ローマ13章8~10節「愛の負債」

 

今日のテーマは「負債」である。パウロは前回の6,7節で、社会的義務責任を果たすように、税金を納めるように告げた。その流れの中で、「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」(8節前半)と、クリスチャンの金銭的義務に焦点を当て続ける。8節の教えは、クリスチャンは絶対に負債を作ってはいけないという教えだと、受け取り違いされることがある。旧約聖書も新約聖書も、貸し借りそのものを禁じてはいない。出エジプト22章25節「わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸すなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を取ってはならない」。教会では無利子で教会員にお金を貸す制度を設けている所が多い。申命記15章810節「進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。必ず彼に与えなさい。また、与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざとを祝福してくださる」。ここはお金を借りて返済していく、いわゆるローンについての説明の一部である。貸し与える者は未練を持ってはならないことが言われている。箴言19章17節「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」。ここでは貧しい者への施しは、主に貸すこととして言われている。キリストも貸すことについて教えている。ルカ6章35節「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです」。返してもらうことを考えずに貸すように言われているが、これは必要としている人たちに真の親切を示しなさいということであり、貸すことがその人のためにならないと判断したときは、貸さないだろう。酒代に回ってしまうとか、遊びに使われてしまうとか。私も貸した時と、頼まれても話し合いの末、貸さない時があった。

保証人を依頼されることもあるだろう。金銭がからむ保証人は慎重でなければならない。箴言17章18節「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる」。箴言22章26節「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない」。負債の保証人となって、痛い目に遭った人の話は枚挙にいとまがない。私も慎重に判断し、断るものは断ってきた。

8節で言われていることは、「誰に対しても何の借りもあってはいけません」であるが、社会的義務責任は果たすという姿勢の中で、負債についても考えるわけである。まず借りるときは、不必要なものを買う目的で借りることがあってはならない。またすべきことでないことにお金を投資するために、お金を借りることがあってはならない。銀行が貸してくれる、他の金融機関が融資を勧めてくれたと言っても、判断は慎重にである。借りるときは、貸主との間で借りる額とか返済期限について取り決めを結ぶだろう。その契約書をろくに見ないでサインをして大やけどを負う人もいるが、取り決めには忠実でなければならない。期限まで完全に返済しなければならない。それをうやむやにして、あっちからもこっちからも借りてそのままにしている、ということがあってはならない。負債は返すものである。お金であっても物であっても、借りたものは返す。借りた相手が知人や親戚だからといって、甘えていてはならない。「だれに対しても何の借りもあってはいけません」とは、そのことが言われている。最初から返すつもりがなくて借りる人がいるが、それは論外である。また、損害に対する弁償ということも忠実でなければならない。他人に怪我を負わせた、他人のものを傷めてしまった等(出エジプト21章18~34節)。

さて、パウロは続いて、支払っても支払っても、一生負っていかなければならない負債について言及する。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です」(8節)。これは愛の負債である。すべてのクリスチャンは「互いに愛し合う」という義務がある。これは十分に支払わなければならない負債であると同時に、永久に支払い切れない負債である。初代教父オリゲネスは言った。「愛の負債は永久にあり、私たちから離れない。これは私たちが毎日支払わなければならない負債であり、永遠に支払う義務がある」。これは、パウロの考えを良く伝えている。パウロは、互いに愛を向けるというのは、してもしなくてもどっちでもいいこととは思ってはおらず、クリスチャンとしての絶対義務として受け止めているので、こういう表現をとっている。私たちは相手を見て、この人に負債を負っているとは普通思わない。この人に拘束される義務はないと思っている。でも、相手に対して愛という負債を負っている。それは選択の余地のない義務である。以前、「愛されるために生まれた」ということばを良く耳にしたが、パウロは、「愛するために生まれた」と言っている。「あなたは愛するために造られている」「愛することがあなたの本分である」と言っている。

パウロは愛の大切さを強調するために、8節後半で「他の人を愛する者は律法を完全に守っているのです」と語る。9節では、すべての戒めが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに要約されると言われている。私たちは、愛の負債の中身は、聖書の戒めを通して学ぶことができる。現代は愛という名で罪をカムフラージュする時代である。「姦淫するな」とあるが、愛という名のもとに姦淫がほめそやされる時代である。「殺すな」とあるが、「その人のためを思って、社会のためを思って殺した」と、殺人でさえ、愛の名のもとに正当化される時代である。以前、「あなたのためを思って言っているのよ」と、ある婦人が少女にまくし立てている場面に遭遇した。しかし良く耳を傾けていると、上手なことばを使って、年下の者に日ごろのストレスをぶつけているだけのようだった。

パウロは10節で、「「愛は隣人に対して害を与えません」と、愛の消極面について語る。12章後半で学んだ、のろうこと、復讐すること等も含め、そうした害を与えるようなふるまいは、愛に反するわけである。

では最後に、隣人を愛することを、ルカの福音書10章の「良きサマリヤ人のたとえ」から学んでみよう。10章25~37節をお開きください。詳しくは、ルカの福音書の講解メッセージの時にゆずるとして、ポイントを見てみたい。たとえ話の発端は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」の戒めに対して、29節にあるように、律法学者が「しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。『では、私の隣人とは、だれのことですか』」と質問したことによる。律法学者は隣人に関して、二つの点で理解不足だったと言える。一つは、隣人とはユダヤ人同胞のことであるという狭い理解しかなかったということである。たとえ話に登場するサマリヤ人を隣人の範疇に入れていなかった。ユダヤ人は彼らと付き合うことはして来なかった。嫌っていた。では、隣人愛の戒めを守っていないのではとなるが、ユダヤ人の理解では、隣人にはサマリヤ人は含まれていないので、戒めを破っているという自覚はない。しかし、正しい理解は、隣人の範疇からはじかれる民族、人種、人間はいないということである。敵も入る。

もう一つの律法学者の理解不足は、律法学者は「私の隣人とは、だれのことですか」と対象のほうに関心を寄せているが、自分が良き隣人となるという視点が欠如していた。自分が良き隣人となってはじめて、隣人愛の戒めを守ったことになる。自分が良き隣人となる、そのことをたとえ話から見てみたい。

エルサレムからエリコに下る道は強盗がよく現れることで知られていた。ある人が、強盗どもによって着物をはぎ取られ、半殺しにされ、倒れていた。おそらくこの人はユダヤ人と思われる。そこに祭司が通りかかる。次にレビ人が通りかかる。二人ともエリコに向かっていたわけだが、エリコは祭司の町として知られ、たくさんの祭司、レビ人が住んでいた。彼らはエルサレムの神殿で奉仕の後、エリコへの帰途にあったのだろう。倒れていた人に対する二人の反応は同じ。事実上、無視で、何もせず、反対側を通り過ぎていった。実際あった光景だろう。なぜ通り過ぎていったのか理由は言われていない。自分も強盗に襲われると思ったのか、死んでいる者に触れると儀式的に汚れるので避けたほうが無難と思ったのか、自分には時間がないと思ったのか。ただ、この後に登場するサマリヤ人との対象で、彼らにはあわれみの思いがないということが明らかにされることになる。これが問題の核心だった。

たとえを聞いていた律法学者は、32節辺りまではふんふんと聞いていたかもしれないが、キリストが33節で、「ところが、あるサマリヤ人が」と言われた下りで、ギクッとなっただろう。自分たちが差別し、憎んで、つきあいもしなかった民族の名前が挙がったからである。このたとえで、一番大切だと思われることばが、33節後半の、「かわいそうに思い」である。このことばは、「内臓、はらわた」と同語源のことばで、はらわたが揺り動かされるような深い同情やあわれみの思いを指すことばである。このことばは、ひとり息子を亡くした母親に対して、キリストが抱いた思いとして、7章13節で使用されている。「主はその母親を見てかわいそうに思い」。その後に、ひとり息子を蘇生させる。サマリヤ人は「かわいそうに思い」というあわれみの思いを抱いたゆえに、良き隣人となろうとした。彼はまず34節を見ると、傷の手当をする。オリーブ油は痛み止め、ぶどう酒は消毒薬である。ほうたいをして、自分の家畜に乗せる。ということは、自分は歩くということになる。向かった先は宿屋で、そこで介抱する。重症であったことは35節からわかる。「次の日、彼はデナリ二つを取り出して、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います』」。この節から合わせて言えることは、サマリヤ人の徹底した献身的な姿勢である。デナリ二つは二日分の労賃で、費用としてはかなりの出費である。そして、「もっと費用がかかったら、私が帰りに払います」とまで言っている。傷を負った者に対して割いた時間もエネルギーも金銭も半端ではなかった。すべて、彼のあわれみの思いから出ている。

キリストはたとえを語り終えた後、36節で、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と問いかける。「隣人になったのはだれですか」という質問である。律法学者の質問は、「私の隣人とはだれのことですか」。しかしキリストの質問は「隣人になったのはだれですか」。積極的に隣人愛に引き込む質問である。「彼は言った。『その人にあわれみをかけてやった人です。』するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい』」(37節)。「かわいそうに思う」「あわれみををかける」、こうした「あわれみ」が動きを作り、「隣人になる」ことを実現させる。キリストはこのようにして、この人が隣人とは誰なのかを知ることだけで満足されず、自ら「隣人になる」ことを求められ、「あなたも行って同じようにしなさい」と命じられた。

良きサマリヤ人のたとえ話を、ローマ13章10節の「愛は隣人に対して害を与えません」から見ることもできよう。たとえの中で、強盗どもはまちがいなく隣人に害を与えた。では祭司とレビ人はどうか。強盗どものように害を与えてはいない。けれども、助けようと思えば助けることができたのに助けなかった、見て見ぬふりをした、ということにおいて、強盗どもの肩をもったようなものである。フランスには見殺し罪がある。救助できる状態なのに救助を怠った場合など適用されるという。日本では保護責任者がこれを怠った場合、罪に問われる場合がある。祭司とレビ人は見殺し罪である。

今日は、私たちに与えられている愛の負債についてごいっしょに学んだ。この負債を支払っていこう。オリゲネスのことばをもう一度繰り返そう。「愛の負債は永久にあり、私たちから離れない。これは私たちが毎日支払わなければならない負債であり、永遠に支払う義務がある」。キリストの「あなたも行って同じようにしなさい」の御声を絶えず聴き続けながら、私たち自らが隣人になり、これを実践していこう。