前回は、12章1,2節から、私たち罪人が神の深いあわれみによって救われたことと、そのあわれみのゆえに、そのあわれみへのふさわしい応答として、神への献身が勧められていることをご一緒に見た。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な(ふさわしい)礼拝です」(1節)。ここで「礼拝」と訳されている用語は、日常の奉仕全般を意味し、生きることは礼拝であるということを学んだ。それが献身の姿であるわけである。そして献身において献げられるのは、「あなたがたのからだ」とあるように、献身とは観念的なことではなく、からだを用いた具体的な行為である。

パウロは今日の区分で、賜物を生かした献身について話しているようなのだが、その前に、自己評価について語っていることに心を留めたい。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」(3節)。「思い上がり」とか「慎み深い考え方」という表現があるが、「神に我が身を献げて生きています」というときに、よく起きてくることは、自分は頑張っているのにあの人たちはというさげすみや、誰がより優れているのかという比較が生まれ、キリストのからだとしての教会の一体性が失われていくということである。互いに比較し競い合い、思い上がり、ねたみ、ひがみ、といった精神が闊歩することは好ましいことではない。

日本人の場合、思い上がった自己評価だけではなく、その反対のゆがんだ低い自己評価の問題が大きいかもしれない。「自分ひとりいなくなってもどうということはないでしょう」。私も、この低い自己評価の呪縛で苦しんで、生きている気力さえ失った時期がある。私たちという存在だが、神に造られた存在である。この腕時計は人間が時間を知る目的で人間が造った。人間のためにある。私たちという存在は、神のために神が造ったものである。神のために生きるという目的が人間にはある。私が悩んだのは、私は無能で神のためにも人のためにも役に立ちそうがないということであった。しかし、出発点は何ができるかできないかを思いめぐらすことではない。私たちはこの地上に生を受けた。もし私たちのために居場所なかったら、神はこの地上に私たちを誕生させなかっただろう。しかし、生まれてきた。そこには何か意味があるわけだが、まず私たちが覚えたいことは、私たちは神に愛されているということである。私たちは神に愛されている。その証拠に神のあわれみを受け、キリストの救いに与った。その神さまの愛とあわれみを覚えるなら、何もできないような私だけれども、神さまに我が身を献げて生きてきます、と思えるようになる。ある方は年齢も進み、体も壊し、ベッドに寝ているしかなくなった。けれどもその方は、何もできないようでも神さまのために祈れることを知った。そしてそれが自分の使命であると自覚し実践された。私たちは、神の愛とあわれみを知ることが大前提である。それを知れば、できることはわずかでもお役に立ちたいというエネルギーが湧いてくる。

私たちが救われたということは、キリストのからだである教会のメンバーともされているということである。賜物に関する今日のみことばは、そのことが前提として書かれている。神の愛とあわれみを受けとめ、神のためならどんな小さなことでもしていきたいという思いをいただいたのならば、自分の賜物を知るというステップに進みたい。賜物が一つも与えられていないということはなく、必ず一つは与えられているのである。私たちひとりひとりは個性的にデザインされている。それは性格や身体能力のことだけではなく、賜物ということにおいてもである。賜物は、生来の能力が聖霊によって賜物とされるということもあるし、信仰をもってから与えられるという場合もある。いずれ賜物というものは、神と教会のために、神がその人に与えられたものであるので、その賜物を各自がどう受けとめるかが大切になってくる。

3節前半に注目しよう。「だれでも、思うべき限度を越えて、思い上がってはいけません」。思い上がりのほうに焦点が当てられている。「思うべき限度を越えて」と言われている。自分の限度を知ることが大切なようである。自分の限度を知る人は次のように思えるだろう。「私は人より芸術系の賜物がある。けれども、それは神さまから預かった能力にすぎない。神と教会のために忠実に用いる責任がある」。「私の賜物は会計事務。計算は苦にならない。私はこれを用いて仕えてきた。けれども、もてなす賜物や、慈善の賜物は私にはない。私は自分の分をわきまえている」。こうした人たちは、思うべき限度を越えて思い上がってはいない。

パウロが願っていることは、3節後半で、「いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」とあるように、信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をすることである。「慎み深い考え方をする」は「思い上がる」ということばの反意語である。「私とあの人は同じ賜物を持っている。正直、私のほうがまだ上だわ。でも競い合うために、それらを用いるのではなく、同じキリストのからだを構成するメンバーとして、互いに励まし合って主のために用いていきたい」。慎み深い考え方をするために、大切なことは「信仰の量り」を用いることである。それは「この世の量り」ではない。信仰の量りを持てば、この世の人たちがするように、比較し合って、思い上がってみたり、ゆがんだ自己卑下に浸ってみたり、さばき合ったりする必要はない。

「信仰の量り」とは、言い換えると、キリストが願っているような受けとめ方をするということである。その健全な受けとめ方が、5節,6節前半に表されている。信仰の量りである健全な受けとめ方の一つは、5節の「私たちは、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官である」と受けとめること。私たちの肉体の器官を考えてほしい。それぞれが思い上がって自己中心になっていたら大変なことになる。心臓が血を独り占めにするわけにはいかない。胃は食べ物を独占するわけにはいかない。肝臓はからだ全体のために解毒の働きをし続けなければならない。からだの器官というのは、種類も形も働きもバラエティに富んでいて、目立つもの、目立たないものとあるが、それぞれが仕え合い、からだ全体のために機能している。昔は盲腸は要らない器官だと言われていたが、今は大切な働きをすることが分かっている。要らない器官というものはないし、互いに仕え合い、からだ全体の益となるように機能していく。優劣を競い合うとか、そういうのではなくて、互いに仕え合い、一つのからだであることを体現していく。一つのからだを作り上げていく。それが私たちの肉体である。キリストのからだの器官とされた私たち教会も同じであるということである。過去の教会の事例では、賜物が独り歩きを始め、教会の調和、一体性を壊したケースがある。自分のやりたいようにやりたい、他の人の意見には耳を傾ける必要はない。あの人はわたしにとって邪魔だ・・・。キリストにあって一つのからだであることを受けとめることや、一つの器官として自分の分をわきまえることや、他の人を尊重する姿勢を失うなら、烏合の衆で終わってしまう。騒ぎ合い、統率のとれない集団で終わってしまう。

信仰の量りである健全な受けとめ方のもう一つは、「与えられた恵みに従って異なった賜物を持っている」と受けとめること。「異なった賜物」とあるように、賜物の種類は様々ある。しかし、それらはすべて「与えられた恵み」なのである。「賜物」<カリスマタ>ということば自体、「恵み」<カリス>ということばから造られているが、賜物は神の恵みなのである。恵みであるわけだから、肉的な誇りの対象とすることはまちがっている。正直のところ、他人の賜物を見て、「あの人と同じ賜物、私も欲しかった」と思うときはあるが、それよりも、自分に与えられている賜物に目を留め、感謝し、それを用いることに腐心したほうが良い。また、「どうして私ばかり、こんなことをしなければならないの。他の人たちは楽そうなのに」と、不満を漏らしたくなることもあるだろうけれども、自分の賜物に集中しよう。肉体の器官を考えると、目は休む時間帯が長い。夜は目を閉じている。それに対して、心臓は休む時間なしで、ノンストップで百年近く動かなければならない。それぞれの器官で働きの種類も時間も異なる。目は楽なように見えて、もし目が働いてくれなければ、情報が入って来ないし、つまずいて頭を打ったり、足を骨折したり、とんでもないことになる。4節で「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きをしない」と言われているとおりである。私たちの場合も同じ働きをせず、多様であるわけだが、どれも必要であり、神の恵みでそうなっていることを忘れずにいたい。すべては恵みなのである。恵みなのに、思い上がったり、不満を抱いたり、苛立って人をさばいたり、ということに変化してしまうならば、恵みを恵みとしていないのである。

教会の中に位置づけられている私たちは、キリストとキリストのからだのために、恵みとして賜物が与えられていることを覚えよう。私たちがキリストのからだの一部とされているということにおいて、誰一人無用な人物はいないし、誰一人思い上がって自己満足の中に留まっていい存在もいない。

さて、私たちがどのような考え方に立ち、賜物を用いたら良いかということを押さえたら、次は、自分に与えられた賜物を知り、それを用いるということである。心臓は血液を全身に回す、胃袋は食べ物を消化する、目は開いて情報を入れる、おしりは安定して座る、というように、それぞれの器官が機能していけば、からだは健康になる。

賜物の発揮を、動物チーム対抗での運動会で考えてみよう。あるチームは、アヒルとうさぎとリスと馬とゾウと雀で構成されていた。アヒルは水泳が得意なのに、かけっこの競技に出ようとして練習し、水かきを痛めてしまった。うさぎはかけっこが得意なのに、水泳の競技に出ようと練習し、水の中で足をつってしまった。リスは木登りが得意なのに、マラソンを練習して、衰弱してしまった。馬はマラソンが得意なのに、木登りを練習して、足を骨折してしまった。ゾウは玉転がしが得意なのに、飛行を練習して崖から飛び降り、大怪我をしてしまった。雀は飛行が大得意なのに、玉転がしその他、地上の競技を練習して、羽を痛めてしまった。運動会当時の、このチームの結果は?

プエルトリコ出身のミュージシャンが実に良いことを語っていた。「私は、誰でも神さまから一定の役割を与えられていると確信していました。神さまについての考え方は人それぞれですが、私はそう思っていたのです。絵に才能がある人がいれば、演説のうまい人もいます。音楽的才能がある人もいれば、組織を作るのがうまい人もいます。でも残念なことにたいていの人は、自分にあった仕事をやらないで、まったく別な職業を選んでいるのです」。これは職業選択の話だが、参考になることばである。

私たちはもちろん、日常生活において自分の苦手なことに取り組む姿勢は大切である。ともに、自分に与えられている賜物という恵みを知ってそれを用いることは、もっと大切である。アーネスト・ヘミングウェイは言った。「自分の中に何が隠れているかは、それを取りだしてみようとするまでは誰にもわからない」。隠れているものは、やってみて現れる。自分に何もないということばを信じてはならない。特に、クリスチャンはそうである。阪神タイガースの4番バッターであった掛布選手は、高校時代、公式試合でホームランを一本も打ったことがなかったが、プロでホームランバッターとなった。何度か三振したからといって、それで自分は向いていないと決めつけるような姿勢でいたら、神に造られたデザインにそって歩めなくなってしまう。

神さまは私たちひとりひとりに、必ず賜物を与えておられる。それを知り、用いるのが私たちの責任である。それも教会というキリストのからだの一員として用いるということである。

では、6~8節から、賜物の種類を追っていこう。ここに賜物のすべてが記されているわけではないが、一般的な賜物が記されていると言ってよいだろう。

「預言」(6節)~預言とはことばを預かると書くが、神のことばを語る務めである。それが書き留められ、権威ある神の啓示の書である新約聖書に収められていった。神さまは、この賜物を通して、キリストの福音を解き明かし、教会を建て上げる。

「奉仕」(7節)。原語の<ディアコニア>はもともと、食卓に仕えることを意味した。しかし、こうした務めに限定する必要はない。コリント人の手紙第一12章5節では、「奉仕にはいろいろの種類があります」とある。それは、管理、事務、会計、作る、直す、飾る、きれいにする、運転、音楽、その他、多様にある。関心、興味があることの中にもある。奉仕の賜物は多くの場合、目立たないと言われる。肉体で言うと、まつ毛、つめ、足の裏、おしり等。これらの賜物は預言と比べると、目立たない、つつましい賜物である。平凡な賜物と思われているので、この与えられている賜物を、主からの恵みとして喜んで用いることがなおざりにされてしまうと言われる。女性の神学者マーバ・ドーンは語る。「奉仕をすることでよく起こる問題は、この賜物を与えられた人が、その賜物がいかに重要であるかを認めようとしないので、それをささげるのを躊躇したり、他の賜物を求めてしまうことです」。これは確かにそうである。ひとりひとりが重要な存在であると同時に、ひとつひとつが重要な賜物なのである。その賜物を軽んじ、用いないというのは本来の在り方ではない。

「教える」(8節)~初代教会時代、書物は少なく、教育を受けた人もわずかであった。教育の賜物をもつ人がみことばに立った教育を施した。パウロはこの賜物を豊かに持っていた。教育と言っても、幼児、青年、成人というように対象があるし、その教える内容も様々。

「勧め」(8節)~原語の<パラカローン>は、「勧告する、励ます、慰める」という意味がある。励ましの賜物と言ってよい。バルナバがこの賜物を豊かに持っていたかもしれない。カウンセリング、コーチングといったものも、ここに入るだろう。

「分け与える」(8節)~他者の必要に応える賜物である。初代教会時代、貧しい人々が大勢いた。これらの賜物を持つ人たちによって助けられたはずである。この賜物を持つ人たちは「惜しまずに分け与える」ように言われている。「惜しまずに」ということばは、「単純に」という意味も持つことばである。やましい心からではなく、裏の動機、秘められた動機からではなく、単純な心で、相手を気遣う思いだけで、分け与える。

「指導」(8節)~リーダーシップの賜物である。この賜物を持つ人は、やる気を失うことなくポジティブに、「熱心に」指導することが勧められている。

「慈善」(8節)~福祉系の賜物である。病んでいる人、苦しんでいる人、困窮している人、そういった人たちに仕える賜物である。人の痛みに敏感で、お世話が上手。この働きは不愉快な仕事を含んでいる。だからこそ、不愉快そうにやるのではなく、「喜んで」するように勧められている。

以上、賜物について見てきた。ご自分の賜物が何であるか、自覚しておられるだろうか。では、しばらくの間、ひとりひとりが主の前に静まり、与えられた賜物を確認する時、その賜物のゆえに感謝する時、その賜物を生かして主と教会に自らのからだを献げます、と表明する祈りの時を持とう。