ローマ人の手紙は、12章より新しい内容に入る。パウロは11章までキリストの「福音」について語ってきた。12章から、それを受けて、キリスト者生活について語っていく。具体的な生活である。福音を信じた私たちの生活はどう変わるのが本来の姿なのだろうか。キリスト者になると、不思議と神さまのためにどのように生きたらいいだろうかと考えるようになる。それは健全なことである。パウロは今日の箇所で、神への献身を勧めている。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」(1節a)。「お願いします」を新改訳2017では、「勧めます」と訳しているが、このことばは「勧告する」という意味をもつことばである。「できればそうしてください」というお願いではない。もっと強い勧めである。つまり、神への献身はキリスト者にとって当然のライフスタイルであるということである。

私たちが神に対して献身する動機は何だろうか?これが今朝、強調したいことである。それは「神のあわれみのゆえに」である。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」(1節a)。パウロは神のあわれみを1~11章で語ってきた。それは罪人に対する神のあわれみである。パウロは、「あなたがたは、かたくなさと悔い改めない心のゆえに、御怒りの日、すなわち神の正しいさばきの現れる御怒りを、自分のために積み上げているのです」(2章5節)と語っていた。私たちは人生において罪を積み上げ、罪に対する御怒りを積み上げてきた。しかし、神はそのような私たちをあわれみ、尊きひとり子イエス・キリストをなだめの供えものとしてくださり、十字架の上で罰してくださった。キリストは全人類分の罪を一身に受け止め、凄惨で胸を痛める刑を私たちに代わって受けてくださり、尊き血を流してくださった。そして死んでよみがえってくださった。このキリストを信じる者に、罪の赦しと完全な救いが与えられる。私たちは、この神のあわれみを受けた。前回学んだ11章30節を見れば、かつては神に対して不従順であった私たちが神のあわれを受けたことが言われている。この神のあわれみを「恩」ということばで置き換えるならば、私たちが何もしないでいるならば「恩知らず」でしかない。私たちが神の恩に報いようとしても、報いきれないほどのことを神はしてくださった。私たちは、このことをよくよく考えてみるべきである。

次に、献身の根拠について考えよう。献身の根拠は何だろうか。それはすでに、私たちが神の所有とされているということである。パウロは6章において、私たちは罪の奴隷であったけれども、罪から解放され神のしもべとされた事実を語った。私たちは誰のものでもなく、神のものとされている。私たちは神に献げることによって神のものとなるのではなく、すでに神のものとされているので、当然、自分のからだを主なる神に献げるのである。パウロは第一コリント6章19,20節でこう語っている。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものでないことを知らないのですか。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」。私たちは罪の下に売られていたが、キリストの血の代価によって買い取られ、すでに神のものとされているのである。神のものとされているから神に仕える。私たちのからだはもはや罪に仕えるためにあるのではない。

では、私たちは何を神に献げるのだろうか。それは今も述べたが、「あなたがたのからだを」(1節b)とあるように、自分のからだを献げるのである。パウロは「あなたがた自身を」と言わずに、わざわざ、「あなたがたのからだを」と言っているのは、今までの流れを観察すると、罪に献げられてきたからだが意識されていることはまちがいない。私たちは罪を犯すために目を、耳を、口を、手足を用いてきた。けれども、これからはそうであってはならない。昔良く教会学校で歌われた「ふくいん子どもさんびか」68番の歌詞は印象深い。歌詞の一部を紹介しよう。

一番「ちいさいわたしのては イェスさまのよろこぶしごとを するためにある

わたしのすべては イェスさまのもの じゅうじかでしなれた イェスさまのもの

四番「ちいさいわたしの ふたつのあしは かみさまのみちを あるくためです

わたしのすべては イェスさまのもの じゅうじかでしなれた イェスさまのもの」

 

単純な歌詞だが、真理を説いている。では、どのように献げるのだろうか。「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」(1節b)。「神に受け入れられる」を新改訳2017では「神に喜ばれる」と訳している。「受けいれられる」の原語<エウアレストス>は、賞味期限も怪しいし、生産地もどこだかわからなし、添加物も何が入っているかもわからない食品だけれども、カビは生えていなし、とりあえず食べれそうなので、どうにか食材として受け入れてもらえた、といった程度のことばではなくて、より積極的な意味合いがあり、「喜ばれる」とか「満足を与える」という意味のことばである。

では、そのような神に受け入れられる献上品とは何だろうか。「聖い」と言われている。旧約時代、祭壇に献げるいけにえは、傷のないもの、すなわち聖いものでなければならなかったことを思い起こそう。また「生きた供えもの」と言われている。死んではいない。キリストは黙示録3章で、サルデスの教会についてこう語った。「あなたは生きているとされているが、実は死んでいる」(3章1節)。名目上のクリスチャンになってしまっていたということである。そうして悔い改めを迫った。結局、からだを献げる私たちの霊性が問われていることがわかる。いくらからだを石鹸できれいに洗っても罪を温存していたら意味をなさない。自分の罪に気づいたら、絶えず悔い改め、キリストの血潮によるきよめにあずかることである。

このようにして我が身を献げることが、「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(1節c)と言われている。「霊的な」は新改訳2017では「ふさわしい」と訳されている。心に留めたいことは、パウロは神への献身を語るのに、それを「礼拝」と結びつけて語っているということである。礼拝を意味することばは幾つかあるが、ここでは<ラトレイア>ということばが選択されている。このことばは主の日の礼拝に限定されず、神に仕える奉仕全般を意味することばである。私たちはすべての日々で神に仕える姿勢をもつわけで、日常生活すべてが礼拝行為となる。生活すべてが礼拝である。生きることは礼拝なのである。「あなたにとって生きることは?」と質問されて、「食べること」と答えるのもいいかもしれないが、「生きることは礼拝です」という答えを持ちたい。主日のこの時間だけが礼拝なのではない。生活すべてが礼拝なのである。もちろん、神への献身の生活を送るということにおいてである。

次に、2節から、神に喜ばれる礼拝の三つの秘訣を見ていこう。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」。

神に喜ばれる礼拝の第一番目の秘訣は、この世と調子を合わせないことである。この世と調子を合わせていたのがサルデスの教会の人々だっただろう。「この世と調子を合わせてはいけません」(2節a)。これは現在時制の禁止の命令なので、すでにしていることをやめるようにという命令である。すでにしていることでやめたほうがいいことがあれば、やめることを神さまと相談してみよう。また、やめられるように神に願ってみよう。調子を合わせてはいけない「世」であるが、パウロやヨハネが「世」というとき、良い意味で使われていないことが多い。パウロは第二コリント4章4節で、悪魔を「この世の神」と呼び、ヨハネは第一ヨハネ5章19節で、「世全体は悪い者の支配下にある」と言っている。だから、世には神と対立する価値観がある。多勢を占める価値観だからといって、それだから神が承認される価値観とは限らない。それに合わせたり、染まったりしてはならないわけである。それはこの世の神に従ってしまうことである。キリストが私たちに対して、世の光になるように命じていたことも思い出したい(マタイ5章14~16節等)。世の光というのは、この世は暗いということが前提としてある。「この世と調子を合わせてはいけません」を直訳すると、「この世と同じかたちをとってはなりません」となる。「かたち」<スケーマ>は、外側に表れる態度を意味するものとして捕えてよいだろう。私たちの生活態度、生活様式といったものが、この世に倣ってしまってはならないということである。それは、毛皮を身にまとって原始人のように生活せよとか、電化製品も使ってはならないということではなく、すなわち、聖書の価値観とは合わないこの世の物質主義、快楽主義、成功主義に浸かったり、宗教はどれも同じよといった、この世の宗教混交主義を受け入れた生活様式に倣ったり、そういうことはいけないということである。

神に喜ばれる礼拝の第二番目の秘訣は、神のみこころは何かを吟味することである。「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ(神に喜ばれ)、完全であるのかをわきまえ知るために」(2節b)。「わきまえ知る」を新改訳2017は「見分ける」と訳している。「わきまえ知る」「見分ける」と訳されていることば<ドキマゼイン>は、「吟味する」ことを意味する。神のみこころを吟味することは、この世と調子を合わせない姿勢との裏返しであることがわかる。先に述べたように、多勢を占める価値観だからといって、それだから神が承認される価値観とは限らない。吟味が必要である。一見正しいように思えても、悪魔は真理の大海に一滴の毒を混入することさえするので、吟味が必要である。吟味の手立てとなるのは、真理である神のことばであることは言うまでもない。

神に喜ばれる礼拝の第三番目の秘訣は、聖霊によって自分を刷新する。文法において、2節の勧めの中心は、「心の一新によって自分を変えなさい」である。訳語だが、新改訳2017は「心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい」となっている。大きな訳の違いに気づかれただろうか。新改訳第三版は「自分を変えなさい」で、新改訳2017は「自分を変えていただきなさい」。どうして、このような訳の違いが生まれてしまったのだろうか。少しだけ説明させていただく。一般の言語の動詞は二つの態しかない。一つは能動態(自分がする)。もう一つは受動態(してもらう、していただく)。しかしギリシャ語には、普通の言語にはないもう一つの態がある。それが中道態。中道態とは、能動態と受動態の中間の態。この2節は、実は、中道態にも受動態にも、どちらにも訳しうる動詞の変化になっている。新改訳第三版は中道態で訳し、「自分を変えなさい」。新改訳2017は受動態で訳し、「自分を変えていただきなさい」。近年は、受動態と解して、受け身で訳したほうが良いという見解が増えている。「自分を変えていただきなさい」と、そこに私たちを変えてくださる聖霊の働きを見る。しかし、中動態で訳したからといって、自力で自分を変える努力をしなさいという、ただの自力の勧めにはならない。中道態とは、自分にその意志はあるけれども、力がないので、他の者の力に自分をまかせて、その力によって自分の意志を成し遂げようとする場合に用いる。中道態と受けとめても、意味的には受動態の意味をもっていることに気づかれただろう。パウロは、信仰生活とは自力ではなく、キリストの御霊による歩みであることを、これまで教えてきた。私たちは自分を変えようという意志をもつことは当たり前ながら必要である。しかし、その力がないことを知って、主に祈り、御霊の助けを求めるわけである。

私たちは、ローマ6,7章において、生まれながら罪人である私たちは、自分のうちに罪に打ち勝つ力、律法を行う力がないことを学んだ。同時に、私たちはキリストに結び合わされたので、私たちにできないことをキリストがしてくださることを学んだ。キリストが私たちの力となり、聖さとなり、忍耐となり、愛となり、すべてのすべてとなってくださる。ローマ8章からは、キリストがしてくださるとは、私たちのうちに住むキリストの御霊の働きなのだということを学んだ。私たちは御霊に導かれて歩む。御霊が私たちを変えてくださる。私たちを変えてくださるのは、御霊なる主の働きである。「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これは、まさに御霊なる主の働きなのです」(第二コリント3章18節)。私たちは御霊なる主の働きによって、主と同じかたちに変えられ続けるのである。「自分を変えなさい」また「自分を変えていただきなさい」と訳されている動詞は、継続を表す現在形の命令文となっている。私たちは変えられ続けて成長するということである。

さて、御霊なる主の働きに、何よりも与らなければならない部位は、私たちの心である。すべての変革は心から始めなければならない。「心の一新によって」「心を新たにすることで」と言われている。心の変革である。私たちは変わろうという意志を持つことは大切である。私たちは罪を犯した時、自己嫌悪に陥り、悔い改めといったことが起こり、私の心をきよめてください、といった願いが起こるだろう。ダビデも罪を犯した時、罪を取り去ってくださいという祈りとともに、こう祈った。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩編51篇10節)。「自分を変えなさい」「自分を変えていただきなさい」の「変える」<メタルフーマイ>は、しばし、内側からの変化を意味するのに用いられる。心の変革である。それをしてくださるのが聖霊である。

一人の少年が花のつぼみを開こうと試みていた。彼は一生懸命努力したが、その花は彼の手に落ちた。彼はいらだち母親にこう尋ねた。「神さまがつぼみを開こうとすると美しく咲くのに、どうして僕がつぼみを開こうとすると、ばらばらになっちゃうの?」彼の深みのあることばに、母親はことばが出てこなかった。間もなくして、少年は熱く、こう語った。「わかった!神さまは花を開くとき、それを内側から開くんだ」。この少年は大人顔負けの神学者である。神さまは私たちの内側に聖霊を通して働きかけてくださる。私たちも、そのことを期待しよう。

最後に、神への献身と内側からの変化ということで、「ディボーション」について触れて終わらせていただきたいと思う。一日の初めに、主の前に静まり、祈りとみことばの時であるディボーションをもつことが尊ばれているが、ディボーションということば自体、献身を意味する。私たちの全存在を神に明け渡すこと、献げることを意味する。このディボーションの時間に、私たちは静かな主の語りかけを受け、内側から取り扱われる。ディボーションでローマ人の手紙から神の語りかけを聴いているとしよう。くり返し同じ失敗を犯す私たちは、どうしたら自分を十字架につけることができるだろうかと悩んだりする。しかし、「すでにキリストとともに十字架につけられた私」という気づきが与えられるようになる。それだけではなく、「キリストとともによみがえった私」という見方もできるようになる。このように、キリストとの合一という新しい立場を確認するのがディボーションの場となる。森谷正志先生はこのことを次のように述べている。「一日の初めにこのことを主の前で確認し、自覚して一歩踏み出すことです。そのために何時間ものときを必要としません。外側に現れる正しさを軽視してはなりませんが、しかし順序を逆転させてはならないのです。まず内側、霊的なことの確立が最優先されなければなりません。私たちの思考の領域が変えられることによって、私たちの外側が変わります。内側、霊的なことに無関心で、外側の正しさをとりつくろうとするなら、それはイエス様が最も厳しく警告した忌まわしい偽善行為となってしまいます。またそのようなクリスチャン生活は決して長続きせず、やがて疲れ、崩壊します」(「パラダイムの転換」いのちのことば社)。私たちは、このように崩壊まで至ってはならないのである。内側、霊性の確立が最優先である。

私たちキリスト者の生活の出発点は、「神のあわれみのゆえに」が暗示しているが、十字架を仰ぐことにあると思う。心で十字架を仰ぐ。私たちは日々、ディボーションを通して十字架を仰ぎ、神のあわれみを認識し、またキリストにある新しい立場に思いを潜め、聖霊の助けを祈り、日々、神の栄光のために歩んでいきたいと思う。