聖書が教えている時認識は、初めがあり終わりがあるというものである。それは、出来事の積み重ねである。それを串刺し団子で考えることもできるだろう。出来事という団子の連続が歴史を作り、終わりに向かっていく。創世記が告げるように、初めに天地創造があり、様々な出来事が積み重なって、黙示録が告げるように、最後に御国の完成がある。私たちが今、待ち望んでいる出来事は、御国の完成をもたらすキリストの再臨である。

パウロは今日の区分で、「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから」(11節a)と切り込んでいる。私たちは、今がどのような時か知っているだろうか。パウロがここで「時」というとき、特別な時を指す<カイロス>ということばを選んで使用している。ここで特別な時という場合、キリストの再臨が念頭にある。キリストの再臨はキリストご自身が何度も預言しておられたが、キリストが昇天された時は、御使いが弟子たちに対して、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上っていかれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1章11節)と約束された。キリストの再臨によってこの時代は終わる。再臨が御国をもたらす。キリストの再臨によって完成した御国が訪れる。

キリストの再臨は近いのだろうか。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから」ということばは、近いということを前提とした表現である。「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています」(11節b)は、暗いけれども夜明け前というニュアンスである。もう目を覚ます時刻が近づいた。「というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです」(11節c)。「救い」とは、キリストの再臨によって完成する救いを指す。この救いが近づいていることの特徴は暗さにある。たとえると、それは「夜」である(12節参照)。パウロは、今の時代は霊的闇がおおっているではないか、それで時のしるしを見分けなさい、というわけである。皆さんも、霊的闇を感じるだろうか。この世界は歴史が進むとともに正しさが増して平和になってきているかと思えば、そうではなく、より汚れが増し、暴力的になってきている。時代が進むとともに闇が深まっている。退廃的な気風となり、それは信仰の世界にまで及んできている。

キリストはご自身が再臨される前兆として、不法がはびこり愛が冷たくなること、争いが多くなること、偽預言者、偽メシアが出現することなどを預言された(福音書後半)。闇は深まっていく。漆黒の闇が世界をおおう。しかし、その霊的闇は、キリストの再臨によって一掃される。

「夜はふけて、昼が近づきました」(12節前半)。夜のあとには朝が来る。ここでは「昼が近づきました」と言われているが、「昼」<ヘーメラ>と訳されていることばは、単純に「日」と訳されることばで、「夜明け」と意訳してもかまわないかもしれない。パウロは闇と光のコントラストを表現したいわけである。いつまでも闇夜の時間帯だけが続かないことは確かである。面白いことに、キリストは黙示録22章16節において、「輝く明けの明星」と呼ばれている。

私たちは、終末的時間認識の中で主に仕えていくわけである。主の再臨が近いのだから、霊的に眠りこけていないで、目を覚ますということ。目を覚ました者の生き方が12節後半以降で教えられている。

「ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて(新改訳2017「脱ぎ捨てて」)、光の武具を着けようではありませんか」(12節後半)。闇から光へ、それを先んじて生きるということである。もうすぐ夜明けとなるのだから、それにふさわしい生き方をというわけである。この12節後半の教えは、13,14節で具体的に教えられている。

「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか」(13節)。パウロはここで闇のわざの部類を取り上げている。これらは脱ぎ捨てるべきものである。着るものを着る前に、脱ぎ捨てるべきものがある。パウロは、これらの脱ぎ捨てるべきものを三つの対で説明しているようである。第一の対は「遊興と酩酊(新改訳2017「泥酔」)」。「遊興」とは暴飲してのバカ騒ぎである。これには泥酔がつきものである。第二の対は「淫乱と好色」。「淫乱」は寝床(ベッド)、また寝室(ベッドルーム)を意味することばで、悪い意味にも用いられ、禁断の性を表す。「好色」は欲望の抑えが効かないというニュアンスがあり、みだらな性的不道徳を意味する。第三の対は「争いとねたみ」。二つとも自己中心が根にあると言われる。これらを脱ぎ捨てて、「昼間らしい」、日中らしい、正しい生き方をするようにということである。それはどうすればできるかというと、主イエス・キリストを着るということである。

「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」(14節)。この箇所は、4~5世紀に生きたアウグスチヌスの回心によって有名になったみことばである。アウグスチヌスは知的ですぐれた学者であったが、性的不道徳から抜けきれず、苦悩していた。ある時、彼は「取って読みなさい」という少年の声を聞く。彼はローマ人の手紙をとって、この節に目を落とした。その時、彼の心に変化が起こり、彼の心はキリストの中に完全に入った。それが彼の回心の時であった。「主イエス・キリストを着なさい」は、12節の「光の武具を身に着けようではありませんか」の言い換えである。主イエス・キリストを装着せよ、ということで、キリストと一体になることの勧めである。「主イエス・キリストと一体となりなさい」という勧めである。

このみことばを、もう少し詳しく観察してみよう。聖書を注意深く読んでいる人は、私たちはすでにキリストを着たということも知っている。このようなみことばがある。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3章27節)。著者は同じくパウロである。パウロは信仰をもった人々に対して、キリストを着ていることを語った。とくにこの箇所は、キリストを信じて義と認められるという教えの中で語られている。私たちはキリストを着た。しかし、まだキリストを着たということを十分に発揮した生き方をしていない。キリストを着たという自覚が薄い。そうなると、実際は着ていないことと同じ生き方になってしまう。そこでパウロはローマ人の手紙のほうでは、キリストとの一体性を意識的に強めなさい、と言いたい。肉のほうに心を向けてしまわないで、キリストに心を向けてそうしなさい、意識して、キリストと一体になりなさい、と言いたい。

私たちが普段衣服をまとうというのは、ただ単に、肌を隠すとか、寒さ暑さを調節するとか、そういうことだけではない。自分をつくるためにもそうする。もし、病気でもないのに、朝から晩までパジャマを着ていたらどうだろうか。デレーッとしてしまいそうである。パジャマは眠るには良い服装である。パジャマと眠りに関する共同実験があり、パジャマと普段着で眠りの質がどう変わるかの実験である。パジャマを着たほうが寝つきが平均9分短くなり、夜目覚める回数も15パーセント減ったと言う。たかが着るもの、されど着るものである。着るものが人の心身に影響を与えるのである。道徳的、霊的ふるまいのシンボルとして衣服を着るたとえは、古代から用いられていたようである。

現代の衣服に関することわざも調べてみた。 「濡れ衣を着せられる」。無実の罪を負わされることで、まさしく、キリストがそうなった。

「人は制服どおりの人間になる」。これは俗に言う制服効果というやつである。制服効果では有名な実験がある。スタンフォード監獄実験である。被験者を二グループに分けて、一つのグループは囚人服を着せて囚人役。別のグループは看守の服を着せて看守役。看守の服を着たグループは誰かに指示されたわけでもないのに囚人役に対して厳しい対応をとるようになり、ある囚人役は精神錯乱状態にまでなってしまう。そこで、あわてて実験を打ち切った。同じような制服効果の実験はほかにもあり、着る服で冷酷になったり、優しくなったり・・・。

「衣裳は人をつくる」。人は外見で判断しやすい。りっぱな服装をしていると、りっぱな人に見られる。そこを意識して衣裳で自分をつくるわけである。また整った衣服を着ると、引き締まった気持ちになったりするものである。ビジネスマンはスーツを着るとピシッとなると言われる。あるクリスチャンの兄弟が、今は私服を着てこんなだけれども、不断はネクタイをして気持ちを引き締めて仕事をしていると話していたのを思い出す。

「衣裳の選び方で女性の人柄がわかる」。私はよくわからない。ただ、キリストを選ぶことは、その人の人柄にとって大切なことである。

主イエス・キリストを着る、主イエス・キリストと一体になる、そのことを意識しよう。それは心の要素のすべてをキリストに向けるような生き方である。ドイツ語の詩で「朝の空が金色に輝く時」というものがある。ご紹介しよう。

 

朝の空が金色に輝く時 わたしの心は目覚めて声をあげる イエス・キリストをほめたたえよ

仕事場でも同様にイエスへの祈りをささげる イエス・キリストをほめたたえよ

私たちが心から祈る時 日は暮れ夜となる イエス・キリストをほめたたえよ

その優しい旋律を聴き 闇の力はおびえる イエス・キリストをほめたたえよ

 

心を目覚めさせ、キリストに心を向け、キリストをほめたたえるなら、闇の力は逃げ去ってしまう。それはまさしく、キリストを着ている姿である。

 

また次のような祈りの文章がある。サムエル・ブライアンという方の文章である。

 

神よ、わたしが理解しようとする時に、わたしの頭の中にいてください。

神よ、わたしが物事を見ようとする時に、わたしの目の中にいてください。

神よ、わたしが話そうとする時に、わたしの唇の中にいてください。

神よ、わたしが考える時に、わたしの心の中にいてください。

そして神よ、わたしの終わりの時に、旅立ちの時に、どうかわたしとともにいてください。

 

「神よ」という呼びかけを「キリストよ」に置き換えてみることができるだろう。

キリストを着るとは、キリストとの一体が言われているわけだが、考えてみると、「クリスチャン」という呼び名自体がキリストとの一体性を指すことばである。クリスチャンということばは、シリヤの首都アンテオケで生まれた(使徒11章26節)。人々はキリストに従う者をあざける意味で「クリスチャン」と呼んだ。それは小キリスト(リトル キリスト)を表していた。神は、私たちが全人的にキリストに向かうことを願っておられる。そうする時に、キリストの姿が私たちに開示され、キリストの価値を知り、私たちが肉の欲望にとどまるようなことはないだろう。そして、キリストの心を心として歩めるだろう。

骨董品の世界で「贋物」というものがある。本物に似せて作った偽物である。贋物を本物と見間違え、そこに心もお金も投資する失敗談をときおり聞く。キリストは贋物ではなく本物である。キリストをより慕い求め、キリストを知る者となろう。そして、キリストを我がいのちのいのち、キリストを我が喜び、我が望み、我が花婿、我が王、我が賛美、我がすべてとして生きていこう。このようにして、キリストの再臨を待ち望んでいこう。

 

最後に、エジプトの聖徒、シェヌーテ(466年頃没)のことばを紹介して終わろう。

 

家に入るとき、言うのです、神よ!

そして出るとき、言うのです、イエスさま!

休んでいるとき、言うのです、神よ!

そして、起きるとき、言うのです、イエスさま!

もし、喜びに満ちて祝うときには、言うのです、イエスさま!

もし、息子、娘たちが笑ったら、イエスさま!

水に触れる人は、イエスさま!

野蛮な奴から逃れる人は、イエスさま!

怪獣や恐ろしいものを見かけた人はイエスさま!

痛みや病のある人はイエスさま!

捕まった人は、イエスさま!

不正な裁きで、不義に苦しむ人はイエスさま!

イエスの御名のみが唇にあり、

それのみが救いであり、生活なのである。

イエスと御父の御名のみが。