今日の区分は「教会と国家」の関係について学ぶときに、必ず開かれるような箇所である。私も繰り返し読んで来た。そして、正しい国家観を身につけようと思った。しかし、今回準備をしていく中で、大切な視点を見落としていたことに気づいた。どういうことかと言うと、今日の箇所は、12章からの流れと独立して、ここだけ切り取って見られがちである。そして、教会と国家の関係はどうあるべきかと論じられがちである。しかし、ローマ13章1~7節は、12章1節から始まる新しい区分のひとつに位置づけられている。12章1節では、クリスチャンの日常生活の営みそのものが礼拝であると語られている。だから、国家への服従ということもそうである。そして前回学んだ12章14節以降からは、迫害する者を祝福すること、共感すること、平和を作ること、悪に対して善を貫き通すことを学んだ。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(12章21節)で終わった。

パウロは今日の教えで何を意識しているのだろうか。やはり、善を行うことである。ローマ人の手紙第一回の講解メッセージの際にお話ししたように、第四代ローマ皇帝クラウデオの時に、ローマにユダヤ人退去令が発令されて、ユダヤ人はローマから退去しなければならないという苦難を味わった。国家への不満たらたらであったと思う。この手紙の執筆時はユダヤ人はローマに居住することを許されていたが、やがてキリスト教そのものに対する迫害は厳しさを増すことになる。時の皇帝は暴君で名高い第五代皇帝ネロである。この頃はまだおとなしかったが、キリスト教に寛容な社会ではなかった。クリスチャンの間では、私たちに寛容とは言えない国家に税金なんか納めたくないという思いがあったのではないだろうか。暴動までいかなくとも、かなりの反抗心を抱いていたかもしれない。パウロは、この世にあって、悪に悪をもって報いないように、復讐しないように、善を行うように、口酸っぱく教えた。今日の教えは、良く見ると、その延長であることがわかる。クリスチャン市民として善を行うように教えている。3節では「善を行いなさい」とはっきり言われている。前回の教えの延長である。4節では、悪を行わないようにということが言われている。善を行うとは、7節で言われているように、社会的責任を果たすことなどが含まれる。パウロは牧会的観点から、読者に語りかけていることがわかる。上に立つ権威に服従しなさい、善を行いなさい、社会的な責任を果たし税金も納めなさい、人を敬う姿勢を表しなさい、それがクリスチャン市民の姿ですと。頭の中で、為政者とはどうあるべきか、ふさわしい国家の姿とは何か、あるべき社会制度はと、そのようなことを思い巡らして、自分はまともな知識人を気取っていても、先週学んだ12章後半の教えを汲み取らないで、人をのろったり、復讐に出たり、暴力に走ったり、また今日の教えを汲み取らないで、市民や国民の義務を放棄したり、上に立つ人たちに対してすげない態度を表したり、ただ反抗的なだけなら何にもならない。やはり、クリスチャンとしての徳を表さなければならない。色々な手段で国家や為政者を訴えるということもあるだろうが、それはある意味、二の次三の次で、まず良い市民としての態度を示すことが求められている。ローマは100万都市だった。それに対してローマのクリスチャンは家の教会のメンバーたちを全部足して100人以上いたかもしれないが、数は多くはなかった。先ずは証になる態度が優先である。善を行うことである。パウロはそのことを教えている。

以上のことをわきまえた上で、国家権力に対する服従ということを、今日の箇所からお話したいと思っている。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(1節)。「権威」と聞くと、権威へのアレルギー反応が生まれる。「神への服従はいいけれども、国家の権力に対しては抵抗したい」。「国家はすぐに悪に傾くから信用できない。距離を保っていたい」。気持ちは分かる。ただ、次のことばは真実である。「イエス・キリストはすべての権威のかしらであり、それゆえに、国家のかしらでもある。イエス・キリストこそ、国家の権威の起源であり、基礎づけである。それゆえに、地上の支配者への服従は、神への服従の中に位置づけられる」(JEA神学委員会「聖書的国家観に関する一考察」)。だから、神によって立てられた権威に逆らっている人は、神に逆らっていることになる。「したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます」(2節前半)。

これを聞くと、特に権威アレルギーが強い人は言いたくなる。「神によって立てられた権威と言っても、どこまでその権威に従えばいいのか?国家が悪に走った場合どうするのか?盲目的に従っていいはずはない」。こうした疑問について、「政教分離」の原則も踏まえながら考察してみよう。

かつての歴史において、教会と国家の関係が正しく理解されてこなかったことが多くあった。ローマ帝国では、教会権力(教権)と世俗権力(俗権)の二権力構造が存在し、教権と俗権の間で主導権争いが続いた。ローマ教皇が世俗の権力者である皇帝を任命するような時代も続いた。教会が神権的な国家体制を引こうとした。国家の権威は教会の絶対的権威の一部であり、国家は教会に従属しなければならないという考えである。似たようなことは過去にもあった。福音書に登場するパリサイ人たちは、神権的な国家体制しか認めず、どこまでもローマ帝国の権威を認めず、税金を払うことも嫌がった。キリストはこの姿勢を認めなかった。

これとは反対の立場がある。4世紀頃に起源があるとみられる東ローマ帝国では、世俗権力者の皇帝が総司教を任命し、皇帝が教会のかしらとなった。これも問題である。世俗の権力が教会を支配するのである。福音書の時代も似たようなことがあった。大祭司の任命権は世俗権力者であるヘロデ大王が握っていた。福音書に登場する祭司階級のサドカイ派は世俗的で、国家権力に妥協して、自分たちの地位と立場を守ろうとした。キリストは彼らとも対峙した。16世紀の宗教改革後も、今見てきたような教会と国家の癒着は消えなかった。こうした中、教会は国家権力と結びつくことによって堕落したと強く主張するグループが現れた。アナ・バプテストと言われるグループである。彼らは教会と国家の分離を主張したが、ただし、「教会は神が統治し、国家はサタンが統治する」という二王国論に立ってしまった。彼らの主張は今日ののみことばと対立する。「存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」(1節後半)と矛盾する。彼らは、教会は国家とのかかわりが少なければ少ないほど純粋であるとした。

同じような立場が現代の異端にもある。ものみの党は、この世の権威を全く認めず選挙にも行かないが、反面、日本のお金を使い、本を売ってお金を得ている。この世の権威を無視しながら、世の政治によって保たれている秩序のお世話になっているという矛盾に気づかない。世界平和統一家庭連合(旧:統一教会)はかつて、壺売りなどのインチキ商法などで話題となった。彼らは、この世界はサタンの所有だから、うそをついたり、だまし取ってもかまわない、と考えている。だから罪悪感をもたずに、この世で悪を行い続ける。彼らも二王国論に立っていると言えよう。

本当の意味での「政教分離」とは、地上の支配者への服従は、神への服従の中に位置づけられていることを認めた上でのことである。国家の権威を認めないということではない。その権威を認めて、良き市民として生きるように努めなければならない。法に従い、良き行いに努めなければならない。ただ、国家が自分の領域を越えて、権力を乱用し、人間の信条にまで立ち入ろうとするなら、政教分離の原理は犯されたということで、その点において国家の政策を拒否しなければならない。例えば、古代教会時代の殉教物語を読むと、クリスチャンが法廷で、「税金を納めます。皇帝にお仕えします。その他、市民としての義務は何でも果たします。ですが、皇帝を神として拝むことはできません」、そう言って殉教していった。

神によって立てられた権威は、神による権威として認めなければならない。その権威の座に置かれている人も敬う。そして仕える。しかし、権威は認めても、悪は認めてはならない。不正を働け、偶像を拝め、人を殺めよ、そうした悪は拒否しなければならない。

日本の事例から考えてみよう。内村鑑三は第一中学校教員であった時、「教育勅語」と御真影の拝礼を拒否する事件を起こす(1891年)。俗に「不敬事件」として知られている。当時、多くの教会は、キリスト教と教育勅語は矛盾しないとし、日清・日露戦争にも主戦論を唱えていた。教育勅語の冒頭は多神教的で、日本国の起源を神話的な祖先神の業とし、神道イデオロギーを植えつけるものであった。国家は「宗教団体法」を制定して(1939年)、アジア大陸侵略のための宗教動員を図る。この時、教会は政府の圧力のもとで一つになることが促され、政府に認可を受けて「日本基督教団」が結成される(1941年)。この頃の教団の出版物の一文にはこうある。「教育勅語を奉じ、天皇に忠節を尽くすことは、同時に我らの神に従い、仕えることになる」。当時の教会は天皇制に賛同し、明治神宮、靖国神社、伊勢神宮等で参拝し、アジアへの侵略戦争を聖戦とまで謳った。同じ頃、ドイツの教会は、ヒトラー総統の地位は神の思し召しであり、ナチス・ドイツの出現は神の啓示であるなどとして、盲目的に服従する過ちを犯した。ローマ12,13章は、善を行えと勧めていても、悪を行え、悪に妥協せよ、と勧めてはいない。彼らは13章1節を曲解した。13章1節は、上に立てられた権威に対してムラムラと反抗したくなる情勢を踏まえての教えであって、どんな悪い命令、指示にでも盲目的に従いなさい、ということを教えているのではない。権威に服従する基本姿勢の中で、神にあってできないことはできないと意思表示をしていいのである。文脈を無視して、聖書の一部だけ切り取ったら、都合の良い解釈はいくらでもできる。では、できないと判断したとき、暴動やテロ行為や暗殺計画で抵抗すればいいのかというと、パウロはまさしくそういうことがないように教えている。過去、ユダヤ人はそれを繰り返してきたからである。パウロが教えたいことは善をもって悪に打ち勝つということである。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(12章21節)。福音書の時代、人々はローマ帝国を剣でやっつける革命家としてのメシアの出現を期待していた。復讐のメシアである。しかし、キリストはそのようなメシアになることを拒まれた。そして「敵を愛せよ」と教えた。

私たちは国家に対してどうすることが願われているのだろうか。参考として、第一テモテ2章1~2節を開こう。ここで、すべての高い地位のある人のために祈るように促されている。すなわち、立てられた権威のために祈るように言われている。私たちは、これらの人たちのために何を祈ればいいのだろうか。祈りの目的は何だろうか。教会を迫害しないようにということだろうか。伝道しやすい秩序が保たれるようにということだろうか。むろん、それもあるだろう。しかしそれだけではなく、支配者の行う公義と正義を通して善が維持され、神の造られた世界において、安寧秩序が保たれるように祈るのである。国家が与えられた権威を正しく行使し、法と秩序によって正義を行い、地を正しく治めるように祈るのである。教会は、国家が神に任された立場を逸脱しないように見張りの役を果たし、祈りに加えて警告を発する必要も出てくるかもしれない。

ローマ人の手紙13章に戻ろう。今日の箇所は、国家権力への抵抗とか闘争とかばかりに心が向いて、服従の精神をないがしろにしがちなクリスチャンへの警告となっていることを心に留めよう。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」。ここで「存在している権威はすべて」とあるので、立てられた権威である政府にも、組織の上の人にも、そして、親にも、夫にも従わなければならない。第一ペテロ3章1節には、みことばに従わない夫であっても従うように言われている。今、具体的にそれらの権威の対象を思い浮かべながら、従うことができるように求めよう。

最後に13章7節を見て終わろう。「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい」。国家としての体制が、王制であろうと、共産主義、社会主義であろうと、政治形態はどうあろうとも、私たちは国家のために国民としての義務を忠実に果たさなければならない。納税義務、その他の義務を果たす。社会的責任はしっかり果たす。学校や職場でもその姿勢は同じである。そして仕える姿勢をもつ。恐れ敬うべき人を恐れ敬う。私たちはこのようにして、神に従うことを実践していこう。

最後の最後に、当時の奴隷制の問題について触れておこう。パウロは各手紙を通じて、奴隷は主人に従うように一貫して言っている。奴隷制に関して、当時の司法的秩序を受け入れている。だが、パウロは主人に対しても奴隷に対しても、キリストの愛の法則を適用することで、奴隷に対する主人の絶対的権利というローマ法の基礎を突き崩そうとしている。キリストの愛を知った主人は、奴隷をモノとして扱うことはできない。キリストの愛を知った奴隷も真心からかつ誠実に仕えるようになる。つまり奴隷制というかたちはあるが、実質的に奴隷制を愛で空洞化していけば、より神の御旨にかなった秩序が形成されるというわけである。奴隷制は撤廃されるのが望ましい。しかし既存の社会構造を急進的にぶち壊せばそれで問題が解決するかというと、そうではない。形だけ壊しても、無秩序の中から新たな奴隷制が生まれてくるだけである。まず大事なことは、既存の社会構造をキリストの愛で満たしていくということ、パウロはそれを知っていたのではないかと思う。

今日は「クリスチャン市民として」というテーマで見てきたが、私たちは社会人として、不満がゼロということはない。組織に対して、制度に対して、自分が仕える人に対して不満はあるだろう。だが、立てられた権威に従うのである。だれにでも義務を果たすのである。悪には抵抗するが、善をもって悪に打ち勝つのである。