前回は9~13節から、信仰者同士の愛の関係を中心にご一緒に学んだ。14節以降は、愛の対象がすべての人へと広がっていく。もちろん、そこには敵も含まれる。敵によって私たちの信仰は試される。今日の愛の教えは、主に四つに分けて見ることができるだろう。では四つを順番に学んでいこう。

第一は、祝福する。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」(14節)。祝福するに値しないと思われる人をも祝福する。「迫害」とあるが、当時、迫害にさらされている信徒たちが迫害にどう対処すべきかは死活問題だったので、教会として迫害をどう切り抜けていくか、しっかりと教えておく必要があった。ここでの教えは驚くものがある。パウロは、迫害する人々に対して、仕返ししてはならない、と言ってはいない。迫害する人々を赦しなさい、とも言っていない。もっと積極的な命令である。それは迫害する人々の祝福を祈りなさい、ということである。良く見ると、「祝福」ということばは二度繰り返されて、強調されている。嫌がらせをされた、嫌味を言われた、無視された、となると、この世では、恨むのは当然、口を利かなくなるのは当然、縁を切るのは当然、となっていく。しかし、クリスチャンには、恨んだり、呪ったりではなく、祝福することしか許されていない。なぜならば、クリスチャンの使命は人々を祝福することだからである。恨みは七代まで、などと言われることがあるが、恨みとか呪いが伝染してきても、自分のところでストップしよう。そして感情で祝福できなくとも、意志とことばで祝福しよう。「祝福する」ということばは、「良い事+言う」の合成語で、「良い事を言う」が元の意味である。当然、のろいのことばを吐くことではない。やめてほしいことは「やめてください」と言うだろう。当然の権利として主張すべきことは主張するだろう。だが感情的になって相手をののしることは慎むだろう。そして相手の幸せを願うことばを語る。また神の前に、その人を祝福する祈りをささげる。それが神の子どもたちの態度である。

第二は、共感する。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(15節)。喜ぶ者といっしょに喜ぶほうがむつかしいとも言われている。ねたみ、その他の感情が出たりするから。しかし、泣く者といっしょに泣くこともむつかしい。両方むつかしい。私たちがしやすいのは、悲しんでいる者を高いところから見て、同情を寄せ、悲しむ表現をとることである。実際に相手のレベルまで降りて行って悲しんでいるわけではない。16節では、「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい」と言われている。「順応しなさい」を新改訳2017では「交わりなさい」と訳しているが、「順応する」ということばは、「連れて行く」ということばの受け身の表現である。「連れて行かれる」。「低い者に連れて行かれよ」である(「身分」は補足のことば)。この模範は、イエス・キリストである。家畜小屋で誕生し、寒村で生活し、文字通り、低く、卑しい人々の友となり歩んで行かれた。本来なら王の王、主の主であられるお方であるにもかかわらず。キリストは低い者に連れて行かれ、彼らに共感されたことが福音書に記されている。

この共感ということにおいて、心に留まる文章に出会った。以前、正面衝突の交通事故で家族三人を失ったG.L.シッツアーというクリスチャン男性の、喪失と回復に至る物語を大筋ご紹介したことがあるが、彼は、こんなことも書いている。「私は最近、一人の婦人に会った。その婦人が、そこに居るだけで、言葉を一言も交わさないでも、涙を誘った。深遠な深み、同情心、恵みが伝わってきた。婦人の何かが私の構える気持ちを打ち負かした。あとで、その理由が分かった。彼女は出産時に二人の子どもを亡くし、11歳の娘もガンで亡くしていた。喪失に苦しんできたが、それでも人生に取り組むことを選んできたのだ。婦人は一人のすばらしい人間となった」。シッツアーは彼女から慰めを得た。彼女は完全に相手のレベルまで降りて行って共感する人になっていた。それは自分が悲しみの体験をしたという単純な事実から来ているだけではないだろう。喪失を味わった時、ただ自己憐憫や復讐したいという思いや、怒りや、そうした感情にだけとどまって、そこから先に進もうとしないのならば、常に不機嫌さを露呈するだけの人間になってしまい、真の慰め手にはなれない。実際、そういう人は多いわけである。自己憐憫や怒りや苦々しさにとどまっているだけで、人生に後ろ向きでいるなら、本当の意味で共感することは無理だろう。けれども、彼女は違ったようである。彼女は、神の愛の中にとどまることを選んだのだろう。

また、16節後半に、「自分こそ知者だなどと思ってはいけません」とあるように、自分をワンランク上の人間と思い違いし、人を見下す人がいることが暗示されている。この状態で共感などできない。自分の学歴、家柄、経歴などを誇り、他者を底辺の人間だと見下すわけである。それは底辺のあなたにふさわしい末路であると侮蔑したり、失笑したりする。当然、共感には至らない。重病を患ったヨブをお見舞いに来た友人たちは、まさしく自分たちを知者だと思っていた。最初は共感するそぶりを見せたが、本当に最初だけだった。ヨブを非難し始めた。神さまは共感が薄く高ぶってしまう私たちを、時としてへりくだらせる体験をさせる。そうした体験は、私たちから、見せかけや虚栄や無駄を取り除き、自分がちっぽけな土の器にすぎないことを思い知らせてくれる。そのことを通し、相手の不安定な感情、落ち込み、そして粗暴にも見える言動をも理解し、裁くのではなく、真の同情を抱けるようになる。

山本周五郎の小説に「茶摘は八十八夜から始まる」がある。本多政利という六万石の領主は自堕落で不業績極まりなく、酒を飲んでは暴れ、最終的に領地没収となって幽閉され、預かりの身となってしまう。それでも態度は改まることなく、朝から酒を飲み、衣食住に贅沢を言い、それが通らないと刀を抜いて暴れる。長尾平三郎という武士が相伴役に就く。将軍家からは、政利の態度が改まらなければ詰め腹を切らせよ、それができないならば毒害だという話も出ていた。平三郎は自分も酒に対する弱さを覚えていたので、詰め腹とか毒害ということばは自分に向けられたことばのように感じ、政利の今の情けない状態を他人事のように思えなかった。平三郎は政利の更生のために、彼と一緒に街道の道掃除、ごみ拾いの仕事を夜半に始めることにした。政利は、「俺を誰だと思っているんだ」と怒る。平三郎は、「あなたは家柄、血統を誇っているが、それらは人の価値を定めない。あなたは六万石の家をつぶし、家臣を離散させた。誇るどころか恥じ入るべきだ」と諭す。政利は世間で働く経験は初めてだった。彼はすぐに仕事を投げ出してしまう。平三郎は働く気がない政利に対して、疾駆していった飛脚を意識させながら、「生計を立て、妻子を養うために、この夜も働いている。みんな生きるために一生懸命だ。ところが、あなたは預かりの身になってからも衣食住には不自由はなかった。そのことを良く考えてみなさい」と諭す。政利は道掃除や茶店での庶民の話を通して、だんだんと世間のことが良くわかるようになっていく。そして庶民の苦しみを知るようになる。ごみ拾いの仕事の後に食事をする茶店で、生活苦から川に身投げをした子持ちの夫婦の話や、年貢取り立てに耐えられない、店賃が払えない、仕事がなくなった、借財を返せない、そうした理由から、一家離散、夜逃げ、盗みに入って捕らえられ自殺、そうした悲惨な話をしょっちゅう耳にすることになる。そして一般庶民は、いつか自分にも同じようなことが巡って来ると思いつつ生きていることを知った。彼は他者に向けていた怒りや非難を自分に向けることになる。そして目を覚ます。「自分は領民のために何をしてきたのか。自分は領主としてだけではなく、人間としても屑にも劣る」。実は、ハッピーエンドでは終わらない物語なのだが、平三郎と本多政利の心の軌道には惹きつけられ、それは共感とへりくだりの物語であった。

第三は、平和を作る。17,18節である。平和を作る人は、17節で言われている行動に出るだろう。「だれに対しても、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」。悪に悪で報いていたら、仕返しとかしていたら、平和も何もあったものではない。「すべての人が良いと思うことを図りなさい」の「図る」ということばは、「前+考える」という合成語である。意味は「前もって考える」である。私たちは、あの人なんてどうにかなっちゃえばいいとか、前もって悪いことを考える傾向にあるが、しかし、それとは反対に、前もって良いことを考えよ、と言うのである。状況を判断し、どうすることが良いのかを前もって考えるわけである。これは意識しないとできない。

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」(18節)。「自分に関する限り」は、新改訳2017では「自分に関することについては、できる限り」となっている。自分に関することについては、ということだが、私たちの周囲の人々は、私たちをいらだたせることをすることがある。感じの良くない接し方をしてくることがある。嘘もつかれる。裏切られるということも起きる。私たちは理想郷に住んでいるわけではない。罪人の世界に住んでいる。このような世界に住んでいて、仲たがいを起こすのは簡単なことである。相手の悪いところを見つけて非難し、関係を損なうのは簡単なことである。けれども、悪に悪をもって報いず、良いと思うことを図っていくわけである。こうしてピースメーカーの働きをするわけである。

付け加えると、私たち日本人は「平和」というとき、日本的「和」の精神を考えてしまうが、それとは少々違う。日本的「和」は、自分の感情や気持ちを押し殺し、その時の支配的な権威や雰囲気に合わせてしまうということである。良くも悪くも合わせてしまう。けれども、ここで言われている平和は、相手の悪に対しても善で向かっていくという積極的なものである。そのことを見落としてはならない。

第四は、善を貫く。そのことが19~21節で教えられている。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません」(19節a)。仕返し、報復は、クリスチャンのすることではない。パウロはここに来て、なぜか「愛する人たち」と呼びかけている。愛のうちを歩んでもらうために、愛の声によって取り扱おうとしているかのようである。パウロは彼らに、愛とは反対の復讐心の種を感じていたのだろうか。

パウロの積極的な勧めは「神の怒りにまかせなさい」(19節b)。原文に「神の」はない。補足である。直訳すれば、「怒りに場所を与えなさい」である。それで、いったい誰の怒り?となり、人の怒りであるという解釈も生まれたが、次の「復讐はわたしのすることである」(19節c)というのは申命記32章55節の引用だが、ここから、神の怒りに場所を与えることであることがわかる。私たちは場所を空けなければならない。神の義の審判、義なる怒りに、場所をゆずらなければならない。私たちは、この聖なるみわざの領域に足を踏み入れてはならない。それは僭越な行為でしかない。人は神の裁きの部屋に入るべきではない。私たちはそこに居てはならない。裁きは神に託し、私たちは、相手を祝福する、良いと思うことを図る、善を行う、という領分を守るだけである。私たちは神の下僕にすぎず、自分の領分を守らなければならない。

実は、「神の怒りにまかせなさい」の文の前に、つまり、「自分で復讐してはいけません」の文の後に、原文では<アラ>ということばが挿入されている。<アラ>は強い反意語で、先行する文の内容に反対することを述べる場合に使う。「否そうではなく」という意味となる。「(否そうではなく)、神の怒りにまかせなさい」。

「否そうではなく」は、20節の文頭にもある。「(否そうではなく)、もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい」(20節前半)。これは、良いと思うことを図る、善を図るということの強い勧めであり、その具体例となっている。キリストが言われた「あなたの敵を愛しなさい」の実践版である。この実践については、古代から現代まで、多くの事例がある。聖書にも事例がある。私たちが敵を愛するのが難しいのは、その敵が隣人である場合である。隣家の人、職場の人、良く顔を合わせる親戚など。さあ、どうするということで、祈りなしに、聖霊の助けなしにできないことである。

しかし、これを実践するならば、「そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです」(20節後半)と言われている。これは、どういうことだろうか。パウロは箴言25章21~22節から引用して語っている。「もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる」。「彼の頭に燃える炭火を積むことになる」、この意味が不明瞭で解釈が難しいとされており、私も色々調べたが、約7つの解釈を見出した。それらをすべて取り上げるのも有益とは思えないので、どういう解釈の可能性があるのか、二つだけ挙げてみたい。「燃える炭火」が焦点になる。

一つは、「神の裁きのシンボル」というもの。つまり、こちらから差し出す愛の援助は、実は神の裁きの火を、ますます相手の頭上に高く積み重ねて行く結果となる、と言う意味にとる。愛のわざは、単なる善の表示にとどまることなく、激烈な義の攻撃となる、というのである。旧約聖書において「炭火」に裁きの概念があることは確かである。「炭火は主から燃え上がった」(第二サムエル22章9節)「御前の輝きから、炭火が燃え上がった」(同22章13節)。しかし、燃える炭火を神の裁きのシンボルという解釈に立つ人たちでも、相手に神の裁きをもたらすために、その目的で愛を実践することを勧めているわけではない。この愛の攻撃によって、相手の心はいつしか砕かれ、真の和解に至る日が来ることを期待すべきだとする。実際、そのような事例は多い。しかし、こうした愛を拒むならば、結果として燃える炭火を積むことになってしまう。

もう一つは、「恥意識(自責の念)のシンボル」というもの。モファットはこの個所を、「そうすることによって、あなたは、彼に燃えるような恥意識を感じさせるだろう」と訳している。こんなに親切にしてもらったのに、自分は何ということをしてしまったんだ、という恥意識(自責の念)。燃えるような痛みを伴う恥意識。罪を恥じ入るということだろうか。

他の解釈もあるわけだが、どの解釈をとるにしても、愛のわざによって善を貫く姿勢が求められていることを、しっかりと受けとめたい。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(21節)。悪に対して悪で応答していたら、悪に勝てない。つまり、仕返しは悪に勝つことではない。それは悪そのものに対する敗北でしかない。「打ち勝つ」とは「征服する」という意味である。征服するのは愛であり善である。9節で「悪を憎み」とあったが、悪を憎んで人を憎まず、愛のわざによって善を貫くわけである。

旧約時代と新約時代の間の時代を「中間時代」と呼ぶわけだが、その時期、ユダヤはシリヤの支配を受けていたことがあった。セレウコス王朝時代である。その折りに、多数の市民が奴隷として売られたり、神殿にはゼウス像が安置されたり、豚のいけにえが献げられたりした。異教の祭りが強制的に慣行され、国中が偶像の祭壇だらけとなった。律法を読み、それを所有している者は処刑された。律法に基づく儀式も全面禁止で、安息日を守ることさえも禁止だった。その時、マタテヤという祭司が反乱を起こし、彼はやがて家族とともに荒野に逃れることになる。マタテヤは英雄とされたが、彼は子どもたちにこう命じている。「おまえたちの民になされた悪に復讐せよ。異教の民に十分に仕返しせよ」。息子のユダ・マカベウスが独立戦争を起こす。こうして新約時代を迎えるが、キリストはこうした復讐、仕返しの精神は認めず、こう言われた。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えられた(マタイ5章43,44節)。

ローマ人の手紙が執筆された時、ローマ皇帝は暴君として名を馳せることになるネロである。時代の風潮はクリスチャンたちにとって実に芳しくなかった。この時はまだ穏やかであったが、迫害はやがて激烈化していく。しかしパウロはキリストの使徒として、マタテヤのような精神を認めさせない。それは相手と同じレベルにまで自分を落とすだけである。「悪を憎んで人を憎まず、善をもって悪に打ち勝ちなさい」がパウロの教えである。13章に入ると、パウロは支配者に従う一市民として善を行うことを勧めている。市民としてのふるまいは次回学ぼう。今日は、「祝福する」「共感する」「平和を作る」「善を貫く」という四つのことを学んだ。容易なことではない。だが容易なことではないだけで終わったら敗北である。頭に来たと思うことは良くあることである。主の御霊の愛をいただき、今日の教えを生活の場で実践しよう。