで、なんと彼はユダヤ人の手によって国賊扱いで逮捕されてしまう(使徒21章)。しかし、彼の命は守られることになる。背後には祈りの力があった。

祈りの要請の第二は、エルサレム教会が異邦人教会からの献金を渡すという奉仕のわざを快く受け入れてくれるようにということである(31節後半)。エルサレムの教会は貧しかった。献金を喜んで受け取らないわけがあるだろうか。しかし、ユダヤ人クリスチャンたちは律法を守らない異邦人クリスチャンたちに対して偏見があったし、かつて毛嫌いしていた異邦人からの献金ということもあり、感謝をもって受け取ってもらえるかどうか不安な面があった。パウロ自身も偏見を持たれていた。ユダヤ人のくせに必要以上に異邦人に肩入れしているのではないかと。エルサレムに到着したパウロにエルサレム教会の指導者たちはこう伝えている。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。ところで、彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです」(使徒21章21,22節)。これは完全な偏見である。パウロは14章で学んだように、儀式律法を守らないと良心が汚れてしまうという信仰の弱いユダヤ人を念頭に、彼らを受け入れるように、彼らのライフスタイルを認めるように、つまずかせないように語っていたことを思い出していただきたい。だが偏見の塊のユダヤ人クリスチャンたちがいた。彼らがパウロに対して感謝の微笑みではなく、渋い顔で相対することが予想された。献金を渡すのにもプレッシャーを感じてしまうという事情があったわけである。これが現実である。でも、パウロは逃げ腰にならなかった。自分に対してウエルカムではないユダヤ人クリスチャンがいようとも、自分の命を狙うユダヤ人がいようとも、臆せずエルサレムに向かった。

祈りの要請の第三は、無事、ローマ行きを果たすことができるようにということである(32節)。パウロのローマ到着は、使徒の働きの最終章の28章に記されている。だが、ローマ到着まで多難であった。先ほど述べたように、パウロはエルサレムで逮捕される。パウロは裁判の過程で、ローマ皇帝に上訴することによって、彼のローマ送りが決定する。それを知ったユダヤ人たちは暗殺計画を立てるが失敗に終わる。またパウロが船で移送される途中、大暴風雨に巻き込まれ、船が難破したこともあった。ルカは「太陽も星も見えない日が幾日も続き、激しい暴雨が吹きまくるので、私たちが助かる望みも、今や絶たれようとしていた」(使徒27章20節)と記している。しかし、この災難からも守られた。難破のため、途中停泊したマルタ島では毒蛇にかまれたこともあった。パウロはこうしたすべてのことから守られ、無事にローマに着いた。パウロは当初は、エルサレムから旅をしてローマに行く計画であったと思うが、意外にも、パウロのローマ行きは、旅ではなく、囚人として移送されるかたちで達成されることになる。こうして様々な妨害やアクシデントにもかかわらず、無事に願いがかなえられた背景には、とりなしの祈りがあったことを見落としてはならない。ローマの兄弟姉妹のとりなしの祈りがあった。もちろん、エルサレムの兄弟姉妹の祈りや、コリントをはじめとする異邦人教会のとりなしの祈りがあっただろう。ローマ到着は、決してパウロの信仰だけによるものではない。背後には何百人レベルのとりなしの祈りがあったことを覚えよう。

パウロはローマに到着すると、囚人であったが2年間は軟禁状態であった。だから福音も自由に語れた。そして、この間、獄中書簡と呼ばれる、エペソ、ピリピ、コロサイ、ピレモンの四つの手紙を記したと思われる。獄中もむだにならなかった。その後、釈放され、すでに述べたように、西方のイスパニヤにまで行ったと推測される。そしてパウロは再び捕らえられ、ローマの牢獄に収監され、殉教の死を遂げることになる。殉教の死の直前には、最後の手紙となる、テモテへの手紙第二を執筆することになる。パウロはそこでこう書いている。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(第二テモテ4章6,7節)。彼はイスパニヤにも達し、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し、宣教の生涯を全うした。お疲れさまでした、の人生である。

最後に、パウロのような宣教スピリットで宣教の働きをした、東北伝道にもかかわりの深い、ペトロ・カスイ岐部(1587~1639)を紹介して終わりたい。彼は聖地エルサレムを訪れた最初の日本人として知られている。彼は大分のキリシタンの家系に生まれた。1614年、家康によって伴天連追放令が出された時、宣教師たちとともに国外に追放され、彼の場合はマカオに渡った。そこからヨーロッパを目指した。まずインドに向かい、そこから陸路を選び、現在のパキスタン、イラン、イラク、ヨルダンなどのイスラム諸国をよぎり、エルサレムに入った。そしてローマに渡り、そこで彼は、現在のグレゴリアナ大学で神学を修め、日本に入国する計画を練る。日本ではひどい迫害が起こっていることを耳にしていた。彼はポルトガルのリスボンに移った時に、ローマでお世話になった修練長への手紙で、殉教も覚悟していることと、「(日本で)キリストを知る人が増えることを願っています」という文章を書いている。

彼は帰国のため、船でポルトガルからインドに出発する。しかし船内は伝染病で数百人の死、嵐で破船の危険と多難が続き、そしてようやく1年2か月後にインドのゴアに到着する。その後、マカオ、タイ、アユタヤ、マニラと移り、渡航可能な場所を探す。そこに至るまでも多難続きで、政府から渡航を禁止されたり、渡航を試みるも、オランダの海賊に出会い命拾いし、ジャングルの中をさまよい、高熱を出して生死の境をさまよい九死に一生を得るということもあった。だが彼は諦めない。彼は他のキリシタンたちと相談し、中古の船を買い、日本人と船長と水夫たちを雇って、マニラから日本行きを図った。水夫たちもキリストのために命と血をささげようというキリシタンたちであった。

マニラを発つと、今度は新しい敵が出現した。今度は嵐でもなければ人間の反対でもない。また伝染病でもない。シロアリだった。船がシロアリに食い尽くされ、手の施しようのない状態になってしまった。応急処置をルバングで施し、ボロ船は航海を続けた。薩摩が近くなって喜んでいた時、最後の試練が待っていた。台風の大波に打たれて、ボロ船は七島の岸壁に激突、難破。もう船は使えない。しかし、島の住民が船を出してくれて航海を続けることができた。そして日本を離れてから16年後の1930年に帰国。船は薩摩半島に上陸した。だが、時はキリシタン弾圧がもっとも厳しい時代、弾圧ピークの将軍家光の時代を迎えていた。

岐部は長崎に渡ると、その後、東北まで潜伏活動を続け、岩手の水沢まで上った。水沢と言えば、奥州のキリシタンリーダーとして名高い、見分に住んでいたキリシタン領主の後藤寿庵(1577?~1638?)がいる。家臣のみならず、見分村全体がキリシタンであったことが知られている。寿庵のもとには全国から宣教師、信徒たちが集まって来たと言われている。水沢は伊達藩の所領であったわけだが、後藤寿庵は伊達政宗の信望が篤く、伊達政宗の正室、息女までもがキリシタンとなったと言われている。だが、後藤寿庵は1624年に追放される。後藤寿庵を惜しむ伊達政宗は、次の三つを守れば信仰を保つことは許すと勧告した。①一刻たりとも神父を邸に留めないこと②誰にもキリシタンの教えを説かず、またキリシタン達に信仰を固守することを勧めないこと③自分がキリシタン信仰を守ることを許されているのを内密にしておくこと。寿庵はこれらを拒んだ。追放後の彼の足取りは定かではないが、後藤寿庵の碑は登米市に建立されている。後藤寿庵追放後も伊達領は依然としてキリシタンの隠れ場となった。水沢は交通の面でも理想的な場所で、仙台方面にも、仙北地方、秋田、横手、津軽にも行くことができた。この地域が岐部の最後の活動の舞台となった。彼は、そこで1639年頃に捕らえられ、江戸に連行され、拷問にあった。その時、幕府の公務員となってしまっていた転び伴天連のフェイラ神父が岐部に棄教するよう説得する。岐部は、「あなたは信仰を棄て、何年もの間、世界のつまずきとなり、木と石の偶像を拝むのを恥と思わないのか」と反対に諫める。その後、当時、十字架刑にも匹敵する、日本で最も残酷な死刑手段であったとされる穴吊るしの刑に処せられることになる。彼が穴吊るしになりながらも、一緒に捕縛された仲間たちを励まし、信仰を強めているのを見て、役人はただちに彼を殺してしまったと言われている。こうして殉教を遂げ、52歳の生涯を全うすることになる。彼の宣教スピリットはパウロのそれを想起させるものがある。

今朝はパウロの宣教スピリットを中心に見た。パウロがどういう人物であったのか、想像していただけたのではないかと思う。私たちは、パウロをはじめとする信仰の先達たちの宣教スピリットの根源に、キリストの十字架があることを覚えよう。そして私たちもキリストの十字架のことば、キリストの福音を宣べ伝えるしもべとして歩み、またキリストの福音が全地に満ちることを願って、とりなす務めに励んでいきたいと思う。