ある人が、幸せとは愛されていることであると言った。単純かつ真実な定義であると思う。幸せの物差しは愛であるというのである。私たちは愛されているだろうか。私たちは神に愛されている。だから幸せなのである。私たちの罪は大きい。しかし神の愛と恵みはそれよりも大きい。そのことに気づきたい。神の愛はキリストの十字架で示された。キリストは十字架を前に逃げ出していたのなら、キリストは愛を演じていたと言われても仕方がない。しかし、私たちを罪から救うために十字架に身をささげた。十字架に身をささげることは芝居でできることではない。キリストの愛は偽りなき愛であり、本物の愛であった。この愛で私たちは愛されている。私たちは幸せである。そして、この愛がクリスチャン生活の土台となる。

9節から21節まで愛についての教えである。愛についての教えというと、コリント人への手紙第一13章が有名である。コリント人への手紙第一13章は、一般に「愛の賛歌」と言われ、「愛は寛容であり、愛は親切です…」のくだりは有名である。山本周五郎の短編小説に「晩秋」がある。私の好きな小説だが、一人の小娘がある藩士の世話人を務めることになる。小娘にとってその藩士は父親の仇であった。その小娘はいつも懐剣を懐に携えて藩士の身の回りの世話をした。チャンスがあれば仇を打とうと隙を伺っていた。その藩士は冷酷非道な人物として知られ、小娘の父親はその犠牲となって切腹してしまっていた。ある日、彼女はその藩士の真実な姿を知ることになる。彼は藩政の改革のために自らを犠牲にし、あえて心を鬼にして、死罪覚悟で、冷酷にも見えるふるまいをしたことを。そして彼は今、一切の言い訳をするつもりはなく、自分を死罪にするための調書を自らの手で作成していた。彼女は真実を知り、まさしく寛容と親切の精神を持つに至る。彼女の懐からは懐剣は消え、自らを死罪にするための書類作成でかたくこってしまった藩士の肩に手を置いて、いつくしみの念で肩を揉みほぐすに至る。

ローマ人への手紙12章だが、コリント人への手紙第一13章に匹敵する愛の賛歌と言える。コリント人の手紙第一では、まず12章で賜物について説かれ、13章に入り、目立つ賜物を持っていても、愛がないなら何の値打ちもないという語りだしに次いで、「愛は寛容であり、愛は親切です」と、愛の諸相が解き明かされている。賜物に次いで愛の諸相が解き明かされている。それはローマ人への手紙でも同じである。ローマ人への手紙12章を見れば、賜物について教えた後に、愛の諸相を解き明かすというスタイルをとっている。両者は似ている。執筆者は同じパウロである。コリント人への手紙のほうが早く執筆された。

今日は、ローマ人への手紙12章から愛についての教えの前半を学ぶ。9~13節は、日本語訳では、~しなさい、~しなさいという命令がいくつも続いているが、原文では9~13節までが、途切れることなく一文で言い表されている。直訳すれば、「愛は偽りがなく、悪を憎み、善に親しみ、兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思い、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え、望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励み、聖徒の入用に協力し、旅人をもてなすことに努める」となる。実に長い一文である。翻訳では、読みやすいように、六つに切って訳している。また、原文には、~しなさいという命令形の動詞はないが、12章は勧告する場なので、命令形で訳している。お伝えしたいことは、9~13節が一つのまとまりの文章であるということである。パウロはこの一文で、主に、信仰者同士の愛の関係を意識して教えようとしているようである。全部で教えは14ある。どれか一つでも深く心に留めたいと思う。では、ひとつひとつ見ていこう。

「愛は偽りがなく」~「偽り」ということばは、見せかけの芝居を演ずることを意味することばが使われている。真実の愛は芝居ではない。愛がなくても芝居では演じることができるように、そのような行為は、この世では普通に見られることであるが、私たちは、私たちのために十字架でいのちを捨てられたキリストの愛にならうように教えられている。それは裏表のない真実な愛である。

「悪を憎み」~「憎み」ということばは、憎むということばの冒頭に強意語がついている。強い憎しみを表し、大嫌いという意味である。ひどく嫌うことである。強い嫌悪の感情を示すことばである。ある訳は「悪を憎悪し」と訳している。愛はセンチメンタルなものではない。悪を心から強く憎むことなのである。悪を厳しく拒否することなのである。我が子かわいさに悪に目をつむる、それは愛ではないだろう。同じように兄弟姉妹の悪をほおっておく、それは愛だろうか。また自分が犯した悪についても同じである。キリストはこう言われた。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体がゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです」(マタイ5章29,30節)。これは悪を憎む描写である。

「善に親しみ」~悪ではなく善に親しむ。新改訳2017では「善から離れないようにしなさい」と訳されている。「親しむ」「離れない」と訳されることばは、「接着する、はりつく、くっつく」という意味を持つ。善にはりつく、くっつく。善悪に対してどっちつかずのあいまいな態度はとらないのである。善にはりつくのである。今の世の中は、すべてを相対化する流れの中で、善悪の判断基準自体が、グラデーションのようにあいまいになってきている。白なのか黒なのかという二者択一の判断を避ける。明確な善、明確な悪という判断を避ける傾向にある。まず私たちは、聖書を善悪の判断基準としたい。その上で、迷うことなく善の側につきたい。

出エジプト記32章に、心に残る記事がある。モーセは、エジプトを出たイスラエルの民たちが早々と偶像崇拝に陥り、金の子牛を造って肉欲的な快楽にふけっているのを見て、こう言った。「だれでも、主につく者は、私のところに」(26節)。「その子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ」(29節)。スポルジョンはこの記事から、「あなたはだれの側にいるのか」という有名な説教をしている。スポルジョンは語っている。「神と悪魔、善と悪、どっちつかずの中間的位置に立とうとすることは、悪の側にいることと同じだ」。「人はできれば、どちらの側にもつきたいとか、どちらの側にもかかわりたくないと思う」。「もし神の側にいないならば反対の側にいるのだ」。彼は、人は自分の利益によって動いていると指摘している。どちらが経済的に有利なのか、どちらが波風立たない生活を送らせる側なのか。ほんとうにそうだと思う。ある方と電話でロシアウクライナ戦争の話になったとき、なぜ一人の独裁者に大勢の兵士、国民が従ってしまうのかという話で、相手の方が、人は自分の利益で動く生きものだと話していたことを思い出す。また、スポルジョンは、人は恐れに左右されると言う。正しいことをしたいと思っても、たたかれるのを恐れ、それをする勇気がない。不正を避けたいと思っても、几帳面すぎると思われることを恐れる。これもほんとうである。恐れが善の側につかせない。スポルジョンは決断を迫る。「ぐずぐずした人にならぬように」「二つの中から一つを選ぶ決断をするように。中間はあり得ない。主の側につきなさい」。利益、恐れを振り払っても、主の側につく、善の側につく。堅物に思われても、そうする。

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い」~「兄弟愛」とは、もともと肉親の間に見られた優しい愛情を意味することばだった。ところがパウロはそれをクリスチャンコミュニティに適用している。なぜなら、私たちはキリストにありて家族とされているからである。兄弟姉妹とされているからである。兄弟のように見なそう、ではなく、事実、そうされている。神さまが天の父、そしてキリストが長子、私たちは兄弟姉妹。互いにキリストの血によって結び付けられている。霊の家族とされている。戸籍上はお互いに赤の他人でも、神の目にはそう映っていない。そうであるならば、「心から互いに愛し合いなさい」となる。

「尊敬をもって、互いに人を自分よりもまさっていると思い」~これも、兄弟愛と関係している。愛とは敬うことと言える。傲慢であればこれは無理であるが、互いにへりくだり、自分の足りないところに目をやり、お互いに、相手のいいところに目がいくような者になれたらいい。神さまが一番お嫌いなのは傲慢な善人であると思う。傲慢な善人が一番始末が悪い。自分は善人だと信じ込み、目立った欠点がないことをいいことに、その人は、自分の非を認めず、他人を容易に見下す。

「勤勉で怠らず」~ これは、数学や英語といった学問を一生懸命勉強しなさい、ということではない。また、日本人は勤勉であると言われるが、仕事に勤勉であるように、ということでもない。もちろん、そうするに越したことはないけれども。文脈では、クリスチャンコミュニティにおける態度のことについて言われている。「勤勉で」ということばは、原語で「熱心に」という意味をもつが、これは主と教会に仕える姿勢が熱心であることである。主と教会に我が身を献げる姿勢の熱心さである。黙示録3章15節を見れば、キリストはラオデキヤの教会に対して、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない」と非難している。キリストはその後、「なまぬるい」とも言っている。熱心ではないということである。「勤勉で怠らず」の「怠る」は、熱心さと反対のことばである。そうではないように、ということである。それは次につながる。

「霊に燃え」~「霊」とは何を意味するのか。ここでは「聖霊」とも取れ、「人間の霊」とも取れる。人間の霊と取っても、聖霊を除外する必要はないだろう。私たちの内側で主に仕える熱心が高まるというのは、聖霊の働きだからである。自分の内側が聖霊によって火のように燃やされることが期待されていることは事実である。聖書において、聖霊は火と結びつけられている。第一テサロニケ5章19節では「御霊を消してはなりません」という命令もある。人によっては、心の中で焚火をしているイメージをもってもいいかもしれない。いつも心が静かに燃えているイメージ。燃えているというよりもくすぶっているなと思うことが多いのだが、そのような時は主の助けを仰ぎ、信仰の火を掻き立てよう。イザヤ42章のキリスト預言では、3節において、「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」と言われている。キリストは、くすぶる燈心をあわれんでくださるお方である。

「主に仕え」~主に仕えなければならないことは分かっている、という私たちだが、「仕える」の意味を改めて考えてみよう。「仕える」の名詞が「奴隷」<ドゥーロス>である。奴隷は主人に対して午前9時から午後6時までと時間制限で仕えたり、ストライキを起こして契約内容を交渉したり、そういう身分ではない。人生全て主人の意のままにということで、全面的服従精神で仕える存在である。自分に権利を残すことを許されない。しかも奴隷は一般労働者と違って、二人の主人に仕えることは許されなかった。主人はあくまでもただ一人、二心は許されない。さらに奴隷の身分に定年制はない。65歳で終わりということはない。私たちは、主のしもべ、主の奴隷として、卒業とか引退とか、そういうことはない。奴隷は死ぬまで主人に仕える義務があった。私たちは最後の一息まで、主のために生きていきたい。

「望みを抱いて喜び」~この望みとは、神の栄光にあずかる希望である。5章5節では「この希望は失望に終わることがありません」とあった。クリスチャンに失望という文字はない。もちろん、日々の生活で思うようにいかず、そういう意味で失望は経験する。けれども、私たちは揺り動かされない栄光の御国を受け継いでいることは確かであり、このからだは朽ち去っても、栄光のからだに与る望みをいただいていることは確かである。私たちの未来は輝いている。それを忘れてはならにない。パウロは8章18節で、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」と言っていた。失望は悲しみを生むが、希望は喜びを生む。失望に未来はないが、希望には未来がある。

「患難に耐え」~希望は患難に耐えさせる。「耐える」は、「下にとどまる」という意味のことばである。モファットは、この個所を、「問題の中に、しっかりと立つ」と訳した。子どもの頃の遊びとして、近所の川を横断することをよくやった。一級河川の阿賀野川が家の近くに流れている。流れはけっこう速かった。その川を横断するのである。石で足をすべらせないように、流れに足をすくわれないように、しっかり立って、必死にふんばって一歩一歩進んだことを思い起こす(マネしないように)。ようするに、ここはふんばりの精神である。ゴールを目指してふんばるのと同じである。

「絶えず祈りに励み」~患難に耐える力は祈りから来る。祈りはクリスチャン生活の呼吸だが、山道を歩けば呼吸の回数が増すように、誘惑や困難を強く感じれば感じるほど、祈りはおろそかにできなくなってくる。祈りという呼吸を止めないようにしよう。それは衰弱を招いてしまう。意識して祈りに向かおう。一足一足、主に寄りすがる気持ちで祈ろう。

「聖徒の入用に協力し」~新改訳2017は「聖徒たちの必要をともに満たし」と訳している。「協力する」「ともに満たす」と訳される<コイノーニア>は、「交わること、分かち合うこと」を意味する。必要なものをともに分かち合うことが勧められている。協会共同訳は「聖なる者たちに必要なものを分かち」と訳している。神の家族は必要なものを分かち合い助け合う生活である。困窮している者がいれば、なおさらそこに心を配り、必要なものを分かつわけである。聖徒の交わりは、現実的な助け合いを含んでいる。初代教会の描写にこうある。「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有していた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」(使徒2章44,45節)。こうして、聖徒たちの必要をともに満たしていた。これは良い実例で、私たちも倣うように勧められている。

「旅人をもてなすことに努める」~新改訳2017は「努めて人をもてなしなさい」と訳されている。「旅人」ということばは外された。けれども、協会共同訳は「旅人をもてなすように努めなさい」と、「旅人」ということばを残している。それで、どういうことだろうと原文を見てみると、直訳はこうなっていた。「見知らぬ人(旅人、客)をもてなすことを追い求める」。どういうことか説明しよう。当時のローマ世界では、巡回伝道者のような人たちがいた。パウロもそうであった。また、迫害のために逃れてきた人たちもいた。所用で訪れてきた人もいた。ほとんどが見知らぬ赤の他人である。しかし角度を変えれば、神の家族である。兄弟姉妹である。初めて会ったクリスチャンでさえ神の家族であることには変わりがない。当時は宿の事情も悪く、こうした人たちを迎え入れ、協力するのは当たり前のこととして勧められたのである。ヨハネの手紙第三5節では、ヨハネはガイオという聖徒にこう述べている。「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行っているいろいろのことは、真実な行いです」。さて、現代の私たちがこの勧めをどう受け止めるかということだが、この勧めは、明らかに外部のクリスチャンが意識されているということを覚えたい。外部のクリスチャンであっても、家族であることには変わりがない。普段交わりのない外部のクリスチャンであっても、訪れたなら、その人たちのために、自分の時間、スケジュール、場所、物品を提供するということ。私たちの神の家族は全世界に、全日本にいる。

以上が、信仰者同士に重きを置いた愛の諸相である。14節から仕切り直しで、愛の諸相パート2が続くが、そこでは、世の人たちにどう接するかということにシフトしていく。次回はそのことを見よう。今日は「愛には偽りがなく」で始まり14の教えがあったが、それぞれが心に留めて実践していきたいと思う。